彼と猫の秘密
夕暮れ時。もしくは、 逢魔ヶ時とも呼ばれる時間。
笠置はひとり、お堀に面する道路に立っていた。
時折家路を急ぐ人が通るくらいで、静かな通りだった。
今月の始め頃は、対岸に植えられたたくさんのソメイヨシノが花を咲かせ、ライトアップがなされていたため多くの人が訪れていた。だが今は、そのライトも片付けられてしまったので薄暗い。
笠置の手には、ここに来る途中神社で拾った手の平サイズの石が握られていた。
辺りに人影がないのを確かめて、笠置は石をおもいきり川の中に投げ込んだ。
水の音が聞こえると思いきや、聞こえたのは人の声だった。
「いてっ!」
お堀の中にいる人に石は当たったらしい。
程なくして、ザバッ、という水音とともに川の中から何かが飛び出してきた。
飛び出してきたそれは、笠置に向かってまくしたてた。
「やいやいやいやい! 川にものを投げ込んではいけません! 危ない……」
とそこまで言って、それははっとしてくるっと回れ右をする。
そこに、笠置がグローブをした左手を上から下に振り下ろした。すると、グローブに仕込まれた糸が飛び出し、それに巻き付く。
笠置が左手を動かすと、それは道路に倒れた。
「わー! ごめんなさいごめんなさい! もうしませんから、ひどいことは……」
大きさは小学校低学年くらいか。緑色の肌に、亀のような甲羅。それに頭に乗った皿。
笠置はおもいきり甲羅を踏み付けると、
「河童。何度目だそれ」
そう、冷たく言い放った。
河童。古来より水辺に住む妖怪。
河童と呼ばれたそれはバタバタと足を動かして声を上げる。
「ごめんなさいごめんなさい! だって俺達妖怪ですし、俺達人間脅かすの大好き……ぎゃー!」
笠置は甲羅をがんっと蹴りつけ、静かに告げた。
「消えたいの?」
「すみませんすみません! しませんから! もしかして、神社の狛犬どもをここに引きずり込んだの怒ってます? いいじゃないですか、妖怪なんだから……って、わー!」
笠置は、甲羅を踏み付けたまま、左手を動かし河童に巻き付いた糸を締め上げた。
「しません、しません。狛犬の双子にも手を出しませんから許してください!」
昼間。
神社の双子、もとい狛犬の一葉と二葉が半泣きでやってきた。
昨夜、河童にお堀に引きずり込まれたという。
河童はいたずら好きだ。
一切のいたずらを禁じるつもりはないが、人が水に引きずり込まれれば、下手すると死ぬ。
お堀の河童たちは、桜のライトアップが終わると、俺達の出番とでも言わんばかりに、人や他の妖怪たちにいたずらし始めるのだった。
すぐ側に神社があるせいか、狛犬たちは良くターゲットにされて、そのたびに笠置に泣きつくを毎年繰り返していた。
「あのー」
「何」
抑揚のない声で言うと、河童がビクッと体を震わせる。
河童は遠慮がちに、
「その足をどけていただけませんでしょうか」
へりくだって言う河童から足をどけ、笠置は糸をほどいてやる。
河童は立ち上がり、ぶつぶつと呟いている。
「まったく最近の人間は本当に乱暴なんだから……」
「何か言ったか」
「ひー! ごめんなさい、ごめんなさい!
でもですよ、俺たち河童は元来いたずら好きですしおすし……」
いろいろと言う河童をじっと見つめると、何も言っていないのに、河童は急に慌てだす。
「いやいや、ほんとうにやりませんから! でも前にも約束したように、人間相手じゃなければいいんですよね」
笠置が何も言わずにいると、河童はゆっくりと後ずさりながら、
「じゃ、じゃあな!」
と言って、お堀の中に戻って行った。
水の音とともに、何やら話し声が聞こえたが、すぐにいつもの静かなお堀になった。
河童が去り、夕闇のなか、ひとり笠置は佇んで、ズボンのポケットの中から煙草を取り出した。
「路上喫煙は禁止じゃないのかい」
老女の声がきこえ、笠置の手が止まる。
大きな三毛猫が、ゆったりと笠置に近づいてくる。
猫、お銀さんは笠置の足もとまで来ると、じっと彼を見上げた。
「喫煙者にはほんと、肩身の狭い世の中だねえ」
お銀さんは言いながら、尻尾をぱたぱたと振った。
しかたなく、笠置は煙草をポケットの中に戻す。
「言うこと聞くかねえ」
言いながら、猫はあくびをした。
肩をすくめお堀のほうへと視線を向ける。
たぶんきっと、しばらくすれば妖怪相手ではなく人相手にいたずらを仕掛けるようになるだろう。
結局はいたちごっこ。
彼らは懲りない。どうせ夏祭りを過ぎたころ、何やら騒ぎを起こすだろう。
それがいつものパターンだった。
携帯電話をポケットからだし、時間を確認する。
もうすぐ7時だ。笠置はお堀に背を向けて、早足で店へと戻った。
店ではちょうど閉店作業を始めていた。
アルバイトの玲奈が、ドアを開け、「CLOSE」の札をかけようとしているのが見える。
彼女は笠置に気が付いて、笑顔で言った。
「お帰りなさい」
「ただいま」
と言った後、じっと玲奈を見つめ、一言言った。
「お堀には近づくな」
それだけ言って、笠置は店の奥へと進んだ。
いつも引きこもっている部屋に戻ると、猫が音のなくソファーに乗った。
「もう少し愛想よくしたらどうなんだい」
猫の呆れた声が聞こえる。いつもの席に座って、笠置は頭に手をやる。
「あれしか言わなかったら何にも伝わらないだろう」
「甲斐が言うから大丈夫」
そう笠置が答えると、お銀さんは尻尾をぱたん、と上下に振り、
「だから甘えすぎなんだって」
その後、お銀さんにしばらく説教された。それを笠置は何もいわずただ聞いていた。
物音で玲奈が帰ったことを確認し、笠置はくどくどと言い続けるお銀さんを置いて、部屋を出た。
店頭のレジを操作し、1日の売り上げレシートをだしてチェックする。
甲斐がまだいて、オレンジ色の明かりの中、商品の補充をしていた。
彼の背中に向かって、笠置は声をかける。
「そんなの俺がやるから帰ればいいのに」
笠置は、レシートをノートパソコンの横に無造作に置き、カウンターを出る。
甲斐は笑って、
「だって、あの一画以外は笠置さん、センスないんですもん」
という。
あの一画。
店の右手奥にある、完全に笠置の趣味のものが置いてある売り場だ。
あそこだけはいつも笠置が売り場を作っていた。
「昼間、あの子が商品取りに来たけど」
言いながら、笠置は奥の一画へと向かう。
先日自分がレイアウトした時と多少変わっていた。
あの大きな十字架が売れ、空いたスペースにワイングラスが置かれ、飲み口のところにネックレスが3つ垂れ下がっている。
真ん中に、青い石に羽根がついたネックレス。
右側に五芒星の中央に紅い石がついたネックレス。
左側に、十字架に王冠がついたネックレス。
グラスの下には赤いバラの造花が3つ飾られている。
それ以外にも少しいじられていた。
「へえ……」
思わず感嘆の声を上げる。
自分とはまた少しセンスの違うレイアウト。
女の子らしい感性とでもいうのだろうか。
「あ、それ杉下さんがやりました。センスありますよね」
甲斐がやるわけがないことくらい一目でわかる。
彼とは長い付き合いだ。
小物の使い方にしても、商品の置き方にしても、甲斐とは全く違う。
「感心してますよね」
茶化すように言う甲斐に、笠置はなんの反応も示さない。
「商品の入れ替えの時、またやってもらおうと思います。
そうそう、その羽根がついたやつ、杉下さん、綺麗だって言ってましたよ。
似たようなの、持ってましたよね」
少しデザインは違うが、青い石に羽根がついたネックレスを笠置はもっていた。
仕事の時はあまり身に着けないが、プライベートなときは身に着けることがある。
気に入っているものの一つだった。
無駄口ばかりの甲斐に近付いて、笠置はもう一度言った。
「早く帰ったらどうだ。お前の親に睨まれたくはないんだけど」
「ははは。大丈夫ですよ。ここで働くことについてはもう認めてますし。
やっぱり、母は手作りの品が人に認められたのがうれしいみたいですからね」
言いながら、甲斐は立ち上がった。
彼は笑顔で言った。
「僕は感謝してるんですよ。
あのままだったら……僕はただ作られた道を歩き続けるしかなかったですし。
市内で1、2を争う神社の跡取りでしかなかった僕をここに引きずり込むとか、普通やらないですよね」
「……必要だったから巻き込んだ。
ちょっとだけ、悪かったかな、とは思ってる」
そう言って、笠置は視線をそらす。
感謝しているとか面と向かって言われると恥ずかしく思う。
「とりあえず母親を味方につけたことで、父や弟も何も言わなくなりましたし。
ひとり暮らしをちらつかせたら慌てましたからね。
あ、でも、バイトが増えたってことは、僕、休まざる得なくなることが増えると思いますけど、いいんですか?」
そもそもバイトを雇おうとした理由の一つは、甲斐の実家のことがあるからだった。
甲斐の実家は大きな神社で、夏祭りは、この神社の神様のために行われていた祭りが元だと言われている。
年末年始にはたくさんの参拝客が訪れ、結婚披露宴ができるホテルも併設している。
そんな神社の跡取りをいつまでもここにしばりつけておくわけにはいかない、と言う思いがあるが、そのことを甲斐にはまだ話していなかった。
何も言わずにいる笠置に、苦笑して、甲斐は言った。
「何考えているかはわかりませんが、僕、しばらくはやめませんからね」
「お前、いつまでこの子を甘やかすんだい」
今までカウンターの上にすわり様子をうかがっていたお銀さんが、呆れた声で言う。
甲斐は猫に視線を向けて、
「だから僕は笠置さんよりだいぶ年下だと言ってるじゃないですか」
そう答えると、お銀さんはふん、と言って
「私にしてみたら5歳違いも10歳違いも小さな差でしかないさ」
と、どや顔で言う。
「お銀さんおいくつでしたっけ?」
「女性に年齢を聞くんじゃないよ!」
おどけた声でいう甲斐に、お銀さんはそっぽを向いてそう言った。
そんなやり取りを横目に、笠置はカウンターに戻って売り上げの確認をする。
時計の音が8回鳴り響く。
「あ、もうこんな時間。笠置さん、飲みに行きません?」
珍しいことを言われ、笠置は目を瞬かせる。
「え?」
甲斐はカウンターから身を乗り出して言った。
「ご相談したいこともありますし。いいですよね」
そのあと半ば強引に、笠置は駅前の飲み屋へと連れ出された。




