ふたりきりの部屋
玲奈が早めに休憩を切り上げて店頭に戻ると、蛇のような顔をしたスーツ姿の男が、笠置に殴られていた。
「だから噂だって言ったじゃないですか。っていうかなんか僕ばかり殴られている気がするんですが」
蛇顔男は、殴られた頬をさすりながら抗議の目を笠置に向けている。
双子がそっぽ向いている様子を見ると、なにか噂を広めたのかもしれない。
「蘇芳」
「なんです?」
「今度言ったら殺す」
他に客がいないとはいえ、なかなか物騒なことを言う。
蘇芳とよばれた男は、なんで僕ばかり……とぶつぶつと文句を言っている。
「とりあえず蘇芳はあれだよ。タイミング悪いよ」
「そうだよ蘇芳。今日は帰った方がいいよ。笠置さん、甲斐さんのお父さんから電話かかってきて超機嫌悪いんだから」
それを聞いて蘇芳は何か察したらしく、後ずさりし始める。
「まあ、僕はおきぬさんと結衣さんに頼まれたものおきに来ただけなんで。じゃ!」
と言って、疾風のごとく店を出て行った。
「おきぬさんと結衣さん、蘇芳をお使いに使うなんてさすがだよね」
「だって蘇芳ってあれでもあれでしょ? ツチノコだっけ? 手足に使うなんてさすがだよね」
双子の会話にツチノコってなんだっけ、と思いつつ笠置のほうを見た。
とりあえず気にするのは後回しにして、あからさま不機嫌な顔をしている彼に声をかけた。
「あの、私いるんで奥で休んでてください」
すると、笠置は首を横に振る。
「時間、早くない?」
「言うこと聞いていただけないと、甲斐さんに報告します」
言われたことを無視して、無駄かもと思いつつそう言うと、彼は頭に手をやった。
仕方なさそうに、
「あと、頼む」
とだけ言って、奥へと消えて行った。
あれ、大丈夫だろうか。そう思いつつ、店長の背中を見送る。
双子は顔を見合わせて、
「あれ追いかけたら僕たち絶対殺されるよね」
「そうだね。僕たちのお昼についてとりあえず話し合おうか」
「でもふたりでいったら玲奈ちゃん可哀そうじゃない?」
「可哀そうってなに」
双子にそう問うと、顔を見合わせて、
「ひとりじゃ大変かなと思って」
と声をそろえた。
「僕たちちょっとくらいご飯食べなくても大丈夫だけど」
「もとは石像だもんね」
そうか。この子たちも人ではないのか。
双子は寛永がどうのとか元禄がどうのとか話している。
日本の元号について玲奈は詳しくないが、たぶん江戸時代の話だろうな、くらいはわかる。
つまりそのころに生まれた、と言うことだろう。
結局二人は交互に奥に引っ込んで、差し入れにもらったお菓子を食べた、とのことだった。
昼過ぎになり、黒い雲が空を覆うようになっていた。
ごろごろという音が遠くに聞こえる。
店長は結局戻ってこなかった。
一葉がこっそり様子を見に行くと、激しい音楽をかけたままソファーで眠っている、ということだった。
店内の柱時計が、5時半を告げる。その頃雷の音とともに大粒の雨が降り出した。
店の前を、人々が走っていくのがみえる。
「うわー降りだしちゃった」
若い女性客が、店の外を見て言った。
「傘ないし……あ、傘ってあります?」
「あ、はい。ございますよ」
「僕案内するよ!」
と、二葉が手を上げる。
500円程度のリーズナブルな折り畳み傘や、日本刀を模した傘などが商品として置かれている。
時期も時期なので、晴れ雨兼用の傘も陳列されていた。
女性はすこし変わった傘を見て、なにこれと笑った後、空色に雲が描かれた傘を選んで購入した。
「この傘きれー」
と言って、女性は笑顔でその傘をさして帰って行った。
「お客さんが笑顔になるとたのしーね」
「うん、たのしーね」
双子が笑顔で言い合っている。
その後もいくつか傘が売れたので、双子に商品の補充をしてもらった。
雷はすぐ去って行ったけれど、雨は降り続けた。
閉店時間を告げる鐘が鳴る。
閉店作業を済ませて玲奈は双子に礼を言った。
「二人ともありがとう。助かったわ」
すると、双子はえへへ、と笑いあう。
「じゃあ、僕たち帰るから」
「笠置さんよろしくね」
ああそうだ。忘れかけていた。
玲奈は双子に手を振った後、エプロンを片づけて奥の笠置の部屋に向かった。
一葉の言うとおり、激しい音楽が大音量でかかっている。これは店頭でかかっている有線と同じものだろう。
ドアをそっと開けると、店長は客用のソファーで寝ていた。
とりあえず、音楽を止め、玲奈は笠置に近づいた。
癖のある黒髪。真っ白な顔。けっこう整った顔をしているのだな、と改めて思う。
身長がさほどないのがネックだが、この顔ならもてたのではないかと思う。
ソファーの前に座り、玲奈は笠置に声をかけた。
「てんちょー。起きてください」
笠置は身じろぎもせず、ずっと寝息を立てている。
仕方なく手を伸ばし体を揺さぶる。
「店長。笠置さん、起きてください。もう7時過ぎてます」
「……ん……」
うっすらと目が開いたかと思うとまた閉じてしまう。
「えー? ちょっと、起きてくださいよ! このままここで寝られましても、また風邪ひきますよ!」
必死に声をかけると、また目が開く。
彼は額に手をやって、かすれた声で言った。
「何時……?」
「えーと、待ってください……7時20分を過ぎたところです」
「……そう……」
言いながら、彼はゆっくりと体を起こす。
「あの、大丈夫ですか?」
そう問うと、彼は頷いた。
嘘だ。
彼はソファーに座ったまま動かずにいる。
普段なら玲奈に帰れ、の一言を言うだろうけれど、今日は黙っている。
と言うことはやはり大丈夫じゃないということだ。
玲奈は笠置を見上げて言った。
「手、貸しましょうか?」
それに、彼は何も答えない。ただ、ちらっと、玲奈を見ただけだ。
「顔真っ白ですし、今立てないんじゃないですか?」
すると、彼は小さくうなずく。
あ、認めた。
そう思い、玲奈はさらに言った。
「あの、さすがに心配ですし、部屋までお送りしますよ」
「……それは……」
と言ったまま、彼は黙ってしまう。
その表情から何も読み取れない。
玲奈は甲斐に言われた以上、上まで届けるのが責任であると思っていた。
あのあと来たメールを見たら二次会に出席しなくちゃいけないだの、早く帰りたいだの愚痴が随分送りつけられてきていた。
大人なのだから頑張れ。
と返せば、次に来たのは笠置のことだった。
店長のことは任せてください。
と返した以上、ベッドにまで送らないとやばいことになりそうな気がする。
しばらくすると、笠置は玲奈のほうを向いた。
彼の顔は血の気のない、真っ白な顔だった。
「すまない」
とだけ、彼は告げた。
たぶん、手を貸してほしい的な意味合いだと捉え、玲奈は立ち上がって、手を差し出した。
笠置はその手を掴むと、よろよろと立ち上がる。
世話の焼ける大人だな、と思いつつ、ゆっくりと歩きだす笠置の後をついて行った。
「ひとつ聞いていいですか?」
「なに」
「今日、朝食以外何か食べました?」
答えは沈黙だった。
ああ、食べてないのか。ということは、薬も飲んでないのだろうなと思う。
二階に上がるのは二度目だった。
リビングを通り、笠置の寝室へと入る。
彼の部屋はたぶん8畳くらいだろうか。
物が少なく、ベッドとベッドサイド、オーディオ機器が置いてあるだけだった。
「杉下さん」
ベッドに座った笠置は、玲奈を見上げて言った。
初めて呼ばれた気がする。
「はい、何です」
「それ、洗って来てもらっていいかな」
そう言って、ベッドサイドのマグカップを指差す。
「あと、お茶、出してきてほしい」
「あ、はい、わかりました」
文章をしゃべっているのを聞いたのはほぼ初めてかもしれない。
そう思いつつ、玲奈はマグカップをもってキッチンへと向かった。
マグカップを洗い、冷蔵庫からお茶の2リットルボトルを出すと、抱えて笠置の部屋に戻った。
彼の部屋に戻ると、笠置はベッドに仰向けに寝転がっていた。
「持ってきましたよ」
言いながら、玲奈はベッドに近づいてベッドサイドにマグカップとボトルを置いた。
笠置が玲奈のほうをじっと見上げる。
「どうかしました?」
すると、彼は右腕で顔を隠した後、小さく、
「ありがとう」
と言った。
なぜ顔を隠す。恥ずかしいのだろうか。そう思うと、思わずふきそうになってしまう。
「……いえ。あの、私、じゃあ帰りますね」
そう言って、頭を下げると、笠置の左手が伸びてきて玲奈の手を掴んだ。
驚いて、その手と笠置の顔を交互に見る。
顔は相変わらず腕で隠したままで表情はわからない。
困惑していると、彼は言った。
「もう少しいてほしい」
端的に、彼はそう告げた。
何故。がないけれど、それを聞いても教えてくれないような気がして、玲奈は頷いてベッド横に座った。
「あんまり遅くまではいられないですよ?」
とだけ言うと、笠置は小さくうなずく。
右腕は相変わらず、顔の上だった。




