初めてのバイト
土曜日。
空はよく晴れていてお出かけ日和だった。
時折吹く南風が心地いい。
商店街の大半のお店は開店準備に勤しんでいた。
道路に煉瓦風のタイルが敷き詰められた、煉瓦通り商店街。
10時から18時までは歩行者専用になるこの道路は、車2台がやっとすれ違うだけの道幅しかない。
特に抜け道になっているわけではないので、配送や近所の人の車くらいしか通らない。
車より、自転車の方が圧倒的に多く走っている。
人が二人通れるくらいの幅の歩道があり、平日は通学通勤で通る人が多く、道路にはみ出す人が多かった。
土曜日の今朝、通り掛かる人の姿はまばらだった。
玲奈は言われた時間より10分早く店の前に来ていた。
ショーウィンドウはロールスクリーンが下ろされたままになっていて、入口のドアには「CLOSE」の札が下がっている。
特に服装は何も言われなかったが、甲斐も笠置も黒い綿パンツにエプロン、それにカーディガンを羽織っていたはずだ。
エプロンのしたは何を着ていたのか思い出せず、無難に白いブラウスを着てきた。
入口のドアに手をかけようとすると、内側からドアが開いた。
驚いて、思わず一歩引く。
出てきたのは甲斐だった。
爽やかな笑顔で、彼は言った。
「あ、ゴメンね。驚かせちゃって」
「いいえ、大丈夫です」
首を横に振りながら、玲奈は応えた。
甲斐は黒いカーディガンにエプロン、その下には白地のシャツを着ているようだった。
衿付きのブラウスでなくてよかったかもしれない。
「どうぞ。まず事務室、案内するね」
そう言って、甲斐は玲奈を中に招き入れると、カウンター横の暖簾の方へと歩き出した。
暖簾は藍色で、白でふくろうが描かれている。
暖簾をくぐると廊下が続いていて、両側に3つずつドアがあった。奥にもひとつ、扉が見える。
外観と同じ、茶色を基調とした壁と床。
扉もそうだ。右手前の扉だけが白で、「toilet」と書かれている。
左手前の扉には「staff only」と書かれた札が貼り付けられていた。
その扉を、甲斐は開いた。中は4畳半と言ったところか。畳が敷かれ、真ん中にちゃぶ台が一つ置かれている。
外観とはかなりイメージの違う部屋だ。右手には押入れ。その前にコートなどを掛けるのに使うポールスタンドがひとつ置かれている。その横には洗濯籠が一つ。左手には天井まで届く、テレビ台付の大きな本棚。正面には障子があり、その下には無造作にリュックサックがひとつ置かれている。
本棚には何かのカタログやファイル、雑誌などが詰まっていた。
甲斐は靴を脱いで畳に上がった。
それに玲奈も従う。
甲斐は押入れ前に置かれたかごを指し示し、
「これ、荷物とか着替え入れるのに使ってください。
ごめんね、こんなのしかなくて。人、他に雇ったことないから、ロッカーみたいなのとかないんだよね」
「あ、はい」
「あと、着替えがるときはドアの持ち手にこれ掛けて」
そう言って差し出されたのはいかにも手作りの木の札だった。
白地に赤で、「あけるな!」と書かれている。それにデフォルメされたふくろうのイラストが描かれていた。
「なんです、この手作り感あふれる札」
「ああこれ、笠置さんが作ったんだ」
「マジですか」
あの店長がこんなかわいいのかよくわからないふくろうの絵を描くのか。いまいち想像できない。
「荷物置いたらカウンターのほうに来て。説明するから」
そう言って、甲斐は事務室を出て行った。
ささっと準備をし、事務室を出て言われた通りカウンターのほうへ向かった。
カウンター内は茶色を基調とした棚兼テーブルが置かれている。
棚には筆記用具やセロハンテープ、紙袋やビニール袋のほか、ラッピングに使う綺麗な袋や用紙が置かれている。
カウンターにはレジの機械に、ノートパソコンが一台置かれていた。
ノートパソコンを操作していた甲斐が、こちらを振り向いた。
「準備できた? じゃあ、まず勤怠の打ち方なんだけど。
着替えをしたらまずこのパソコンを起動させてください。
パスワードはこれで、立ち上がったらこのアイコンをクリックして」
ノートパソコンのタッチパネル式のマウスを操作しながら、甲斐は言った。
画面上の矢印は、ふくろうのアイコンをさしていた。その下に「出席簿」という文字が見える。
ソフトが立ち上がると、大きなデジタル時計と「社員番号」や「出勤」「退勤」と書かれたウィンドウが現れる。
「出勤退勤は全部パソコンでデータ管理しているから。社員番号に003って入力すると君の名前が出てくるから、そうしたら、出勤のボタン押して」
そのあと、レジの立ち上げ方や、電灯のスイッチの場所、掃除用具の場所などを教わっていると、
ぼーん……ぼーん……
と、柱時計の音が鳴り響いた。
同時に店内にかなりハードなロック音楽が響く。
先日来た時とはえらく違う雰囲気の曲の驚きながら、甲斐に言われ、入り口の札を「OPEN」にひっくり返しに行こうとした。
が、こちらが開けるよりも先に、カランコロン……とドアが開いた。
「あ、えーと……いらっしゃいませ」
やや上ずった声で、玲奈が言うと、その客は彼女を足から頭の上までゆっくりと視線を動かした。
入ってきたその客は、妙に背が低いおばあさんだった。
茶色地に、何やら細かい文様が入った着物を着ている。
「あ、きぬさん。いらっしゃいませ」
きぬさん、と呼ばれたその老女は、どかどかとカウンター傍にいる甲斐のほうへと向かって行った。
「なんだい、やっと人雇ったのかい」
年にしてはよく通る声で、きぬさんが言った。
甲斐は頷いて、
「ええ。笠置さんがいいよって」
「あんのひとぎらいが? ほんとかい」
驚きの声を上げるきぬさん。
ここの店長は人嫌いなのか。なぜ接客業などやっているのだろうか。
きぬさんは腰をぽんぽんと叩きながら、
「で、笠置は奥にいるかい」
「はい、いますよ」
「じゃあ、失礼するよ」
そう言って、きぬさんは暖簾の奥へと消えて行った。
何者なのだろうか。そんな疑問を抱きつつ、玲奈はドアの前の札をひっくり返し、店内へと戻った。
少しさびれた商店街の小売店にしては、そこそこの客の入りはいいのではなかろうか。
来月ある母の日のプレゼント目当てでくる子供や、中学生くらいの子の姿が目立った。
レジの打ち方やラッピングの仕方などを軽く教わりながら、時間は過ぎて行った。
働いていて気が付いたが、甲斐目当てに来ている客がそこそこ多い。
あからさまに玲奈を睨み付けてくる客までいるしまつだ。
それに、朝のおばあさんのほか、笠置への来客が2度あった。
年齢もバラバラ。
午後に来た客は双子の中学生くらいの男の子で、そのあとは中年の男性だった。
「笠置さんいるよね」
の一言の後、皆玲奈を一瞥して暖簾の奥へと消えて行った。
そして営業時間中、一度も笠置は表に出てこなかった。
廊下の奥に笠置が引きこもっている部屋があるらしいが、そこには近づかないよう、甲斐に厳命された。
言われなくても勝手に近づく気持ちはないが、まったく挨拶をしなくていいのだろうかとも思う。
それを言うと、
「大丈夫だよ。あの人気にしないから」
と、背後に花でも咲きそうな笑顔で、甲斐に言われてしまい何も言えなくなってしまった。
柱時計の鐘が、正確に7回鳴る。
ショーウィンドウにロールスクリーンをおろしていると、足もとに気配を感じた。
玲奈が足元を見ると、大きな三毛猫がこちらを見上げていた。
「にゃーお」
と、一声なく。
「ねこー!」
声を上げて、玲奈は猫の前にしゃがみ込んだ。
「かわいいー。おっきーい。どこから来たの?」
「にゃー」
質問に答えているつもりか、三毛猫はまた一声ないた。
玲奈は猫の頭に手を伸ばした。手触りのいい、ふわふわした毛。頭をなでると、気持ちよさそうに目を細める。
猫は首輪をしていないようだ。ここの飼い猫だろうか。
けれど朝も営業中も猫の鳴き声など聞いていないし、出入りも見ていない。
「猫ちゃん、なんてなま……」
「ご苦労様」
言いかけたところに、突然頭上から声が降ってきた。
驚いて顔を上げると、先日と変わらない恰好の笠置が、手に火のついていない煙草を持って立っていた。
LEDが消され、常夜灯のあかりとカウンターの明かりだけが頼りの店内では、彼の表情まではわからなかった。
「え、あ、えーと」
何を言っていいかわからず固まっていると、笠置は言った。
「帰っていいよ。後はやるから」
それだけ言って、彼は振り返って足音もなくカウンターのほうへと消えて行った。
何だ今の。
玲奈は猫へと視線を戻し、首をかしげた。
猫はふう、とため息をついたが、玲奈は気が付かなかった。