ひとりの夜と君のいる朝
夜の闇が、部屋を包んでいる。
カーテンの隙間から、わずかに月明かりが差し込むだけの部屋。
今、ここに笠置以外人はいない。
枕に顔を埋め、さきほどの甲斐の顔を思い出す。
今日は帰れと告げた。
そうしたら食い下がられた。
それでももう一度、強く言った。
一瞬、悲しげな顔を見せたけれど、すぐに微笑んで、わかりましたと頷いた。
朝早く来ますから。
そう言い残し、甲斐は帰って行った。
それからベッドの上で動かず、ぼんやりとしていた。
いつからかわからないが、お銀さんの姿がなかった。
彼女は気まぐれで、ふっと現れて、ふっと消える。
いつも特に気にしたことはないけれど、今はそのことが酷く寂しく感じた。
珍しく、枕横に無造作に置いた携帯電話が振動する。
ディスプレイに表示された名前を見て、躊躇いつつ、二つ折りの携帯を開いた。
「……はい。笠置です。お久しぶりですね、おば様。
つまみ細工、ありがとうございます」
電話は、甲斐の母親だった。
彼女と笠置の母親が友人であったため、幼いころはよく行き来していた。
彼女から電話がかかってくるということは、甲斐がらみで何かあったということだ。
そうでなければ連絡などよこさない。
笠置を出禁にした彼女の夫の手前、緊急の時以外連絡しないようにしているらしい。
彼女の話によれば、明日、甲斐は大学のゼミで一緒だった女性の結婚式に呼ばれているそうだ。
その女性は、彼の父親ともつながりのある、とある企業の社長だった。
甲斐の了承を得ず、父親が勝手に出席で返事を出したため、それで少々揉めたらしい。
しかも式場は彼の神社で、披露宴は併設の披露宴会場だという。
だから、余計にここに泊まりたがったのかと思う。
結婚式くらいでてやればいいのにと思うが、甲斐は人前に出るのを嫌がる。
とはいえ、一度出席で返事を出されている以上、出ないわけにはいかないだろう。
大人である以上、こういったイベント事には付き合わないといけない場面が出てくる。
彼の母親に、明日店に来ても帰らせるように懇願されてしまった。
「わかりました」
そう応え、電話を切った。
お互い大人なのだから話し合えばいいのにと思うが、あの強権的な父親では無理だろう。
大人は、そう簡単には変わらない。
ドアが開かれる音で、目が覚めた。
目を開けると、普段着の甲斐が、ベッド横に座っていた。
彼は笠置の額に手を当てて、微笑んだ。
「おはようございます。
熱、だいぶ下がったみたいですね」
「ああ、この間は暑くて仕方なかったが、今日はだいぶいいねえ」
いつの間にか腕の中にいたお銀さんが、頭を上げて言った。
「おはようございます、お銀さん。昨夜も泊まられたんですか?」
「そうさ。ここにいたほうが涼しいからねえ」
言いながら、お銀さんは大きく欠伸をした。
「笠置さん、起きられます? ご飯、用意してありますが」
そう言われ、部屋の掛け時計に目をやる。
時間は7時を過ぎていた。
「……緋月」
「なんです?」
名前で呼んだせいか、甲斐はひどく驚いた顔を見せる。
だるい体を起こし、彼の左腕を掴んで言った。
「帰れ」
用件だけを、短く言う。
甲斐は笑って、首を横に振った。
「何言ってるんです? 帰りませんよ」
「用事があるだろう」
「何のことですか?」
とぼける甲斐に、さらに言おうとすると、腕を掴んでいた右手をそっと握られた。
「ご飯、食べましょう」
そう言って、彼は微笑んだ。
朝食は、煮込みうどんだった。
「僕、食べてこなかったんで、一緒に食べましょう」
と当たり前のように言われ、向かい合ってテーブルに着いた。彼の趣味であるクラシック音楽が、オーディオから流れている。
「私にもおくれ」
お銀さんが、笠置の隣の椅子に座り、パタパタと尻尾を振る。
「わかりました。でも、まだ熱いですよ?」
「ちゃんと冷まして食べるさ」
猫と共に席に着き、食事をとるというのはなんともおかしな光景だ。
お銀さんは、お椀によそわれたうどんを、ふーふーと冷ましている。
食べ始めるにも時間がかかりそうだ。
笠置は黙って彼女の前のお椀に手を伸ばすと、箸でうどんをすくい、戻すという作業を繰り返した。
この方が早く冷めるのではないだろうかと思ったのだが、結果はどうだろうか。
「冷ましてくれるのなら、そういいなよ」
呆れたような猫の声を無視して、ある程度冷めただろうと思ったころ、お椀を猫の前に戻した。
お銀さんは、鼻をお椀に近づけた後、ぺろっと汁を舐めた。
そして顔を上げ、
「ありがとうよ」
と言う。
それを黙って聞いて、笠置はうどんを食べ始めた。大根に、油揚げ。ネギなどが入った具だくさんのうどん。
甲斐は、親の教育の賜物か、家事が得意だった。
結婚した姉と入れ替わるようにここに入り浸るようになり、泊まるのだからと家事の一切をするようになっていた。
昨日の電話もあり、彼を早く家に帰さなくてはと思う。
けれどどう言えば帰るだろうか。
そう簡単には帰りたがらないだろう。
まだ、笠置の体調も芳しくない。とはいえ彼の母親と約束してしまったし、帰さないわけにはいかない。
食べ終えたころ、洗い物をする甲斐の背中に向かって言った。
「緋月」
名前で呼びかけると、彼は手を止めて振り返った。
「どうしたんです? 名前で呼ぶなんて、何かありました?」
「今日はもういいから帰れ」
ああ、またこういう言い方になってしまう。言いたいことが喉にひっかかり、うまく喋れない。
ちゃんと言わなければ伝わらないことなどわかっているのに。
甲斐は、台所に背中を預け、目を瞬かせてこちらを見下ろしている。
「……もう少し、はっきり言っていただかないと、いくら僕でもわからないですよ」
「お前の母親から電話があった」
その言葉ですべてを察したのか、甲斐は笑って首を横に振った。
「そう言うことですか。外堀埋めてくるなんて」
「だから帰れ。緋月」
甲斐はじっと、こちらを見つめる。
悲しそうな、寂しそうな、そんな表情で。
しばらくして、彼は小さくうなずき、そのまま下を向いた。
「わかりました。でも、開店準備と、杉下さんがくるまではいますからね。
式は午後ですし、それくらいやっても間に合いますから。
でも、身体は大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だから」
見え透いた嘘をつく。
たぶん、体調がまだよくないことくらい、顔色でわかるだろう。
それでも彼には帰ってもらわなくてはならない。
彼の父親を敵に回すのは、ただの愚かな選択だ。
甲斐はそんな嘘を聞いて、何度か頷くと顔を上げた。
「わかりました。でも、無理はなさらないでくださいね。
放っておくと、一日一食しか食べないし。食事をチョコレートと煙草とコーヒーで誤魔化すのはやめてくださいね。
それと無理だと思ったらすぐ休んでくださいね。たぶんみなさん気を使ってこないと思いますが。
それから……」
まるで母親のような注意事項が続いていく。
とちゅうでお銀さんが、
「重症だねえ」
と小さく呟くのが聞こえたが、聞こえないふりをした。




