納屋の星
私は干し草に埋もれるようにして、修繕されていない屋根の隙間から星空を見上げていた。星と星を繋ぎ合わせていくと、鳥や魚の他に、なんとかという鋏をもつという生き物に見えるんだそうだ。
あの子は本当に賢い。
身体は私よりはるかに小さいし、まともに歩けない程度にしか成長していないのかいつも車輪のついた椅子の様なものに座らされている。
だのに、私よりはるかに多くの物事を知っていて、知恵のある人の多くがそうするような私を蔑む目で見ることもなく、その溢れる知性を惜しみなく分け与えてくれるのだ。
その子――ああ、本当に私はダメなやつだ。名前を何度も教えられたのにまた忘れてしまった――が言うには、 地上で死んだ人間の魂が天に昇って星になるのだそうだ。
素晴らしいことだ、とあの子は空を見上げて言った。
私にはそれが素晴らしいことなのかどうかわからなかった。けれど、あの子がそう言うのだからたとえようもなく素晴らしいことなのだろう。
私のようにいつ死んでもおかしくない、人間であるかもわからないような生き物にとって、それは大きな希望となった。
朝を迎えた。
いつの頃からか、季節に関係なく日の出前に起きられるようになった。もうすぐ冬が訪れる最近は、冷え切った身体を温めてくれる陽の光を浴びることができないし、起き上がろうとすると腫れ上がった関節が軋んで酷い痛みを発する。
以前私は夜中にこっそりと馬小屋へ行き、彼らの腹に取り付いて暖を取るようにしていたのだが、一度見つかってしたたかに棒で打たれて以来、馬小屋には近づかないことにしている。その時折れた左腕は変な方向に曲がったまま固まってしまった。手の平が外を向いてしまったために色々な仕事がやりにくくなった。
仕事が終わったら、けして納屋を出るなという言い付けを守らなかった私がいけないのだ。
旦那さまの言い付けを守らないものには罰が与えられる。
あの子に色々と教えてもらう前の私は、今以上に愚かだった。
自分が何故生まれ、誰のおかげで生きていられるのかということを知らなかった。
私の様な人間かどうかも分からない奇妙な生き物が、旦那さまのような立派な方の土地に住まわせてもらっているだけでも大変に在り難いことなのだということをあの子が教えてくれなかったら、きっともっとたくさんの罰を受けていただろう。
私の朝はお屋敷の裏手に回り、林へ入って焚き木を集めることから始まる。この時期は飢えた狼や狐がうろついているのであまり奥までは行けない。右手が自由だった頃はまだしも、今彼らに出遭ったら食い殺されてしまうだろう。
実は、そういう不安を旦那さまに訴えたこともあるが、旦那さまは気味の悪い笑顔で本当にそうなればいい、と言った。
その日から、私は死ぬのが怖くて薪を取りに行けなくなった。
私が焚き木を集めてこないと、竈に火を入れられないということで罰を受けた。水車に括り付けられて丸一日放っておかれたおかげで、私の背中はでこぼことした妙な形に変形してしまった。
おかげで背中を伸ばして歩くことができなくなり、肩もうまく回らない。私は麻の袋――私の曲がった背に負える篭はないそうだ――を右手で引きずりながら、焚き木になりそうな枝を探して歩かなければならなかった。
あの子のおかげで、死ぬのは怖くない。
私は林の奥へ奥へと進む。
すぐに麻袋一杯に焚き木を集めることができた。
引き返そうと思ったとき、林の奥に灯りが灯っているのが見えた。近づいて木々の影から様子を伺うと、 そこには一軒の小さな家が建てられていた。
林は旦那さまの持ち物だと聞いていた。離れというには母屋から遠すぎると私は首を捻った。
旦那さまのご家族は奥さまと三人の坊ちゃんだけだ。
坊ちゃんと言えば、昨日も学校からお帰りになったとき納屋に「お土産」を投げ込んでくれた。私にそうしたものを与えることは固く禁じられているのだが、坊ちゃんたちは旦那さまと奥さまの芽を盗んで施しをくださる。野菜のクズやカビの生えたイモを豚と一緒に食べる私には、坊ちゃんたちが投げ入れてくれる鯉やネズミの死骸はとてもありがたい贈り物だった。
ともかく、旦那さまの土地に勝手に家を建てて住んでいるものが在る。灯りが漏れる窓には、確かに人影が映っているのだから間違いない。髪が長い――恐らくは女性だった。
私は迷った。
私が旦那さまにこのようなことをお話して、信じてもらえるだろうか。
きっと、まともに話を聞いてもらえないだろう。
そうだ、あの子に相談しよう。
家を建てて住んでいるくらいだ。
今すぐ報告しなくてもいきなりいなくなったりはしないだろう。
私はこの場所がわからなくならないよう、五歩進むごとに木の幹に傷を付けた。私のように背中が曲がったものはいない。この目印は私にしかわからない。
何故だろう、以前もこうやって、木の幹の低い部分をひっかいたような気がする。
私は奇妙な感覚を抱いたまま戻ったが、焚き木を竈の側に積んで火を起こし、それが済んで合図の鐘を鳴らすころには忘れていた。
馬小屋の掃除をしてから豚小屋へ行き、同じく掃除をして彼らと同じ朝食を食べてから納屋へ戻った。簡単な仕事だ。これで住むところと食事を頂けるのだから、本当に在り難い。
私が納屋へ戻るのを待っていたかのように、あの子がやってきた。
椅子の足に車輪がついたような奇妙な乗り物に乗って、それを立派な服の紳士が押していた。
「やあ、何をしているの」
喉を病んでいるかのような、納屋の壁の隙間から入り込む木枯らしのような声が語り掛けてきた。私も以前棒で喉を打たれてしまった後しばらくはそんな声しか出せなかった時期があったので、君もそうなのかと尋ねると、彼は笑ってそれを否定した。
彼が笑うときは、それ以上その話をしたくないときと相場が決まっている。私は大人しく疑問を飲み込んで、件の家の話を切り出した。
「奥さまに、相談するといい」
彼はそう言って冷たい笑顔を作った。これまで見たことがない、背筋が寒くなるような微笑みだった。彼が笑ったときは、同じ話題を続けることはできない。
私はそれきり口をつぐんだ。
彼もずっとそうしていた。
翌朝。大変申し訳ないと思いながら、竈の火を確かめにやって来る奥さまを待った。
今朝はまた一段と冷え込みがきつい。私は風が吹くたびに悲鳴を上げそうになったが、樹皮の渋で染めたような色になってしまった服の袖を噛んで耐えた。
朝日が立派なお屋敷の壁を明るく照らす頃になって、ようやく奥さまが裏口から出ていらした。
私の姿を認めると、目を吊り上げてお怒りになったが、私が跪いて頭を垂れて林の奥の家のことをお話したところ、今度は青い顔になって家の中へ入って行かれた。
その時の奥さまのお顔は本当に恐ろしいものだった。血の気が引いた唇をわななかせ、震える手でご自身の肩を掻き抱くようにして歩くお姿はこの世のものではないように思えた。
私は心の中で奥さまをそんな風に思ってしまった自分とそれを黙っておこうとした醜い心を蔑みながら、馬小屋へ向かった。
豚小屋で朝食を済ませて納屋へ戻ると、旦那さまが怒鳴り散らしながら駆け込んでいらした。
手には飼葉を突く大きなフォークをお持ちだった。
目は血走り、寝間着のあちこちにかぎ裂きができていて、その周辺は血らしいもので汚れていた。
いったいなにが――そんなことを考える前に、旦那さまは獣のように私に迫り、大声で恫喝し始めた。
「妻に余計なことを言いやがって!」
フォークが私に突き付けられた。
「林の奥に匿ってやったのに! この恩知らず!」
旦那様がそれを大きく振りかぶった。
「くそ! 二人ともあのとき死んでいればよかったんだ!!」
一瞬、腹と右腕の辺りに衝撃があった。
それで、私は納屋の壁から動けなくなった。
「はあ、はあ……ちくしょう。ふざけやがって、ふざけやがって……」
いけない。
私は身を捩って、あの子に藁をかけて隠そうとした。
旦那さまが私の動きを見て、あの子がそこにいるのを見つけてしまった。
しまった。
「ふん……息子たちが言っていたのは、そいつのことか」
逃げなさい。
私は必死に目で訴えた。
しかしあの子は無表情のまま、粗末な椅子車に乗って旦那さまを見上げていた。
「母親からの唯一の贈り物……さぞかし大事なんだろうな」
旦那さまの顔が醜く歪んだ。それはもう人のそれではなかった。
やめてください。
私はあの子を拾い上げて笑う旦那さまの足に取りすがろうとした。私を壁に縫い付ける忌々しいフォークがそれを許さなかった。旦那さまは寝間着のズボンのポケットから何かを取り出した。見たこともない代物だった。
カチリと音がして、旦那さまの手の中から火が生まれた。
あの子に何をするつもりなのかを察した私は叫び声を上げた。
旦那さまはかえって気分がよくなったのか、いっそう笑みを深くしていった。そして、一旦火を消すと、あの子の背中に付いている不思議な棒を回し始めた。
それをすると、あの子はきれいな声で歌ってくれる。夜空にまたたく星の歌を。
ほどなくして聞こえてきたのは、私の記憶にある涼やかな歌声ではなかった。
やはり喉を病んでいるのだろう。あの子がゆっくりと歌い始めたそれは、以前と比べて酷くかすれてしまっていた。
カチリ。
旦那さまの手の中に再び火が生まれた。
今度はもったいつけなかった。
あっという間にあの子の衣服が燃え上がる。
それでも歌うのを止めなかった。
小さな腕が、胸が、顔が、髪の毛が、異臭と共に燃え上がった。旦那様はそれを、乾いた藁の上に放った。
小さな火種はすぐに燃え移った。
赤く、熱を帯びたうねりが納屋を埋め尽くすのに時間はかからないだろう。
「貴様が生まれる前に、あいつは流行り病になった! 妾でも家から病人が出れば町を追い出されるからな。それで、俺は林に家を建ててあいつを隠したのさ。貴様のような化け物が生まれていたと知ったときは本当に運命を呪ったが……」
これで終わりだ。終わらせるんだ。
ブツブツと呟きながら、旦那さまが私に背を向けた。
旦那さまの口から出た言葉で、私はすべてを思い出した。
私が母の小屋にたどり着いたとき、乾いた音が辺りに響いた。
驚いた鳥たちが空へ上がって、私は胸騒ぎを感じて歩調を速めた。
小屋から人が出てきた。
旦那さまだった。寝間着に点々と赤い模様が増えていた。
私は林の木々の間に隠れていた。
旦那さまが私に気づかず歩いていく。納屋が燃えて黒い煙が空へ昇っていくのを見ながら、口中で不味いものでも噛み砕いたかのような顔をしている旦那さまの背中に、大きなフォークを突き刺した。
それは、何か硬いものに当たってあまり深く刺さらなかった。
衝撃を受けた旦那さまは悲鳴を上げてつんのめって転んだ。
すぐに仰向けになり、手にしていた不思議な形の黒い筒をこっちに向けた。
火花が飛んだ。
暗くなった。
星が見えた。




