ジアーニ
神殿で念入りな礼拝を済ませた後、カシオは水車亭の前でデトミナと別れた。
それからスラムへ向かって歩き出す。明確な目的地があったわけではないのだが、昨夜遭遇した不吉なものの存在が心に引っ掛かっていた。アレは確かにスラムの方向へ向かっていった。
町並みの様子が徐々に変わっていき、道幅が狭くなっていく辺りでジアーニに出くわした。どこかへ向かう途中だろうか。手紙らしきものを携えた少年はカシオを見つけると駆け寄ってきた。
「よお、カシオ」
そんな取って付けたようなぶっきらぼうな口調で話しかけてくる。
スラムの近くに来たものの、明確な目的地のなかったカシオはなんとなく連れ立って歩き始めた。
「今日はどうしたんだ。何か仕事か?」
「使い走りだよ。手紙を届けて、その場で返事をもらってくる。いま返事を届けにいくところで、引き換えに20レイルさ。」
つまらなそうに答えるジアーニ。
「ふーん、いつもこういうことをやってるのか。」
「なんだってやるさ。物乞いでも使い走りでもなんでも。それより」
少年は何かを言いかけたが一旦それを飲み込むとカシオを睨むような目で見上げた。ひょっとすると願い事をすることに気恥ずかしさを覚えていたのかもしれない。
「俺に戦い方を教えてくれよ。」
この言葉にカシオは、もう教えたじゃないか、そう答えた。この前も皆と一緒に教えたじゃないかと。それを聞くとジアーニはいかにも不満そうに口を尖らせた。
「あんなのおままごとみたいなもんじゃないか。しかも、二言目には隙を見て逃げろってんだろ。そんなのを教えて欲しいんじゃないんだよ。」
幾分、早口になりながら少年は一息で言う。少年のその言葉にカシオも質問を返す。
「でも、どうしてそんなことを。別に危険が迫っているってわけでもないんだろ。」
カシオの顔をちらりと見てジアーニはため息をついた。全く分かってないなぁ、そう言わんばかりに。
「なあ、昨日の姉ちゃんが絡まれた一件。アレが滅多に起きない珍しい事件だと思ってんのか。」
カシオは答えずに、ただ少年の顔を見返した。ジアーニは吐き捨てるように言葉をつなぐ。
「ああいう馬鹿な連中は何処にでもいるし、ああいう事はしょっちゅう起こる。そして大抵この前よりも酷いことになる。俺たちと同じような孤児で、やられた傷が元で死んだ奴だって何人もいる。理由なんてどうでもいいんだよ。薄汚い孤児だから、ヤツキスの血が入ってるから、肩がぶつかったから、はしゃいでズボンに泥をはねさせたから。つまりは、奴らの虫の居所が悪くて、死んだ奴は運が悪かったんだ。でも」
そこで孤児の少年は言葉を引き取った。カシオも続きを聞こうとはしなかった。代わりに口を開く。
「分かった。とは言ってもたいしたことは教えられないし、都合のあうときしか教えられない。しかも、僕はこの街にそう長くは滞在しない。それでも良ければ。」
ジアーニはそれを聞いてニカッと笑った。普段は生意気だが、笑うと案外人懐っこい顔をしている。
「じゃあ、これを届けたら特訓開始だ。そうと決まればサッサと行こうぜ。」
言うが早いか、カシオの都合などお構いなしという様子で駆け出すジアーニ。カシオは慌ててそれを追いかけた。
「さて、じゃあ練習を始めるけど。その前に一つ。君は納得できないかもしれないけど、それでも敢えて言うよ。トラブルからはまず第一に逃げ出すことを考えるんだ。」
手紙を届けた後、通りから奥まった広場でカシオはジアーニにそう言った。やはり、リイド・グラスの教えの受け売りだが、他に語るべきことがないので仕方がない。言われた方はやはり不満そうな顔をしたが、教えを受ける手前、とりあえずは何も言わなかった。
「相手を痛めつけるのが、君の目的って訳じゃないだろう。君と仲間が無事に逃げおおせれば勝ちなんじゃないか?酷く痛めつければ必ず仕返しの目に遭う。卑劣な奴なら弱い者から狙うから、仲間の危険も大きくなる。大体、君は小さいし、リーチも力もない。普通にやれば十中八九は負けるんだぞ。」
思わず何か言いそうになったジアーニにカシオは手にした棒を投げ渡した。ジアーニに渡したものは彼の腰ぐらいまでの長さで、カシオはちょうど短剣と同じくらいの短い棒を持っている。
「だから、不意をついて一発食らわせろ。相手がひるんでるうちに逃げられる。と、いったところで講義はおしまい。さあ、かかって来い。」
そういうとカシオはその棒をちょうど短剣と同じように構えた。本番さながらの隙のなさにジアーニは思わず喉を鳴らすと、オズオズと棒を正面に構えた。そこで、カシオが言い忘れていたことを最後に付け加えた。
「それから、本気みたいだから厳しくするよ。リイド・グラス流だ。」
それが訓練開始の合図になった
跳びこもう、跳びこもう、そう思いながらも、ジアーニはタイミングをつかめないでいた。そのままカシオに気圧されてジリジリと下がり始めてしまう。
不意にカシオが気合を発して半歩踏み出す。ジアーニが思わず反応して飛び掛ると、次の瞬間、腹部にカシオの左拳がめり込んでいた。体がしびれるような鈍痛に地面を転げまわると、上から声が投げつけられた。
「立つんだ、ジアーニ。寝ていても足蹴にされるだけだぞ。」
叱咤に答えるようにして何とか立ち上がると、今度はカシオから打ちかかってきた。何とか棒で受け止めたが、そのまま勢いにまかせて吹っ飛ばされる。
大の字に転がされたが今度は出来るだけ早く立ち上がった。それを見てカシオが笑みを浮かべた。
「その調子だよ。さあ、どんどん行こう。」
…………。
「だー、なんだよチクショウ!!」
「どうした、まだ訓練は終わっちゃいないぞ。」
何度地面に転がったのか。ついにジアーニが音を上げた。地面に大の字になって喚きだす。
「さっきから殴られてばかりだけど、これで本当に強く慣れんのかよ。」
「棒切れ振り回して、ぶん殴られてるだけで強くなれるはずがないじゃないか。」
しれっと今までの訓練を全否定するカシオにたまらずジアーニは噛み付いた。
「ふざけんなよ。じゃあ、今までの訓練はなんだったんだ。ただ、俺を痛めつけてただけなのか。」
文字通りカシオに噛み付きそうな少年の剣幕にもカシオは涼しい顔だ。
「最初に言っただろう。正面から戦えば君に勝ち目はない。この前提は君が少しばかり鍛えたって変わらないんだよ。だから、不意をついて一発食らわせろと言ったのに。渡された棒を持って馬鹿正直に突っ込んでくるだけじゃ、そりゃ効果があるわけない。そもそもそういう訓練じゃないんだ。」
聞いているうちにジアーニの顔が赤くなり、奥歯が何かをこらえているかのように噛みしめられた。悔しいのか、恥ずかしいのか、それともカシオの意外な意地の悪さに驚いているのか。
「分かったよ。結局、俺が間抜けだったって言いたいんだろ。それは分かった。だけど、もう結構訓練したんだから一回休ませてくれよ。いい加減へとへとだ。」
一応は納得した様子のジアーニが立ち上がりながらそう言うと、カシオもそうしようかと腰に手を当てて考えた。と、それを遮るように突然ジアーニが大きく手を振った。
「あ。デトミナ姉ちゃん。」
通りに向かって呼びかけるジアーニに釣られて、カシオが振り向いた瞬間。視界の隅で何かが動き、ヒュッという風きり音が背後で鳴った。とっさに跳び退ると、ジアーニの手にした棒が帽子のツバを掠めて通り過ぎた。視線の先ではジアーニが悔しそうに顔をゆがめている。
「あー、チックショウ!いけると思ったのに。」
地団太を踏むジアーニにカシオは笑いかけた。
「そういうことさ。一言で言えば単なるだまし討ちだけど、卑怯だなんだってのは手段を選べる強い奴の贅沢なんだよ。僕たちみたいなのは何でもやらないとな。さて、講義が実践できたところで今日の訓練はここまでとしようか。日もだいぶ傾いてきているし、僕も一旦帰らないといけないからね。」
そう訓練を締めくくると手にしていた棒切れを放り投げる。生徒のほうはようやく調子が出てきたところだといわんばかりの顔をしていたが、渋々それに従った。
「明日はぶん殴ってやるからな。」
そう言って駆けていく後姿に手を振ると、カシオも宿屋への帰路に着いた。
今回も日常会でした。