襲撃、遭遇
「なんだか、今日はカシオにお世話になりっぱなしだったね。」
デトミナたちが暮らすスラムの家の前で二人は話をしていた。小屋といってもあながち間違いではない小さな家の戸口からは孤児たちの八つの目が二人の様子を窺っている。
少女の言葉を打ち消すようにカシオは軽く首を振る。
「いや、僕もああいうの初めてで、なんと言うか楽しかったよ。」
カシオがはにかみ、デトミナも微笑んだ。
「そう言ってくれると嬉しい。もし迷惑じゃなかったら、また皆と遊んであげてくれるかな。」
「それはもちろん。こっちからお願いしたいくらいだよ。それじゃあ、宿で連れが待ってるから」
そう言って踵を返すカシオにデトミナが手を振った。
「それじゃあ、またね。」
カシオも応じるように手を上げると、宿屋へ向けて歩き始めた。話しているうちにあたりはすっかり暗くなってしまっていた。
デトミナに聞いた宿への近道。真っ直ぐ行けばスラムと街をつなぐ橋に出られるということだったが、周りは僅かに朽ちた廃屋があるだけだ。明かり一つない陰気な通りで、正直気味が悪い。
ブザーもすでに宿屋に帰っているだろう。カシオは足早になって夜道を急ぐ。
突然、路地に鈍く硬い破砕音が響いた。
カシオがくず折れるように冷えた路上に崩れ落ち、吹き飛んだ帽子が一瞬の後に着地する。その時点でカシオは未だ自分が殴打されたこと、地面に半ば這いつくばっていることを完全には把握できていなかった。彼に出来たことは明滅する視界と混濁した意識の復旧を待ちながら低いうめき声を上げることだけだった。
襲撃者が廃屋の影から姿を表す。カシオを渾身の力で撲殺しようとした男。それは広場でカシオに撃退されたあの酔っ払いだった。
崩れかけた塀の隙間、暗闇から蜥蜴のように這い出してくる。その目には昼間以上の酔いと凶暴さが宿っており、口元にはいやらしい笑みと海老の死骸のような生臭さを貼り付けている。手にした棍棒はささくれ立ち、ところどころに飛び出した釘が歪な光を湛えていた。
未だ起き上がることの出来ないカシオを見下ろしながら男は甲高い笑い声をあげた。喉元に引っ掛かっているかのようなブツ切れで耳障りな笑いを発しながら、再び棍棒を振り上げる。
未だ衝撃から立ち直れないカシオの顔面に無慈悲な唸りと共に棍棒が迫る。カシオは右手をとっさに振りかざした。
木と鉄の醜い塊はカシオの手首を削り方向を変え、肩を掠めた。渾身の大振りが予想外の動きをしたことで、男はよろめく。その隙にカシオは手首と後頭部の激痛に顔をゆがめながらも立ちあがった。
男が体勢を立て直し、横なぎにカシオの胴めがけて凶器を振るう。とても避けきれるものではない。カシオはせめてもの抵抗として身をよじらせた。
ここで小さな幸運が惨めに虐殺される運命にあった少年に舞い降りた。右やや下方から少年に襲い掛かった衝撃は、彼が腰に止めていた短剣とその丈夫な鞘に阻まれ、主の意図した効果をあげることが出来ずに四散した。
カシオは反射的に棍棒を掴んだ。脇に抱え込むようにしてがっしりと捕まえると、遅れて男も状況を理解した。
聞くに堪えない罵詈雑言を撒き散らしながら、猛烈な力で棍棒を振り回す。前後に激しく揺さぶられ、思わず眩暈を感じたカシオが振り払われる。
しかし、あっけなく振り払われたことがかえって功を奏した。カシオだけでなく男も反動に二・三歩よろめいたのである。
その間にカシオは腰から二本の短剣を引き抜いた。ダメージにふらつく足元を抑え込むように低く構える。
男の顔から下卑た笑いが幾分減り、代わりに警戒感と苛立ちが現れる。明らかに、カシオの見せた抵抗の意志は男の癇に障ったようだった。
「昼間はよくも恥をかかせてくれやがって、薄汚えヤツキスと腐れ病のガキが」
男はどうやらカシオの覆面を病気の痕を隠すためのものだと思っているらしい。泡を飛ばしながら吼える相手にカシオは切れ切れの息の合間に言葉を返す。
「貴方には、僕の友人を侮辱するなと、言ったはずです。」
恐怖に負けたものから命を落とすことになる。一瞬カシオの心は夜の森へ遊び、脳裏にそんな言葉がよぎった。そこでは怯えて立ちすくむ野鼠、動転し遮二無二駆け出す子兎、そういうものからミミズクの鍵爪の餌食になった。
慣れ親しんだ風景への刹那の回帰が、カシオに少しばかりの冷静さを取り戻させた。
「懲りない人だ。それとも昼間やられたことを忘れてしまったんですか。見た目どおりデキのいい頭ですね。」
どちらかといえば陳腐な挑発だったが、それでも効果はてきめんだった。男の顔に狼狽が広がり、怒声と共に殴りかかってくる。
カシオも前に出た。まるで倒れこむような姿勢で棍棒をかいくぐり、男の懐に入り込むとそのまま肩からぶつかっていく。腹部への強烈な打撃に男がよろめきうずくまる。カシオは何とか踏ん張ると、男を見下ろした。
棍棒を取り落としてくれることを期待していたが、やはりそんなに都合よくは行かなかった。
「俺を見下してんじゃねえ。」
カシオに見下ろされていることに我慢できなかったのか。男は痛みも忘れたかのように立ち上がると再び棍棒を振り上げる。カシオも短剣を構えなおした。男を撃退する方法を考えながら。
しかし、戦闘が再開されることはなかった。
気がついたときには、それは既にそこにいた。カシオの背後の暗闇に。始めに男が気がつき、続いてカシオも背後からの寒気に振り向いた。そして、二人とも凍りつく。
明かり一つない通りの、一際暗い一角。
墨を流したような闇の中にぼんやりと浮き上がるように、それは立っていた。痩せた身体に黒い外套を羽織っている。
突然、カシオの手が瘧のように震え始めた。いや、手だけではない膝も震え、歯は鳴っている。紛れもない恐怖の発作。それもいままで感じたことがないほどの禍々しい感覚だった。
闘っていたことを忘れ、ただ恐怖心に目を見張っていた二人に向かって、それがゆっくりと足を踏み出して来た。
一歩、二歩。それがまとっているものが外套でないことにカシオは気がついた。
三歩、四歩。それは何も身に着けてはいなかった。外套と見えたものは、蝿、虻、蚤、油虫そして足元を走る溝鼠。群がる数多の害虫が外套のようにそれを覆っていた。
五歩、六歩。それは骨にそのまま薄皮を貼り付けたように痩せこけており、その皮膚には全身に黒班が浮かび、表面を蛆虫が這いずっている。
七歩、八歩。糞尿の絡みつくような悪臭と吐瀉物のような酸味ある臭いが混ざり合って届いてくる。
九歩、十歩。ついに手の触れるほどに近づいたそれに対して、改めて恐怖心が湧き上がってくる。頭からの指令を待たずに走り出そうとする両の足をカシオは必死に押しとどめ、ただ出来る限り息を殺してじっとしていた。何か根拠があったわけではないが、頭のどこかで感じていた。目の前のこれは逃げられるものではない。ただ、息を殺して過ぎ去ることを祈るか。仮にそんなことが出来るとして、闘って打ち破るしかないと。
それの顔がさらに近づき、カシオは思わず声にならない悲鳴を上げた。何より彼を恐怖させたのは、恐ろしげな黒班でも嫌悪を催す害虫たちでもなく、そのなにも収まっていない眼窩を満たす暗闇の底知れぬ深さだった。
「ヒ、ヒイイイイイィ」
声を上げたのはカシオではなく、暴漢の方だった。恐怖に耐え切れなくなったのか。転がるようにスラムのほうへ向かって走っていく。
化け物がにやりと笑った。獲物を見つけた笑みだ。甲高くひび割れた声をあげ、男を追って走り出す。
凍り付いてように動けないでいるカシオの元から、禍々しい気配と虫の群れが去って行った。
少年は一人きり夜の路上で、取り落とした短剣を拾うことも出来ずに佇んでいた。