孤児たち
イズレイルはスラムへの道すがら、目に付く街中の建物をカシオにあれこれ説明してくれた。あそこの店は扱う布地よりも夫婦喧嘩が名物だとか、ここは国王からの御触れが発表される広場だとか言う具合に。
その間も少年と交代で荷車を引いているのでカシオは手伝いを申し出たのだが、「これも修養のうちです。」と断られてしまった。
スラムは川を挟んで北の対岸にあり、何処となく陰気な雰囲気を漂わせていた。
普段から施しの会場となっているであろう広場に入ると、そこには既に人だかりが出来ていた。イズレイルは荷車を止めると良く通る声で人垣に呼びかける。
「皆さん、ただいまからテラス神殿からの施しをさせていただきます。数は十分ありますので、一人一つずつ順番を守って並んでください。」
その掛け声が終わると人垣が動き出した。どうやら人垣と見えていたのは蛇のように幾重にも曲がりくねった行列だったらしい。あたりも一段と騒々しくなる。
少年が列を整理して、イズレイルがパンを渡していくのだが。家で寝込んでいる親がいるからその分もくれと言う者や、おなかの子供も一人分のはずだといって交渉を始める者がいて、行列はなかなか短くはならない。
それにしてもいろんな人がいるものだと、少し離れたところで見ていたカシオはそう思った。一様に薄汚れて擦り切れた服を着ている。いや、服には見えない布切れのようなものを身に着けた者もいた。顔に傷のある者、手足の一つ、あるいはそれ以上を失っている者もいる。
「あ、カシオ。こんなところでどうしたの。もしかして、また道に迷ったの?」
不意に聞き覚えのある声がして、そちらを向けば人垣の間をデトミナが抜けてきた。
「デトミナか。今日は道に迷ったわけじゃないよ。神殿に行ったらあそこのイズレイルさんが施しをするというから見学に来たんだ。そっちこそどうしたんだい。まさか、パン屋をクビになってしまったのか。」
「違うわよ。私、スラム出身で今もこっちに住んでるから。それにしてもカシオも冗談なんか言うんだね。あんまり面白くないけど。」
いや、冗談で言ったわけではない。カシオがそう否定しようとした時、かしましい声がそれを遮った。
「ねーちゃん、誰だよソイツー。」「変なカッコー。」等々。見れば曲がりくねった列のちょうど中ごろに、大人たちに紛れて四人の子供がいる。子供たちは行列の隙間から覗くようにこちらを見つめていた。
「あの子達は君の兄弟か?」
子供たちは三歳から十歳といったところだろう。
「血はつながってないけどね。」
カシオの質問に答えて、デトミナは今度は子供たちのほうへ向き直った。
「コラッ、大人しく並んでなさい!神官さんがパンをくれなくても知らないよ。」
そう一喝すると、子供たちは静かに並びなおした。それでも視線はこちらに向けたまま、ヒソヒソと話をしている。
「ゴメンね。生意気な子ばっかりでさ。悪い子たちじゃないんだけどね」
困り顔に微笑みを浮かべるデトミナ。カシオはかぶりを振る。デトミナの言った「血はつながっていない」という言葉が気になっていたが、聞くことはしなかった。かわりに思いついたことを口にする。
「君は並ばなくてもいいのか。一人一つなんだろう?」
「いいの、いいの。神殿の黒パン大きいから四つで十分。もらいすぎたら他の人に悪いしね。」
デトミナの応えに、カシオはそんなものかと首肯する。
「そういえば、この前のお礼をまだしてなかったな。何か僕に出来ることがあれば言ってくれないか。」
「いいって、そんな大したことをしたわけじゃないしさ。ほら、今度うちの店で買い物してくれればそれで。」
今度はカシオが少し困った顔をした。この少年はものを食べることが出来ないし、無一文だ。ブザーに頼んでみても良いが、短い滞在期間を実り多いものにするべく忙しく働いているので、自分の都合で煩わせるのには抵抗があった。
「いや、それが。僕は怪我のせいで決まったものしか食べられないんだ。お金も持ってないし。だから君のお店のパンを食べることも出来ないし、なにか別のことでお返ししたいと思うんだよ。君は大したことじゃないって言うけど、本当に助かったんだ。見るからに怪しい格好をした僕に気さくに話しかけてくれたのは君だけだったし。」
自分で言いながら、かなり苦しい言い訳だとカシオは思った。嘘をつこうとすると口数が増えてしまうものだ、とも。しかし、幸いなことに少女が不審に感じた様子は見られなかった。
「んー、今は思いつかないな。」
そう言いながら、デトミナはしばらく考える素振りをし、思いついたのか顔を上げた。
「じゃあ、カシオが今度困っている人を見つけたらその人に親切にしてあげてよ。私じゃなくても良いし、誰でも良い。」
意外な答えに、カシオは思わず質問を返してしまう。
「それがお礼で良いのかい。君にとっての良いことがないじゃないか。」
対してデトミナは笑顔でそれに答える。
「それで良いの。もともと、お礼が欲しくて親切にしたわけじゃないし。それに皆がお互いに親切にしたら、いつかは巡り巡って私にも帰ってくるかもしれないじゃない。」
カシオは新鮮な驚きを感じた。
「そんな話は初めて聞いたよ。君はすごく面白い考え方をするんだな。分かった、これから困っている人を見かけたら出来る限り手助けする。もちろん、きみが困っていても全力で手助けするからね。」
少女の笑顔に釣られるように、カシオも笑顔でそう言った。
人の列から離れて広場の隅に立っていた二人の背後で、ガサゴソという物音とうめき声にも似た低い吐息の音がした。不審に思ったカシオが振り返るとそこには男が一人。
好天気にもかかわらずじめじめと湿った上着を身に着け、汗や泥でギトギトと固まった髪の毛の奥では黄ばんだ両目に不穏な光を宿している。その様子は草むらの中で得物を待ちうける蜥蜴を連想させた。
カシオとデトミナは警戒心からわずかに身体を硬直させた。それは男への悪意からでたものではなく、不意の闖入者に対する不可避的な反応であった。しかし、外部的要因と自身の先天的素養から精神の平衡を失い、それゆえに神経質かつ不穏な性向を獲得するにいたった人物は時に周囲の反応に対して過敏になることがある。現在の自分自身に強い不満があればなおさらに。
そして、いま二人の目の前に現れた男はつまり、そういう人間だった。
「なぁに見てやがんだぁ。」
男がうなりながら近づいてくる。ささくれ立ったその声は「なぁあにいちゃがんでゃ」としか聞こえなかったが、それでも言葉に込められた暴力的な響きは余すところなく二人に伝わった。
互いの距離が近くなり、生臭い酒のにおいが鼻を突く。男は酔っていた。見れば右手に空になった酒瓶を握っている。
カシオは対応を迷っていた。はっきり言って経験が不足している。相手が何をしてくるか分からない。このままではよくないのではと感じつつ、下手なことをすれば無用な刺激を与えると思ってしまい動けない。
男は海底をはいずる蛸のような奇妙な歩き方で近づきながら、二人のことを黒目がぼやけた目で睨んでいた。
「薄汚えヤツキスの餓鬼が何でこんなところにいやがんだぁ。くっせぇ奴らは人間様の町に入っちゃいけねえと、てめぇの糞ババアに教わらなかったのか?」
先程までの滑舌の悪さが嘘のように、その台詞は明確な輪郭に邪まな悪意を添えて投げつけられた。
デトミナの顔がフッと青ざめる。唇を引き結び、身体が強張った。まるで力を抜けばそのままへたり込んでしまうと言うかのように。
そこに、カシオの声が割り込んだ。男の言動と友人の態度が、戸惑っていた少年を突き動かしたのだ。
「止まってください。今の言葉が酷い侮辱なのは僕にも分かりました。そちらも事情があるかもしれませんが、許せません。」
少女と男の間に足を踏み入れたカシオが帽子のつば越しに男を睨め付ける。男は困惑した。それまで特に気にもしていなかった小男、―――奇妙なナリをしてはいるが頭一つ分は背が低く、体格も貧弱なガキ―――が割り込んでくるとは思わなかったのだろう。
男の困惑は一呼吸の後に怒りへと変化したようだった。不快な顔色がさらに赤黒く変化し、目元が引きつっている。ここに至って周りの人たちも騒ぎに気付き始めた。回りが少しずつ騒がしくなっていく。
そのざわめきは男の背中をカシオたちにとって都合の悪いほうへと押しているようだった。男は自分に対する注目を過大に評価して、後には引けなくなり始めている。
「なんだテメエは!メス豚にたかる虻みてえなナリして出しゃばるんじゃねえよ。引っ込んでろ!」
先程以上にだみ声を張り上げる。自分の大声も男にとっては興奮を促進する材料になる。
対して、カシオの態度には変化がなかった。何故なら、彼の知識と行動規範のほとんどはリイド・グラスからの教えと彼の小さな本棚―――いずれも、窮地にある友人への対応については基本的に同じ立場をとっていた―――、によってのみ形作られていたからだ。
状況が不明瞭であった先ほどまでとは違う。現状に対して、逃げたり退いたりというのはそもそも彼の選択肢に存在しない。それは。未だ幼い者だけが持ちうる純粋性だった。
カシオは何をするか分からない男に対しての緊張感に震えそうになりながら、斜に身構えて右手でデトミナを一歩遠ざけた。
男に向けて声を掛ける。
「それ以上、僕の友達を侮辱しないでもらえますか。今すぐ、謝罪してここを立ち去ってください。」
その言葉に、男の顔色はむしろ青ざめたように見えた。訳のわからない怒声を上げて右手を振り上げる。
デトミナにも、周囲で見ていた他の人々にも次の瞬間、酒瓶で頭を割られて血を流すカシオの姿が容易に想像できた。そのイメージは少女を慄かせ、観衆には暗い高揚感と漠とした不安を抱かせた。
しかし、結果はしばしば予想を裏切るものだ。そう、この場合にも。さらに言えば結果は誰の目にも明らかだったが、過程について正確に理解できた者はほとんどいなかった。
薄汚れた酒瓶が鈍い光を放ちながら、鋭い軌跡で少年へ迫る。観衆のあるものは目をつぶり、あるものは目を見張ったその刹那。カシオが酒瓶の動きと呼応するように身体をひねり、外套が旋風のように翻った。鮮やかな初動。観衆が把握できたのはそこまでだった。気がついたときには、少年の身体は既に静止して男の喉下に短刀を突きつけていた。
「今すぐ、立ち去ってください。」
カシオが静かに、しかし断固とした調子でそう告げる。男は数秒を状況の把握に費やしたあと、目だけでせわしなく肯いた。喉元から切っ先が離れると、濡れたガラスのように底光りするカシオの瞳に気圧されたかのように二・三歩後ずさりした。その目には狼狽と恐怖、そして憎悪の光がある。
カシオは未だ油断なく身構えていたが、男は捨て台詞を残すとそのまま広場に背を向けて去っていった。
「カシオ、怪我とかしなかった?」
緊張感から開放されてざわめきを取り戻しつつある広場で、デトミナがカシオに声をかけた。
「大丈夫だよ。瓶も当たらなかったし、怪我はない。デトミナも大丈夫だった?」
そう言いながら、手にしていた短剣を鞘に収めようとした。ところが、切っ先がまるで鞘の口から逃げているように、いつまでも仕舞うことが出来ない。
少女は気がついた。少年の手が激しく震えていることに。その反応に少年も改めて自分の手の震えに気がついたようだった。少し、気まずそうに笑ってみせる。
「あ、あれ?おっかしいな。あはは、」
デトミナは優しい手つきで、カシオから短剣と鞘を受け取って収めた。カチリと音がしたのを確かめると、少年にそれを手渡す。
「本当に、助けてくれてありがとうね。」
カシオは短剣を受け取りながら、照れ隠しをするように帽子に手をやった。デトミナに応える言葉を探していたが、それ見つけるよりも先に神官イズレイルが彼に声をかけた。
「カシオ君でしたね。君のおかげで大きな騒ぎにならずにすみました。どうも、ありがとう。」
そう言った若い神官は、そのすぐ後に「でも」と続けた。
「君のようなまだ歳若い子があんな風に無茶をしてはいけませんよ。今回は無事でしたが、いつも上手くいくとは限りません。他人だけじゃなく、自分も大切にしなければ。」
この言葉にカシオはかしこまって肯いた。自分のしたことが間違っていたとは思わないが、もう少し他に手段があったのではないかと思わないでもなかったからだ。
「申し訳ありません神官様。私のせいで騒ぎを起こしてしまいました。」
デトミナはすまなそうな表情でイズレイルに頭を下げた。それに対して、若い神官はとんでもないと言わんばかりにかぶりを振った。
「何を言っているんですか。先程の騒動はひとえにあの男性と飲みすぎたお酒のせいですよ。」
「でも」
「以前にも言いましたが、もし生まれのことを気にしていると言うのなら、それは間違いです。確かに貴方にはヤツキスの血が流れていますが、それもせいぜい四分の一。さらに言えば誰よりも熱心なテラスの信徒ではないですか。それに私はヤツキスであることは決して悪いことではないと考えています。たとえ信仰の形が異なっていたとしてもです。胸を張りなさい。今の貴方には何も人に恥じることはないのですから。」
聖職者としての情熱に溢れたこの言葉にデトミナの頬は上気し、目には涙が浮かんだ。カシオも思わず引き込まれている。そんな聴衆に気を良くしたのか、神官はさらに話を続けようと口を開きかけたが、それは二つの声で遮られた。
一つは、イズレイルに早く持ち場に戻るように要請する手伝いの少年の声。もう一つは、デトミナを呼ぶスラムの子供たちの声だった。
子供たちはイズレイルたちから受け取った黒パンを手にデトミナの元へ駆け寄ってくる。皆先程の騒動で彼女を心配していたのだ。口々に自分の名前を呼んで、甘えてくる子供たちにデトミナは笑顔で語りかける。それは姉の様でも、母の様でもあった。
そんな子供たちの中で一人、カシオに話しかけてくるものがあった。行列の中から睨みつけるような目つきでカシオを見ていたガキ大将風の男の子だ。
「姉ちゃんを助けてくれてありがとな。お前なかなかやるじゃねえか。」
生意気な口調で発せられた素直な言葉に、思わずカシオの頬が緩む。男の子はジアーニと名乗った。応じてカシオが名乗ると、それまでは遠慮していたのだろうか、他の子供たちも近づいてきて、てんで勝手にしゃべり始めた。
大人しい兄のサリオと甘えたがりのエンデの兄弟。おしゃまな少女のケイナ。そこにジアーニを加えた四人がデトミナの家族らしい。
四方八方から話しかけられてカシオが目を白黒させているうちに、気がつけば子供たちを相手にナイフさばき、と言うか護身術のようなものを教えることが決定していた。
とは言うものの、相手は興奮しては駆け回る元気一杯の子供たち。そして教えるといってもカシオには精々、リイド・グラスの受け売りしかできない。
上手くいくはずがなかった。
最初こそ澄ました顔で講義。「行動に移るまえに、良く状況を見極めて何が出来るか考えたほうが良い。」とか「正面からじゃなく、必ず奇襲をかける。」というような話を聞いていたのだが、一人が騒ぎ始めるとそこからは一気呵成だった。瞬く間に集中力は失われ、次の瞬間にはカシオ対少年三人のプロレス会場が出現していたのである。
腰に全力のタックルをかまして来ようとするジアーニに、おんぶをねだり勝手に背中に登ってくるエンデ、塀の上から飛び込んでこようとするサリオ。ケイナはデトミナと座って話をしていた。
強く接触すれば、体が硬い樫の木でできていることがばれてしまう恐れがある。それを回避するためにジアーニのタックルをヒラリとかわし、エンデをなだめ、飛び込んでくるサリオを両手で何とか受け止める。
なんだかんだ言っても放っておけない生真面目な性格が裏目に出たのか。全力で子供たちの相手をしていたカシオはいつの間にか太陽が西に傾き、辺りが夕日に包まれていることにも気がつかなかった。身体は疲れきっている。
「もうこんな時間か。宿に戻らないと」
そうこぼすと、周りから抗議の声が上がった。しかし、夕食と朝食の時間に顔を見せるのはブザーとの約束で、破るわけにはいかない。何とか子供たちに納得してもらおうと四苦八苦していると、それまでカシオたちの様子を見ていたデトミナが助け舟を出してくれた。
「コラコラ、私たちももう帰る時間でしょ。明日は仕事なんだから早く帰るわよ。」
デトミナの言葉には素直に肯く子供たち。これが年季の違いかとおかしな納得の仕方をしながら、カシオも同行を申し出た。時間はないが、それほど切羽詰っているわけでもない。
「さあ、いこーぜ。さっさとしないと暗くなっちまうよ。」
ジアーニの声に引っ張られるように夕暮れのスラムをにぎやかな集団が歩き始めた。
火傷の跡が~、決まったものしか食えない~、などの病み上がりアピール。
からの、アクション。どないやねん、と言わざるを得ない。