グレイ商会
川沿いの街道を馬車は一定の速度で走っていく。荷を満載しているせいで速度はそれほど速くなく、冬枯れた沿道の景色がゆっくりと後ろに流れていく。カシオとブザーは並んで御者席に腰掛けていた。
昼過ぎにグレイの店のあるグリンマントを出発し数時間。冬の日暮れは早い。既に辺りには夕刻の気配が漂っている。先を急いでいるためか、手綱を握るブザーは無言で馬車を走らせていた。
御者台の上から、規則正しく揺れる馬の背を見ながら、カシオの思考は数時間前のグリンマントにさかのぼっていた。
石畳が敷かれ、家の立ち並ぶメインストリート。露天の立ち並ぶ市場には人の声と活気が満ち溢れている。書物では何度も目にしたが、実際に見ることは一度としてなかったそれらの光景に少年はいともたやすく目を奪われていた。
「さあ、着いたぞ。ここが俺の店だ。」
そういってブザーが指差したのは木造の二階建て。壁には明るい色の塗料が塗られ、一階の広い間口からは立ち働く人の気配が届いてくる。軒下にはこじんまりとした「グレイ商会」の看板。字の読めないものにも分かるように、主要商品である薬草と毛織物のレリーフが刻まれている。
「お帰りなさい。荷の準備は出来ております。」
店先で出迎えた奉公人がブザーに対してそう告げた。ブザーはそれに肯くと馬車へ荷を積むよう指示を出す。すぐに二人の若い奉公人が飛び出してきて、キビキビとした動きで作業を始めた。
「それで、そちらの方が今回同行されるという」
そう言われて、カシオは奉公人たちが作業をしながらも自分のほうへ注意を向けているのに気がついた。
「カシオと申します。よろしくお願いします。」
慌ててそう言ったものの、果たしてこれでよかったのか、いまひとつ自信がもてない。リイドの家では来客自体が稀だったし、ブザー以外の客の場合は帰るまで森で獲物を狙うか、ミミズクを眺めてすごしていたからだ。
ブザーと話をしていた年長の男がカシオを見ながら何かを言う。小声だったのでカシオには彼が何を言ったのか聞き取れなかった。しかし、それを聞いたブザーは気遣うような笑顔を浮かべて男に応じた。
「お前のその心配を私は嬉しく思うよ。私を思ってのことだろうからね。しかし、それは杞憂だと言うほかないな。私自身が彼のことはよく知っているし、何よりリイド・グラスの紹介だよ。知っているだろう。少々変わり者だが、誠実さは折り紙つきだ。つまり、私と同じってことさ。」
どうやらカシオが同行することを不安に思った奉公人がそのことをブザーに告げたらしい。確かに奉公人たちがカシオに向ける視線はリイドやブザーのものとは違い、硬いわだかまりを僅かに感じさせる。
「確かに少々、人目を引く格好だが、それだって昔の災難のせいであって彼の責任じゃない。護衛としてみたって、」
それまで淀みなくしゃべっていたブザーはそこで言葉を切ると、カシオのほうを振り返った。目にイタズラな表情を浮かべている。年長の奉公人に何か言いつけると。カシオに向かってナイフを持ってついて来るように言った。
しばしの後、店の裏の空き地にカシオとブザー、それに奉公人たちが集まっていた。そこに立っているケヤキの枝の上にリンゴが乗せられている。先程、ブザーが年少の奉公人に命じて置かせたのだ。カシオとの距離はおよそ十メートルといったところ。
興味深げに事の成り行きを見守る奉公人の前でブザーがカシオに向けてこう言った。
「とりあえず、二本でどうだい。」
言葉の意味が分からずに奉公人は怪訝な顔をするが、カシオは静かに肯いて右手を腰の辺りに置いて構えた。そこには投擲用の小型ナイフが収納されている。左右の腰にはそれ以外にも短剣が一本ずつ差してあるが、今は必要ない。
一拍の後、カシオの右手が動いた。二本のナイフを掴み、目にも止まらぬ速度で振り上げる。この時、既に一本目の投擲は終わっている。そのまま、振り下ろしざまにもう一本のナイフも投擲。流れるような一連の動作。
一本目のナイフがリンゴの中心を射抜く。その勢いで標的が枝から転げ落ち、地面に向かって落下を開始する。そこに二本目のナイフが音もなく突き立った。
背後に立っていた奉公人たちから小さなどよめきが起こる。ブザーは得意げな顔で肯く。カシオは何とか注文どおりこなした事にホッとした顔をしていた。もっとも、カシオの表情は覆面に隠されて外からは窺うことができなかったが。
「どうだい。ちょっと無口なのも人里に慣れてないからさ。まあ、不安はあるだろうがここは私を信じてくれ。」
奉公人のうち歳の若い二人が木に駆け寄ると興味深そうにリンゴを手にとった。年長の男は納得しないまでも、とりあえず受け入れてくれたようだった。
「もう暗くなる。今日はここらで休むとしよう。」
ささやかな勝利の記憶を反芻していたカシオは、ブザーの声で我に帰った。
「私はかまどの準備をするから、君には薪をお願いして良いかい。」
馬を馬車からはずして、木につないでいるブザーに返事をすると、カシオは森へと入っていった。
夜気が満ち始めた森の中は不思議と心が落ち着く。手ごろな枯れ枝を拾い集めながら奥へ進んでいくと、やがて木々が開け小さな泉が現れた。どこかに湧き水でもあるのか、泉の水は透きとおっている。
唐突に強烈な懐かしさカシオの胸に湧きあがった。
(なんだ、これは?)
不可解なまでの唐突さにカシオは疑問を感じる。
その時、ブザーが森の入り口から大声で少年を呼んだ。どうやらかまどの準備は終わったらしい。後ろ髪引かれる思いで、少年は来た道を駆け戻った。
「やあ、お疲れ様。迷ってしまったんではないかと心配したよ。」
ブザーはそう言って笑ってみせる。カシオも釣られて笑みを浮かべた。
薪を手渡すとブザーは早速火打石で火をおこし始める。数分もすると、石を組み合わせた即席のかまどで炎がパチパチと快い音をさせ始めた。
「リイドから聞いてはいたが、君は本当に何も食べないのか。」
「はい、水は少し飲みますが。それもたまにで大丈夫です。」
ブザーからの質問にカシオは答える。自分だけ食べる形になることに気を遣ったのだろうか。ふむ、と肯くとブザーは視線をフライパンの上の豆と塩漬け肉に移した。脇には硬く焼かれた黒パンが置かれている。
豆が焼けるのを見計らってフライパンを下ろすと、今度はヤカンを火にかける。ブザーは豆と肉をつまみながらパンをかじり始めた。
「明日からの予定だが。恐らく昼過ぎには到着できるだろう。そうしたら、まずは注文の品を配達しに行く。後はそのほかに持ってきた商品をさばきながら、持って帰る荷の買い付けを行う予定だ。滞在は一週間から二週間。ラインフォレストは東西を結ぶ交通の要衝だから、珍しいものも多い。その分じっくりと商品を見極めたいからね。」
「僕はどうしたら。」
「んー、そうだな。基本的には私一人で何とかなるから、君は自由に街を見て回ると良い。街中なら治安も悪くないし。お願いすることがあればそのときに言うよ。ただ、朝晩は必ず顔を見せるようにしてくれ。一応リイドに君のことを頼まれた責任と言うものがあるからな。」
分かりました。カシオはそう答えた。会話が途切れ、森からざわめきが運ばれてくる。
その沈黙の中で、カシオは何かを尋ねようとしていた。二度、ためらう素振りを見せた後、口を開く。
「僕は、一体何者なんでしょうか。」
それは当然の疑問と言えた。樫の木でできた体を持ち、食事も摂らない。はっきり言って尋常な存在でないことだけは確実だった。それでも、山奥でリイドやブザーとだけ接しているうちは大したことではなかったのだ。
しかし、今日初めて見た街の様子。そこでは自分とは全く異なるたくさんの人たちが暮らしていた。その生き生きとした様をまぶしく思うほどに、今まで以上に自身の異相を意識せざるを得なかった。
自分は一体何者なのか。果たして人の中に入って行って大丈夫なのか。
「おいおい、そう心細い顔をするなよ。」
応じたブザーの声は拍子抜けするほど明るい。しかし、その表情は真摯なもので、視線はまっすぐにカシオに注がれていた。
「君が何者なのか。難しい問題だな。僕も答えは知らないし、君もすぐには見つけだ出せないだろう。そもそも答えなどないかもしれない。」
カシオは肯いた。ブザーは言葉をつづける。
「でも、心配することはないぞ。これでも私は君より長生きだからな。一つ、裏ワザを知っているんだ。」
「裏技、ですか。」
ブザーは自信ありげに肯いた。
「自分が何者なのかわからなくても、何者になるかは選ぶことができるんだよ。」
商人は言葉を切った。そして、言葉の意味が相手に十分浸透するのを待ってから再開した。
「たとえば私だ。元の生まれは農民の三男坊だが、家を出て兵隊になった。それに飽きたら今度は商人だ。つまり、農民ブザー・グレイとして生まれたが、兵隊ブザー・グレイになることを選び、次は商人ブザー・グレイになることを選んだ。選べるんだよ。自分が何者であるのかってことは。」
「でも、それはあなたが人間だからです。農民でも商人でも、それはすべて人間ブザー・グレイです。僕は、僕は人間じゃない。」
人間であるブザーとそうでない自分とは事情が違う。そう言いつのる少年にブザーは深く肯いた。
「もちろんそうだ。しかし、君が何者かわからなくても、もしくは判明したそれが君の望まぬ答えだったとしても恐れることはないと教えたかったんだ。もし、君が呪われた魂を持つ悪魔だとしても、君が望む限り君はリイド・グラスの愛弟子カシオだし、私の友人でもある。さらにはそれ以外の何かにもなれるんだよ。」
カシオは目を瞬いた。言われたことを咀嚼するには時間が必要だった。
一方、ブザーは照れていた。調子に乗って少々偉そうなことを言ってしまったような気になっていた。それで、少々強引だが話を締めくくることにした。
「さあ、明日も早いし今日はもう休もうじゃないか。」
そう言ってブザーは立ち上がると食器を手早く片付け、それが終わると焚き火の傍で寝袋に潜り込んだ。
カシオはしばらくそこで火の番をしていたが、そのうち思い立って森の中へ再び足を踏み入れた。周囲には獣の気配もない。しばらくなら離れていても大丈夫だろうと判断したのだ。。
先程とは違い、静かにゆっくりと、ただし真っ直ぐに泉の方へと歩いていく。先程感じた奇妙に胸をつく懐かしさがどうしても気になっていた。
星明りも遮られる木陰の闇に端然と立ちながら、森と泉を望む。周囲の全てを自分の中に取り込もうとするように、自身の感覚を広げていく。
森の中は静かだった。単純な音という意味であれば、虫の音が響き、梢が風に揺れ、姿の見えぬ鳥が鳴いている。しかし、その全てが渾然と一つのざわめきとなり、やがて鏡のように澄み渡った水面に溶けていくのだ。
何度となく風が森の上を吹き抜けていく音を耳にして、やがて自分自身も森のざわめきの一つとして溶け込んでいることに気がつくころ。カシオは泉の表面に変化を見とめた。
最初は光っているように見えた。闇の中に浮かぶ水鏡の表面が、月の光を集めて淡い輝きを放っているのかと。
だが、未だ月は昇りきらず、その光は森の木々に阻まれて泉の周りは闇で満たされている。
これは、澄んでいるのか。カシオはそう得心した。鏡のような水面から、その澄み切った水が大気の中に溶け出すように、輝くような清澄さが静かに滲み出している。
少年の目の前で、澄んだ大気はゆっくりとに密度を増していく。星空の下で揺らめくそれは何かの形をなそうとしているようにも見えた。
(人、か?)
カシオがそう感じた瞬間。不思議なことに、それは明確な形をとり始めた。まるで見るものの意識に呼応するような動き。気がつけばそれは長い髪を腰まで垂らした女性の姿になっていた。
カシオは目を疑い、震える膝を必死で抑えた。恐怖はなかった。ただ衝撃があった。
女性は澄んだ夜の色を映したまま、水面を滑るように少年の目の前に移動した。その姿はまるで歌い踊っているかのようにも見える。
いや、本当に歌っている。声が発せられているわけではない。そういうものではない。代わりに大気の中をまるで波紋のように染み渡ってくるものがあった。
それは全身を包んで少年の心を振動させ、その内部で旋律と意味を形作った。彼女は確かにカシオにむけて語りかけていた。
彼女はカシオを想い、同朋を想い、自分たちの儚さを歌う。
その唄の哀切な節回しにいつしかカシオは引き込まれていた。
どのくらい時間がたっただろうか。気がついたときには泉は何事もなく静まりかえり、東の空は仄かに紅く色づき始めていた。
慌てて馬車に戻るとブザーは既に朝食を済ませて茶を飲んでいるところだった。
「おはよう。ちょうど良かった。もう少ししたら探しに行かなくちゃならないと思っていたんだ。」
言いながら、やかんを差し出してくる。カシオはそれを受け取るとカップに半分ほど注ぎ、口を付けた。
「どうした。何だか表情が優れないな。なにかあったのか。」
マスクで表情はうかがえないはずだが、商売人とはそういうものなのだろうか。ブザーの鋭い観察眼に驚きながらカシオは曖昧に誤魔化す。
「いえ、それよりもすいませんでした。夜中勝手に出歩いてしまって。」
謝罪すると、ブザーは鷹揚に肯いた。
「狼除けの香も焚いてたし、この辺りは盗賊も出ない。とはいえ名目的には道中の護衛だからな、次回から気を付けてくれればいいさ。」
分かりましたと肯いて、カップの水気を切ってから片付ける。併せてブザーも立ち上がると火を消して食器を片付けた。
「よし、じゃあ行くぞ。順調なら昼過ぎにはラインフォレストにつけるだろう。」
再び御者席に並んで腰掛ける。走り去る馬車の後方に少しずつ小さくなっていく森をカシオは最後に一度振り返った。
アレは一体なんだったのだろうか。自分と近しいものなのではないだろうか。そんな思いが心に浮かんでくる。
人の世の枠の外に生きる存在。
自分は何者で、何者になろうとするのか。
目を凝らしてみても、当然ながら泉は森の奥、木々に阻まれて望むことは出来ない。カシオは視線を馬車の先に戻す、馬は単調なリズムで町へと向かい進んでいく。