楽精
カシオは床の上に膝をつき、崩れ落ちようとする体を何とか支えていた。背後では短剣を受けた楽師が断末魔の悲鳴を上げている。傷口と口から薄汚い影が血のように吹き出すが、地面に染みを作ることもなく虚空に掻き消えていく。
やがて、絶叫が絶えた。楽師の全身が灰のように崩れ落ち、その灰も全て煙のように消え去った。胸に突き刺さっていた短剣が梁から地面へと落ちた。
「夜の王子、しっかりするんだ。夜の王子」
耳慣れぬ声にカシオは目を開く。意識を失っていたらしい。顔を上げればソコには見覚えのない男が立っていた。
黒いコートでも着込んでいるのか、胴体が背景に溶け込んでしまい顔と手が浮いているようだった。栗色の髪をして、左手にはリュートを持っている。
「まさか、」
リュートからある存在が連想され、カシオは思わず身構えた。男はそれに対し悲しげな笑みで応えると、カシオが戦闘中に落とした短剣と帽子を差し出してきた。
「ご明察。というべきなんだろうね。」
美しく澄んで、どこか典雅な響きさえある声だったが、そこには取り返しのつかぬ過ちを自覚した者の深い影がある。
「それじゃあ、やはり」
「そう。僕こそがこの街に病を巻き散らし、死を振りまいた災いの楽師だ。」
声を出せないでいるカシオに男は言葉をつづけた。
「ありがとう。穢れから僕を解き放ってくれて。お陰で無事に母の御許へと行けそうだ。それにすまなかった。僕のせいで君の大切な人を失わせてしまった。」
カシオは思い出したように口を開いた。
「そうだ。穢れに囚われていたとはいえ、黒死病は貴方が広めたんでしょう。同じように消してしまうことは出来ないんですか。」
男は悲しげに首を振った。
「災いは既に僕の手を離れてしまった。僕自身は元々年経た楽器に宿る無力な妖精に過ぎない。災いを制御する力などないんだ。本当にすまない。僕が解き放たれ、穢れが消滅した以上、収束には向かうだろうが」
男、楽精は深くうなだれた。カシオの胸中にはまだ消化できない想いが渦巻いていたが、ひどく傷ついた様子の相手に鋭利な言葉を投げつけることはできなかった。
代わりに男がカシオに言った。
「夜の王子。僕に言いたいことは多いだろうが、早く戻ったほうがいい」
「それは、どういうことです。」
楽精の表情から嫌なものを感じ取ったカシオの胸がざわめく。
「君の友人に危機が降りかかっている。今なら、まだ間に合うかもしれない。」
相手の手から短剣と帽子をひったくるようにしながら、カシオは走り出した。背中から楽精の声が響いてくる。
「さらばだ。夜の王子。ありがとう。本当にすまなかった。」
そして、澄んだリュートの音。少年は振り返らなかった。
首、肩、背中、それに腰は動かすたびに切りつけるような痛みを発し、四肢は虫と鼠に齧られ裂傷と擦過傷のオンパレードだった。左のふくらはぎにはほとんど抉られたかのような深い傷が縦断するように走っている。
身に着けていた服装もその全てが切り裂かれたようになっていた。特に酷いのはシャツにズボンだ。ズボンは膝から下が、シャツは二の腕から先がそれぞれボロきれと化していた。
それでも、少年は走った。
スラムを包み、夜空を赤く焦がす火炎。走れば走るほど焦りは大きくなった。逃げ惑う人々の悲鳴、逃げられなかった人々の叫びが熱風に乗って吹き付けてくる。デトミナの小屋に近づくほどに地獄絵図はその度を増した。既に無事な小屋、無傷の人間を見つけることは出来なくなっている。
「デトミナ。僕だ。カシオだ!ジアーニ!サリオ!ケイナ!誰かいないのか!」
四人の名を呼びながらカシオは夜道を駆けた。
そして、ジアーニを見つけた。
ジアーニは燃え尽きた小屋の前で地面に膝をついていた。その顔には生気がなく、瞳には光がない。カシオは少年に駆け寄った。
「ジアーニ、大丈夫か。皆は、皆はどうした?」
見ればジアーニの顔は腫れあがり、左目の回りにドス黒い青あざが出来ている。
「ジアーニ!僕だ。一体なにがあったんだ!?」
カシオは片膝をつき、少年の肩に手を置いて呼びかける。さまようように揺れていた瞳がふいに焦点を結び、カシオの姿を捉えた。針金細工のような体が跳ねるように動き、呼びかけたカシオの襟首を掴む。
マスクに大きな傷がなかったのが幸いしたのか。それともそれ程に動揺していたのか。ジアーニはカシオの異相に気づいた様子もなく叫ぶ。
「カシオッ!サリオ、ケイナが…。姉ちゃんも!」
その言葉からカシオの脳裏に嫌な予感が走った。立ち上がり、いまだ煙を上げる小屋の中へ目を凝らす。焼け落ちた屋根、燃え尽きたテーブル、柱も鍋も全てが真っ黒に焦げ付いていた。
その中にサリオとケイナ、それにエンデが転がっていた。真っ黒に焼けただれ、体の大きさでようやく区別がつく。ケイナは寝床からほとんど動いてはいなかった。サリオは幼い少女を守ろうとしたのだろうか。ケイナに覆いかぶさるような姿勢で息絶えていた。
あまりに重大な結果は、時に体を硬直させ心の動きを阻害する。カシオはいつの間にか膝をついていた。呆然として声もないその背にジアーニの声がぶつかってくる。
「どこ行ってたんだよ。お前がいれば、二人も、姉ちゃんだって!!」
めまいにも似た強い喪失感に苛まれながら、カシオのごく一部、比較的冷静さを残していた部分がこの台詞に反応した。
「デトミナ。デトミナは、どうしたんだ。」
遺体はサリオ、ケイナ、エンデの三人。では、デトミナはどうしたのか。
「姉ちゃんは、連れてかれた。ヤツキスの魔女は火あぶりにするって」
俯いたジアーニの震える声。その言葉には自分の無力を悔やむ響きも交じる。
カシオはゆらりと立ち上がった。目の奥で紅蓮の炎が燃えている。ほとんど意識せずに口が動いた。
「この街を、」
何を言うのかと顔を上げたジアーニはカシオの姿に息を呑んだ。いまだ揺らめき続ける炎に照らされるその姿はさながら幽鬼のごとく。おぼろげな存在感はほとんどこの世の者とは思えなかった。
「この街を出て、街道を北へ向かえ。グリンマントの街に着いたら、薬屋のグレイ商会を訪ねろ。助けてくれるはずだ。」
「お前は」
ジアーニが問い返す。カシオの瞳が炎の光を飲み込んで光る。
「必ず追いつく。二人で」
俺も行く。ジアーニがそう言いかけたとき、既にカシオは疾風のごとき勢いで少年の前から消えていた。
次回、最終回です。




