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深まる闇

 時は、カシオと楽師の戦闘から数時間ほどさかのぼる。


「イズレイル、そろそろ休憩の時間だろう。ここは任せて休んだらどうだ。」

 ワイズにそう声をかけられて、イズレイルは顔を上げた。手には患者の食事、柔らかく煮込まれた麦粥の椀を持っている。時刻は昼を過ぎ、既に夕方と言ったほうがよい時刻に差し掛かろうとしていた。昨日から四人で順番に休憩をとることにして、そろそろイズレイルの番だった。

「ええ、そうですね。この食事が終わったら休ませてもらいます。」

 責任者という立場から、休憩の順番を最後に回したこの若い神官をワイズは気遣うように見やった。イズレイルの顔には濃い隈が現れ、本人が決して口に出さない疲労を伝えていた。

「熱心なのはいいことだが。体調を崩しては何にもならないと言ったのは他ならぬ君だろう。」

 イズレイルは苦笑した。

「分かってます。これが済んだら本当に休みますから。」

 ワイズはそれを聞くと、諦めたように肯いて自分の仕事へと戻っていった。

 イズレイルは年老いた患者に向きなおると、匙を患者の口へと差し出した。患者はそれを一度は口に含んだものの、すぐさま咳き込みだす。そして、そのまま嘔吐しはじめる。イズレイルは慌てて桶を患者の口へとあてがった。

 患者は次々と運ばれてくるのに、礼拝堂の中の人数はそれほど増えてはいなかった。何故なら、ほぼ同数の人間が次々と墓地へと出て行くからだ。

 猛獣のように襲い掛かる徒労感。それは避けようもなく、また否定しようもない。神官たちは皆、そこから目をそらして仕事へと向かっていた。

 患者の嘔吐がおさまった。イズレイルが手拭いで口元を拭ってやると、老人はぐったりとした様子だったが、それでも掠れた声で礼を言った。イズレイルはそれに笑顔で応える。そのまま、汚れた手拭いと手桶を片付けようと立ち上がった。


 いや、立ち上がろうとした。

 気づいたとき、イズレイルは床に膝をついていた。立っていられないほどのめまいを感じ、自分がどこにいるのかも分からなくなりそうだった。

 混濁した意識の中で、周りの人が心配そうに覗き込んでいることを察知した。あわてて立ち上がろうとした瞬間。今度は喉の置くから焼けるような違物感がせりあがってくる。イズレイルは激しく嘔吐した。


 礼拝堂の患者が、また一人増えた。


 仮にとはいえ、神殿の責任者たるイズレイルが病に倒れたという事実は既に浮き足立っていた信徒を動揺させるには十分すぎるほどの事件だった。

 少なくとも外見的には冷静だった神官たちと比べて、信徒たちは大げさなほどに平静さをなくした。

 それでも、患者たちの世話をしているワイズ、キハヌ、それにアライアスの三人への影響は比較的小さなものだった。患者は既に騒ぐことが出来る力がなかったし、その家族もそんな余裕は持ち合わせていなかったからだ。

 しかし、元気な信徒たちの相手をしていたシムとエイジンは混乱する信徒たちの矢面に立つことになった。

 今まで幸いにも神官の中に病に倒れたものはいなかった。そのことを改めて喧伝するものはいなかったが、つまりはそれがある種の証明になっていたのだ。

 太陽神テラスの加護により病魔は退けられるということの。

 それがいまや崩れていた。神官ではまだイズレイルのみだが、下男の中には倒れるものが出始めていた。

 神殿が当てにならないと見切りをつけ、家に篭るものはまだしも良かった。ある者たち等は倒れた神官、下男、さらには神殿全体の信仰に問題があるなどと扇動まがいのことまで始める始末だった。


「……実際のところどうなんじゃ。イズレイルの容態は」

 礼拝堂奥の小部屋。ろうそくの明かりの中、沈痛な面持ちで尋ねたのは神官たちの最長老シムだった。尋ねられた相手、ワイズの表情にも明るさは見られない。

「はっきり言って、良くありません。恐らくスラムにいたときから無理をしていたのでしょう。過労と黒死病で意識もほとんどありません。ただ嘔吐と下痢を際限なく繰り返して、どんどん弱っています。そちらの信徒たちの様子はいかがですか。」

 シムはため息をつくと、顔を両手で洗うように擦った。

「同じじゃよ。全く良くない。最悪と言ってもいいくらいじゃ。イズレイルと下男たちが倒れたことで神殿への、信仰への信頼が揺れておる。祈祷を望むものが増えているが、一方で神殿など当てにならぬと喚き散らす者も増えておる。そしてどちらも広場から動こうとしない。もう深夜じゃというのに。」

 部屋の中に沈黙が満ちる。十分な人手がなく、状況を打破する知恵もない。行き詰まった重苦しい空気が、うす暗い小部屋だけでなくラインフォレストの町全体を霧のように包んでいた。

 その時、広場で突如として起こったざわめきが小部屋の中へと割り込んできた。。


「一体、何がおこっているんだ。」

 確認のために外に飛び出した二人は近くにいた下男の一人を捕まえた。聞かれた下男は興奮した面持ちで西の空を指差す。広場の信徒たちも皆一様に西の空を見ていた。

 空が赤く燃えていた。夕日ではない、夕暮れは当の昔に過ぎ去り、あたりは闇に包まれていたはずだ。

「火事だー!」

 誰かの叫び声が上がる。呼応するかのようにどよめきが大きさを増す。広場に集まっていた人たちがまるで火に魅かれる蛾のように次々と火事の方向へと駆け出していく。

 年の功ということだろうか。二人のうち、先に我に帰ったのはシムのほうだった。

「見物しとる場合じゃないぞ。早く消さねば。この気候だ。延焼すれば酷いことになる。」

 シムの言葉にワイズも冷静さを取り戻す。それと同時に思い至った。今、この街では通常消火を行う機関。すなわち代官所と自警団、その両方が機能を停止してしまっているのだということに。

「シムさん。私は有志を連れて消火へと向かいます。その間神殿をお願いします。」

 老神官も同じことを考えていたのだろう。厳しい表情で、だが力強く肯いた。

「分かった。キハヌとエイジンも連れて行け。下男も何人か。こっちはアライアスとワシで何とかしよう。」

 その言葉を聞くやいなやワイズは動き出した。まずはエイジンとキハヌを捕まえて、エイジンには荷車とありったけの桶を、キハヌにはやはり荷車と木槌などの道具の準備を命じる。

 続いて広場に出て消火活動に参加してくれる有志を募ろうとしたが、皆火事の現場へといってしまったのか。広場は先程とは打って変わって人影少なくなっていた。

「準備できました。」

「こちらもです。」

 どうしようかと思案していると、二人が準備を終えて近づいてきた。一緒に行く下男たちも一緒だ。ワイズは方針を決めた。どちらにしろ迷っている時間はない。

「今から消火に向かう。エイジンと下男の皆は川へ水を汲みに行ってくれ。僕とキハヌは道具をもって先に現場へ向かう。」

 指示と同時にエイジンたちが走り出す。続いてキハヌとワイズも道具を積んだ荷車を押して走り出した。

「二人で行っても手が足りないのでは?」

 もっともなキハヌの質問にワイズは大声で答える。知らず叫ぶような調子なってしまったのは、彼もまた異常事態に動揺しているためだろう。

「現場を見に飛び出していった連中が山ほどいるはずだ。人手は現場でかき集める。」

 キハヌは肯くと荷車を押す足を速めた。


 火元は神殿から直線距離で百メートルほどの距離にあった。一軒の商家がその身体を真っ赤な炎に包まれて悲鳴を上げている。野次馬の中に家人らしき姿は見られない。裕福そうな屋敷だ。恐らく昼間のうちにこの街から逃げ出したのだろう。その代わり、というわけではないが家を取り囲む野次馬の数は普段以上だった。

「もう消すのは不可能でしょう。周りの家を打ち壊して延焼を防ぎましょう。」

 キハヌの意見にワイズも賛同した。野次馬の群れに向きなおり協力を呼びかけるべく口を開こうと構えた。その時だった。

「何で無人の家から火が出るんだ。」

 誰が口にしたか分からないボソリとした呟き。その台詞は火事場の喧騒の中、気味悪いほどにあたりに響いた。続いて細波のような連鎖反応が起こる。

「確かに」「この家は留守のはず」「何故」「おかしい」「付け火か?」「付け火だと!」「一体、だれが」「付け火なのか」

 呟きとどよめきが衝突をくりかえし、思いつきと憶測がいつの間にか事実へと変換されていく。

「みんな、火を消し止めるために力を貸してくれ!」

 ワイズが声を張り上げたが、群集の中には届かない。人々は群れの中にこだまする自分たちの声にしか耳を向けておらす、そのため急速に自家中毒に陥ろうとしていた。

「スラムの奴らじゃ?」「誰か見たのか?」「スラム」「誰か逃げるやつを見てないか?」「スラムか!」「ガラの悪い奴ら」「スラムのやつらが火をつけて逃げた」

 知らず創造された事実が集団を狂気へと追いやっていく。

「何を言っているんだ!まずは消火が先決だろう。皆、協力してくれ!」

 既にこの場においてワイズとキハヌは異端者だった。その声は誰の耳にも入らない。

 変わりに群衆の中の誰かが叫んだ。

「復讐だ!」

 別の誰かがすかさず応じる。どの声もいつの間にか絶叫へと変わっている。

「やられる前に、やるしかない!!」「松明をもて!」「武器を!」「俺たちの町を守るんだ!」

 血走った目をした男たちが荷車に殺到し、キハヌの用意した道具を奪っていく。手斧、木槌、鳶口。得物を持った男たちは他の者と一緒に松明を掲げスラムへと行進を開始する。

「お前たち何をしているんだ!!」

 思わず声を荒げ、男たちを制止しようとしたワイズをキハヌが抑えた。仲間の予想外の行動にワイズが振り向く、睨みつけるような視線の先。青ざめ、強張った顔のキハヌが力なく首を振った。

「ダメです。二人じゃ止められない。それに何をされるか分かりません。」

 大柄な身体に似つかわしくないその弱々しい声に、ワイズの中の憤りが無力感へと変わっていく。表情の変化を読んだのか、キハヌが力を緩めた。


 もう一台の荷車の音が近づいてきた。エイジンだ。野次馬がほとんどいなくなった火事場の状況を戸惑った様子で眺めている。ワイズもキハヌも説明する言葉を見つけられなかった。三人の神官は夜空を焦がす炎を前に所在投げに佇んでいた。


5/29は投稿をお休みさせていただきます。

次回は5/30です。

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