街へ
真夜中の静寂をミミズクが音もなく切り裂く。もう何度となく目にした光景であるのに、一向に飽きることがない。少年は身じろぎもせずにその狩りを眺めていた。
夜の寒さもこのときばかりは忘れていた。未だ初冬の時期とはいえ、山に程近いこの森では既に雪が薄く積もっている。
少年が隠者リイド・グラスと出会ってから既に二年近い時間が経過していた。
その間、何度となく眺めているお陰で、今や少年は目を閉じていてもミミズクの狩りを思い描くことが出来た。
ミミズクの狩りは、実は彼らが木の上に留まっているときには既に始まっている。彼らはそこで森の中で起こるすべてのことに目を見張り、耳を澄ます。
だから、枝を離れて宙に舞うときには狩りは半ば終わっていると言っても過言ではない。何故なら、彼らには既に分かっているからだ。獲物が今何処にいて、どう逃げて、どのように自分に捕まるのかということを。
「カシオ、ここにいたのか。まったく、本当にミミズクが好きなんだな。」
森の中で息を潜めていた少年に話しかけてきたのはリイドだ。厚手の外套を羽織り、雪を踏み分けて近づいてくる。森の端に住み、世間を遠ざけて生活をするこの男は少年にカシオと言う名前をつけていた。
「リイド、夜の森に来るなんて随分と珍しいね。」
少年の言葉にリイドは「たまには良いだろう。」と、そう答える。言葉とともに白い息が漂った。
「まあ、君ほどではないだろうが。私もミミズクは嫌いじゃないからね。なんと言っても彼らほど賢明な生き物はそうはいやしない。」
「賢明、賢いですか。」
「ああ、動くべきでないときに決して動かず。動くべきときには一切迷いなく動ける。これを賢明と言わずして何と言う。」
そこまで言うとリイドは口を閉じて樹上の鳥に目を向けた。距離はあるが話し声が気に障ったのか、ミミズクは神経質にあたりを見渡していた。
そのまま二人は肩をならべてミミズクを眺めていたが、ミミズクが更に森の奥へ飛んでいってしまったのを潮にリイドは家に戻っていった。
カシオには帰り際の彼の顔が何か言いたそうに見えた。しかし、そう考えてからそれを否定するように俯く。リイドの態度の中にそういうものを見とめてしまうのは、自分のほうにこそ何か言いたいことがあるからではないだろうかと。
ここに来て二年。言葉も教えてもらった。今身に着けているシャツにズボン、編み上げのブーツに外套にいたるまで彼がくれたものだ。人でない自分のことをまるで息子のように扱ってくれる。不満などあろうはずもない。
しかし、思うことはあった。まだ、自分の中で言葉に出来るほどには固まっていないが。それでもこうして真夜中に森の中で息を殺していると、胸のうちから名前もない感情が湧きあがってくるのを感じる。今日のような静かな晩は特にだった。
カシオはそれから一時間ほど森の中を散策してから家に帰った。眠るためではない。人間ではない彼に睡眠は必要ない。だから、夜は月明かりで本を読むのが常だった。彼の眼は不思議と夜でもよく見えた。小さな本棚に詰め込まれたリイドの蔵書。それらがカシオにとって世界を僅かに垣間見せてくれる小窓だった。
そうしているうちに、また今日も朝日が昇ってくる。夜の終わりはいつもカシオに落胆に似た気持ちを抱かせる。
カシオは立ち上がると水桶と天秤棒、それに洗濯用具を手にして近くの小川へ向かう。洗濯をして水を汲んできたら、畑を耕し、森で獲物を探す。仕事はいくらでもあるのだ。明るいうちに片付けなければ本を読む時間が減ってしまう。
小川から洗い終えた洗濯物と水で満たした桶を持って戻ってくると、家の横に見覚えのある馬車が止まっているのが見えた。前に回ると陽だまりに出した椅子の上で馬車の主、ブザー・グレイがリイドと話をしていた。
リイドよりも十歳以上若いこの商人は町から離れた家を訪れる数少ない人間の一人で、おそらくリイド以外でカシオが人間でないことを知る唯一の人物だった。
町から注文に応じて商品を届けに来るのだが、リイドとは旧知の間柄なのか。品物を届けに来たときには決まって腰を落ち着けて話をしていった。
町で主に薬を扱う商店を営んでいるらしいが、顎鬚を蓄えて日焼けした顔は精力的な印象を受ける。既に老年に差し掛かったかのように物静かなリイドとは対照的に壮年のたくましさがうかがえた。
二人が何か重要な話をしているように見えたので、カシオはあいさつだけして仕事を続けようとした。
しかし、二人はカシオに声をかけると余った椅子の一つに腰掛けるように促した。意外な成り行きに戸惑いながらも少年が椅子に腰掛ける。
「そんなにかしこまらなくても大丈夫だよ。大事な話だが、悪い話じゃない。以前から考えていたことについて、今日ブザーが良いアイデアを出してくれてね。」
まずはリイドが口を開いた。そこまで言って順番をゆずるかのようにブザーのほうへ目を向ける。視線を受けたブザーが後を引き取った。
「話と言うのは簡単だよ。カシオ、君は一度街に下りてみる気はないかい。」
それは少年にとっては思いもかけぬことだった。彼の知識はリイドに教わったことと本棚から学んだことくらいだ。街というものを知っているが、実際に見たことも行った事もない。
当然、興味は持っていたが。それでも自分が街へ行くなどということは、考えたとしても現実味のない計画だった。
なぜなら、彼は自身の特異性について無自覚と言うわけではなかったからだ。もちろん、ほとんど人と触れ合ったことのないカシオにとって、それは推測、伝聞の類でしかなかった。
しかし、それが経験の伴わない薄い認識だったとしても、自身の姿を目にした多くの人は嫌悪感を抱くであろうこと。リイドやブザーはいわゆる変わり者であることを知っていた。
と、そんなカシオの思考をブザーは遮った。
「驚いてくれて嬉しいが、先を続けるぞ。知っての通り私は町で商店を営んでいるわけだが、店売り以外に行商の真似ごともしているんだ。君にはその手伝いをしてもらいたい。」
「手伝い、ですか?」
尋ねるカシオに肯いてから、ブザーは先を続けた。
「こんなことを急に言い出したのには、もちろん理由があるんだ。実は、いつも連れて行く奉公人が少し体調を崩していてね。幸い症状は軽いが、それでも遠出には連れて行けない。運ぶ商品の一部は既に注文を受けたもので配達の期日が迫っているから、いかないわけにもいかない。しかし、一人旅は危険が多い。かといって、代わりのものを連れて行くとこちらの店の人手が足りなくなる。」
どうしたものか、とでも言うように肩をすくめるブザー。
「そこで君を思いついた。しばらく前から、君に町を見せてやって欲しいとリイドに言われていたし、ナイフを上手く使うそうだな。それなら道中も安全と言うものだ。気がついてみれば、これしかないと言う考えに思えたからね。こうしてリイドにお願いに来たというわけさ。」
ブザーが口を閉じたのを見計らってリイドが少年に向き直った。
「カシオ、最近の君の様子で気付いていたよ。ここにあるものだけでは物足りなくなっていたんだろう。もっと広い世界を見てみたい、と。」
「リイド、僕は」
訳もわからぬままに弁解めいたことを口にしようとしたカシオをリイドは肯いてみせることで制止した。
「当然だよ。君は世の中に背を向けた私と違いまだ若い。広い世界を知るのは君の権利であり、義務でもある。そして、それを手助けするのが年老いたものの義務だ。どうかね、行ってみる気はないかい。何、なにもずっとと言っているわけじゃない。道中を入れても一月とかからない。」
そう言われて、少年は改めて自身の心中に問いかけた。不安、躊躇い、恐れ、そして期待と喜び。
「行ってみたい、です。」
カシオが出した答えに、二人は満足げに肯いた。
「よし、それでは準備にかかろう。カシオ、奥の部屋に来てくれ。」
リイドはそう言うと、立ち上って奥の部屋へとさがる。カシオも急いでそれに続いた。
部屋に戻ったリイドは戸棚からいくつかの品物を取り出そうとしていた。そうしながらカシオへ話しかける。
「分かっているとは思うが、街では君の正体を隠さなければならない。さもなければ、君自身だけでなくブザーにも危害を及ぼすことになるだろうからな。」
少年はリイドの言葉に黙って肯く。リイドが棚から取り出したのは少年の衣装だった。
ツバの大きな帽子、襟が特別大きく丈の長いマント、そして目の粗い布で出来たマスク。いずれもほとんど黒に近い紺色、夜の空を思わせる色だ。
「街では、出来るだけこれらを脱がないようにするんだ。特にマスクは絶対にはずしてはいけない。」
言いながら、リイドは品物を身に着けさせていく。マスクは目の部分にだけ穴が開いており、後部を革紐で固定するようになっていた。これなら木目の模様が走る顔が隠れ、白髪のような髪の毛しか見られることがない。
その上に帽子を被りマントを羽織れば、マスク自体もツバと襟に隠されてほとんど隠れてしまう。
その姿をまじまじと眺めた後、リイドは再び庭の方へと歩いていく。カシオも続いた。
「こんなものでどうだろうか。」
リイドがブザーに尋ねる。商人は上から下へと視線を動かして少年の姿を観察して口を開いた。
「まあ、何とかなるだろう。顔を隠している理由は過去に火事にあって全身に酷い火傷があるということにしよう。そうすれば、誰も好んでマスクの中身を覗きはしないはずだ。」
その言葉を聞きながら、カシオは水桶に映る自分の姿を見ていた。帽子とマントの襟に隠れて顔の造作は読み取れそうもない。かわりに、かなり怪しい人物になっている気がするが、二人が言うなら大丈夫なのだろうと思った。
「それじゃあ、朝食を摂ったら出発しよう。持っていくものがあったら今のうちに馬車に積んでおいてくれ。」
ひとまず話は終わりとばかりにブザーがそう締めくくった。
こうして、少年は生まれて初めて街へと赴くことになったのだ。