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イズレイル

「うぅ、寒い、寒い。」

 そう呟きながらノールド・ケステンは一人、明け方の通りを歩いていた。凍える手のひらを揉みながら、風を避けるように背中を丸めている。顔は不景気そのものという仏頂面だ。

 もっとも、自警団の不寝番(ねずばん)。それも見回り中に暴漢に襲われて簀巻きにされたとあっては仏頂面もやむなしといったところだろう。

 縛られたせいか節々が痛むうえに、冷えきった体は震えが止まらなかった。家で待っているはずの妻と温かい食事のことを思い、ノールドはさらに足を速める。

「ただいまー。」

 ノールドの期待通り、妻のセリッサは既に起き出していて食事の用意をしてくれていた。夫の声に応えて、振り向く。

「お帰りなさい。自警団のお仕事ご苦労様。ご飯、食べるでしょ?今並べるから座って頂戴。」

 そう言って、テーブルの上に料理を並べる。竈で温められたパンと湯気の立つスープ。疲れて帰ってきた夫を気遣っているのか。量は少ないがチーズにハム、ワインまで食卓にのぼっている。

 冷えきった上に腹ペコだったノールドはすぐさまパンにかぶりついた。

 セリッサはテーブルの向かい側に腰掛けて、せわしなく口を動かしている夫を見守っている。

「ねえ、なんだか顔色が良くない見たいだけれど大丈夫?」

 身体を案じるセリッサの言葉に、ノールドは笑みとともに応じる。

「なに、ちょっと疲れてるだけだよ。なんせこの寒い中、川辺で一晩過ごしたんだから。しっかり食べて、ちょっと休めば問題ないさ。自警団から手当ても出るから、今日一日休んでも問題ないし。」

 夫の台詞にセリッサは少し安心したようだった。空になったスープ皿を受け取るとおかわりをよそう。

「でも、良かった。ひょっとしたらスラムの人たちと揉めたりして危ない目に会うんじゃないかと心配していたの。」

 ノールドは礼を言ってスープを受け取ると残りのパンを口に運び、ワインにも手を伸ばした。

「まあ、昼の間は騒がしかったが夜になってからは静かなものだったよ。暇を持て余して退屈だったくらいさ。」

 暴漢に襲われたことは妻には言わないことにした。わざわざ怖がらせることはないし、何より暴漢を撃退したならともかく、簀巻きにされたのでは武勇伝というわけにはいかない。はっきりいって格好が悪かった。

 そうこうしているうちに食事を終えると、ノールドは立ち上がった。背後で食器を片付けている妻に一声かけて、睡眠をとるべく寝室へと向かう。

 薪ストーブによって既に暖められていた寝室に入り、上着をかける。次にベッドに入ろうとして、微かな違和感を胃の辺りに感じた。しかし、それは厚い雲を隔てて伝わる冬の陽射しのように微かだったから、ノールドはさして気にすることもなく布団にもぐりこんだ。急にたくさん詰め込んだから腹がびっくりしたんだろうと。

 しかし、睡眠の後、ノールドはそうではなかったことを悟ることになる。その身をもって、突如として湧き上がった腹痛と嘔吐感によって。既に自身が完全に病魔に冒されていることを。

 それは、ノールドの家でだけ起こったことではなかった。他の自警団員の家で、検問近くの住宅で、それに全くスラムと関係のない街中で。人々は次々と倒れた。

このことから導き出される解答は一つだった。

 つまりは、街もまた病魔の手をかいくぐることは出来なかったのだ。


 ラインフォレストの街は転げ落ちるようなスピードで滅びの道を走りはじめた。


「イズレイルさーん。イズレイルさーん!」

 くりかえし名前を呼ばれて、神官は顔を上げた。スラムへ来てまだたったの一晩、それでもその顔には疲労の影が色濃く、目の下には酷い隈が浮かんでいた。

 神殿関係者の宿泊と病人の看病のために借り上げた小屋の一つ。イズレイルはそこで病人の看病に励んでいた。もとより貧しく、薬はおろか食事も満足に摂れない病人が次から次へと運び込まれてくる。神官たちは疲労と、いつ自分たちも患者の列に加わるかもしれないという緊張感に蝕まれていた。

「どうした。何の用事だ。」

 小屋の外に出ながら使いの者に尋ねる。見覚えのある顔は神殿の下男の一人だろう。疲れた目に朝日が痛い。

「神官長が急ぎ伝えることがあるそうです。一旦戻られるようにと。」

 下男の言葉にイズレイルは質問を返した。

「戻る?神殿へか。しかし、橋には検問があるのだろう。いや、それならそもそもお前はどうやってここまで来たんだ。」

 小屋にこもりきりで病人の看病に追われていたイズレイルは街の状況を全く把握していなかった。使いのものは気遣うような表情で言う。

「検問は既に解除されています。昨日の午後から町中で患者が発生しており、その用がなくなったからです。神官長のご用件も恐らくはそれに関することかと。」

「まさかそんなことが。…分かったすぐに行く。」

 イズレイルはそう答えると近くにいた別の神官に用件を伝え、足早にスラムを後にした。


 たった一日で街は様変わりしてしまっていた。通りからは活気が消え、どの家も戸口を堅く閉ざして病魔の進入を拒もうとしている。神殿への道すがら、イズレイルは何度か大きな荷物を持った旅姿の者達とすれ違った。

「街の外から来ていた行商の者達や他の町にツテのある者たちがこぞって逃げ出しているのです。商工会の幹部も多くのものが既に。」

 イズレイルの視線を読んだ下男が言う。若い神官は自分の眉間に皺がよるのを自覚した。無理からぬことだと理解はできても、町を捨てる行動に肯けぬものを感じたのだ。

 火の消えたような街とは対照的に、神殿は人で溢れていた。多くの病人ともっと多くのまだ病気でない者がいた。病人は礼拝堂をはじめとした屋根のある場所で寝かされ。それ以外の者は屋外で焚き火を囲んで一身に祈りを唱えている。

「これは一体どうしたことなんだ。」

 思わず呟いたイズレイルの疑問に下男が答えた。

「朝から皆が集まり始めまして。病気になったものと家族が多かったのですが、テラス神の加護を求める者もまた多いようです。それより、執務室へどうぞ。神官長がお待ちです。私は他に所用がありますので失礼いたします。」

 下男が去り、イズレイルも執務室のある敷地最奥の離れへと向かう。その姿に気がついた人々がすれ違いざま口々に祈りを唱えた。

 それに祝福の言葉で応えながら広場を横切り、離れの前に立つ。

 ふと離れの裏手、通用門の前に四輪立ての馬車が止まっているのが目に付いた。二頭の馬が繋がれ、御者も座っている。今すぐにでも走り出せる様子で乗客を待っている様子がなぜか気になったが、今はそれどころではない。視線を切ると階段を上がり、執務室のドアを叩いた。


 来訪を告げるとドアの向こうから神官長サマウラが入室を促す。その声に応じてドアを開けたイズレイルは我と我が目を疑うことになった。

 それほど高位ではないとはいえ貴族の家に生まれ、篤実な人柄で町の人々に愛され、また街とそこにいる人々を愛していたはずのサマウラ。やや世俗の事情に流される傾向があったとはいえ、その信仰と神話への理解により神官たちの尊敬を我が物としていた神官長。

 その男は今、イズレイルの目の前で部屋中をひっくり返し大きな鞄にありったけの荷物を詰め込んでいるところだった。

「神官長、何をされているのですか。」

 相手の行動の指し示すものが一つしかないことを理解しながらも、それを拒むようにイズレイルは問いを発した。

 問われた男の態度には全くもって変化は見られなかった。とはいっても落ち着いていたわけではない。何せ作業を一刻も早く完了するためにせわしなく動き回っていたのだ。

「ん?ああ、君も荷物をまとめてきなさい。裏に馬車を待たせてあるから手早く頼むよ。」

 冬だというのにその顔はうっすらと赤くなり、額は汗でテカッている。しかし、口調には動揺は見られなかった。

「まさか、街を見捨てるつもりですか。」

 反対にイズレイルの声は揺れている。サマウラは驚いたような表情を浮かべた後で、まるで諭すように言った。

「不満かね。しかし、残ってどうするんだ。一体君になにができる?せいぜい病人の背中をさすることくらいだろう。公平たる我らが神は、神官だから信徒だからと病から守ってはくださらない。他の貴族出身者は既に馬車に乗っている。イズレイル、君は優秀な神官だ。これからの人生も長い。ここで危険を冒すことはない。さあ、荷物をまとめてくるんだ。」

 若い神官は明らかに動揺していた。瞳が揺れ動き、窓の外、ラインフォレストの町並みの上に居場所を求める。

 眩しいだけの冬の光に包まれた町並みが動揺を治めてくれたのか。数呼吸ののち、イズレイルは口を開いた。

「お断りします。今も働いている同僚。苦しんで助けを求める信徒たち。それを見捨てたら、私は二度と自身にたいして胸を張ることが出来なくなります。」

 その言葉を聞くとサマウラは顔をしかめた。ため息をついてイズレイルに向きなおる。ふてぶてしさすらにじむ態度にイズレイルは怒るよりも、むしろ感心していた。

「そうか。では好きにするといい。今から君がここの責任者だ。私はもういく。荷物を運んでくれる気は、ないだろうな。」

 サマウラはそう言うと、笑みさえ浮かべて見せた。イズレイルは荷物の一つを手に取った。そのまま扉へと歩き出す若い神官。この行動は神官長を少しばかり驚かせたようだった。

「見送らせていただきます。これまでの感謝の証に」

 どこか弁解するようなイズレイルの口調。

「そして、また決別の証として、だな。」

 応じたサマウラの口調には初めて感傷的な色が混じった。罪悪感、あるいは悲しみか。二人とももうそれ以上口を開くことはせず、黙って馬車に荷物を運んだ。

 先程はちらりと見ただけで気がつかなかったが、馬車には他にも何人かの神官が乗っていた。いずれも貴族出身の者達で、互いに話すこともせずイズレイルの視線を嫌うように黙りこくっている。

 サマウラが乗り込むと馬車はすぐに走り出し、道なりに右へ曲がっていった。イズレイルは積まれた薪の上に腰掛けてそれを見送った。

別の話ですが、フリガナのミスを修正しました。読まれた際にミスなど気づかれた方は教えていただけるとありがたいです。

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