エンデ
神殿に着いたとき、施しの一行はちょうど出発しようとしているところだった。食料や天幕を満載した荷車の横に知った顔を見つけ、カシオは駆け寄る。
「イズレイルさん、おはようございます。」
声を掛けられた若い神官イズレイルは今日も笑顔だった。
「やあ、おはようございます。カシオ君は今日街を出るんでしたね。あなたの道中の無事を祈っていますよ。デトミナさんはどうしたんですか。」
見れば神殿内にはかなりの人がいる。まだ、早い時間だというのに皆一心に祈りを捧げたり、神官に祈祷を願ったりしている。スラムで発生した病による不安を解消しようとしてるのだ。
「いえ、僕は出発を延期しました。それで一つお願いがあるんです。」
カシオの言葉が意外だったのだろう。イズレイルはいぶかしげな表情を浮かべた。
「こんなときであれば聞いてあげたいが、私も今は忙しくて。なんせすぐにスラムへ行かなくてはならないのです。また、別の機会にというわけには行かないのですか。」
イズレイルの言葉に反応したのはデトミナのほうだった。
「あの、私たちをスラムに連れて行って欲しいんです。」
デトミナの必死の表情にイズレイルは口を閉じた。何かを思案するように、デトミナとカシオに視線を漂わせた。
「なるほど、そういえば貴方はスラムで孤児たちと暮らしていたんでしたね。」
事情を大まかには察したであろうその言葉のあとで、神官は再び黙り込むと今度は二人のことを覗き込むような瞳で注視した。其の顔は眉根にしわが寄って悩ましげだ。
その沈黙に焦れたのか、デトミナが再び口を開こうとした時、機先を制するようにイズレイルが息を吐いた。そのまま小さく肯く。
「止めようかと思いましたが、二人とも既に覚悟を決めてしまっているようですね。駄目だといったら検問を破るくらいのことはしてしまいそうだ。」
イズレイルの台詞に昨夜検問を破ったカシオの表情が少々強張る。デトミナのほうは台詞の意味するところを理解して、かえって勢い込んで言う。
「それじゃあ。」
「ええ、二人とも手伝いということで同行できるように話をしておきます。間もなく出発ですので待っていてください。」
そう言うとイズレイルは先頭の荷車の近くにいた年配の神官のほうへ歩いていった。カシオとデトミナのほうを示しながら話をしている。二人の同行の許可を願い出ているのだろう。年配の神官は肯きながらイズレイルの話を聞くと二言・三言口を動かした。
戻ってきたイズレイルのすまなそうな顔に二人は少しばかりドキリとした。もしかしたら、断られたのではないかという考えが頭の隅をよぎる。そんな二人を前に神官は言いにくそうに口を開いた。
「カシオ君。」
名前を呼ばれカシオがうろたえる。
「その黒い帽子と外套が神殿のものとしては相応しくないと言われてしまいました。着替えてくれますか。スラムに入るまで僕の外套を貸して置きますから。」
そんなことかとカシオは胸をなでおろした。
「なんだ。てっきり同行を許可されなかったかと思ってドキドキしました。」
素直な言葉に、イズレイルはフフッと笑うと種明かしを始めた。
「実は昨日の午後、ブザーと名乗る人がやってきましてね。薬や道具を差し入れてくれたんですが、その時にもしも君が来るようなら同行させてやってくれと頼まれていたんです。」
意外な真相に空いた口がふさがらないカシオ。その代わりにデトミナが疑問を口にした。
「それじゃあ、さっき止めようと思っていたって言ったのは嘘ですか?」
イズレイルは首をゆるゆると振るとその言葉を否定した。
「いえ、止めようとしていたのは本気ですよ。いくら差し入れをいただいたからといっても、今のスラムが危険であることには変わりないんですから。」
先頭にいた年配の神官が声をあげた。出発の合図だ。居残りの神官が見送る中、三台の荷車が動き出す。デトミナとカシオも後ろから押して手伝った。そのままスラムまでの数百メートルを移動する。
検問では昨夜突破されたこともあり警戒がされていて、カシオは内心でビクビクとしながら通過した。幸い、暗い中で碌に姿を見られていなかったお陰か、つつがなく通ることが出来た。
一行は以前にも施しを行った広場で足を止めた。ここを拠点に病人の看護などをするらしい。
「それじゃあ、ここで一旦お別れです。何かあったらいつでも来てください。」
そう言うイズレイルに礼を言い、借りていた外套を返すと、デトミナとカシオは孤児たちの家へと向かった。二人とも息が切れるほどの早足になり、最後はほとんど全力疾走だった。
デトミナは入り口の前で一瞬|躊躇≪ためら≫う素振りを見せた後、一気に戸を押し開けた。三つの声がデトミナの名前を呼んで重なった。ケイナがぶつかるようにデトミナの腰に抱きついてくる。
カシオも続いて小屋の中へ入る。言いつけを守っていたのだろう。部屋の空気は暖かく、走ってきた二人が汗ばむほどだった。
すぐさま荷物を下ろすとエンデの枕元に行って様子を確かめた。
ほんの一晩の間に、明らかなほど容態が悪化している。頬がさらにこけ、顔色はほとんど土気色。腿や脇の下だけだった黒斑も今や首筋や膝の辺りまで広がっている。
「エンデ!」
予想以上に悪い状況に、思わずエンデにすがりつこうとするデトミナをカシオは押しとどめた。うかつな接触は病気を伝染してしまう事に他ならない。
「ちゃんとお湯を飲ませたんだけど、すぐ吐いたり下痢したり……もう、呼んでも返事しないし」
眠らなかったのだろう、目の下に隈をくっつけたサリオが思いつめた様子でそう言った。カシオは再びすがるような視線を受け止める。ケイナはデトミナにすがりついたまますすり泣いている。ジアーニは思いつめた顔で俯いていた。
「なに、大丈夫さ。薬ももらってきたし、栄養のある食べ物もたくさんある。心配するな。僕に任してくれ。」
カシオは根拠のない言葉を口にした。三人を励ますためでもあり、そう信じることで自分を支えるためでもあった。エンデの弱々しく浅い息に、カシオの理性的な部分が別の判断を下しそうになる。それを半ば無意識的に無視しながらカシオは三人に語りかける。
「三人は一晩中看病で疲れたろう。そっちの部屋で少し休みな。デトミナ、この中にパンとリンゴが入ってるから、皆に食べさせてやってくれないか。」
そう言って薬とエンデの分のリンゴと大麦、ジャガイモを取り出して袋を手渡す。デトミナは袋を受け取ったが部屋を出て行きはしなかった。
「カシオ、貴方も疲れているんじゃないの?エンデは私が見るから貴方も」
カシオはかぶりを振った。
「僕なら大丈夫。それよりこのままじゃ三人が参ってしまうよ。緊張しっぱなしで心身ともに疲れているから。休ませないといけない。僕より君のほうが三人とも落ち着けるだろう。落ち着いてから変わってくれればいいから。今は任せてくれ。」
そこまで言うと、ようやく納得してくれたようだった。デトミナはケイナを抱きかかえるようにして隣の部屋へと移動した。ジアーニも無言でそれに続く。
「…君も休んでくれ。心配なのは分かるけど」
言いながら、カシオはサリオの肩に手を置いた。それでも兄は弟の下から動こうとしない。その手はエンデの左手を握り締めている。
強引にひきはがすことも出来ず、カシオはサリオを動かすのを一旦保留した。代わりに鍋をコンロから下ろすと、その湯を別の小鍋に汲んで火にかけた。そこにブザーから受け取った薬草を投入する。これでしばらく煮出せば薬湯が出来上がる。
エンデは助かるの?
不意にサリオが口を開いた。カシオは反射的に肯定しようとしたが、その言葉はサリオの表情を見るなり喉に張り付いてしまう。
諦めでもなく、期待でもない。隠し切れぬ疲労の中、少年は感情が消え去ったような酷く静かな表情で真っ直ぐにカシオを見据えていた。
「分からない。この病気に絶対効く薬はないし、罹った人間はほとんどみんな死ぬらしい。でも、罹った人間が全て死ぬわけじゃないのも本当だ。でも、だからこそ、こっちが万全の状態で看病してやらなきゃならないんだ。君がこのまま倒れでもしたら、それこそエンデは助からない。」
サリオは答えなかった。エンデの顔に視線を落とし、その手を一度強く握る。そのまま、立ち上がると黙ったまま隣の部屋へと歩いていった。
カシオはそれを見送ると薬湯を火からおろして椀に移した。続いて再び鍋に少量の湯を張ると、切ったリンゴを投入して煮はじめる。形がなくなるまで煮込めば今のエンデでも何とか食べられるのではないかと考えてのことだった。
「頑張れよ。兄ちゃんが待ってるぞ。」
昼過ぎにサリオが休憩を終え、枕元に戻るとエンデが不意に兄を呼んだ。
「お、にい」
既に水も薬も口に出来ず。ただ、あるかなきかの息をしていた弟の突然の呼び声に、サリオはその手を握り締めながら何度も弟の名前を呼んだ。何度も何度も。
その声が届いたのか。エンデの表情が僅かに安らかなものへと変わる。
兄は名前を呼び続けた。まるで、自分が呼びかけているうちは弟はどこへも行かないと信じているかのように。
それでも、エンデは行ってしまった。
意識は二度と戻らず。息は次第に途切れ。そのまま、倒木が朽ちていくように静かに鼓動を止めた。やせ衰え、体から水分を失ったその顔はまるで老人のようだった。全身には禍々しい黒斑が浮かび上がっている。
既に夜の帳が街を覆い始めていた。兄は泣かなかった。ただ、弟の右手を握り締めていた。体温を分け与えるように。命を分け与えようとするように。
皆、打ちひしがれていた。ジアーニは俯いて歯を食いしばっている。その目は濡れ、拳は硬く握り締められている。ケイナはデトミナにしがみついて泣きじゃくり。デトミナはケイナを抱きしめて静かに涙を流している。
カシオは立ち尽くしていた。初めての喪失感に。焦燥感にも似た衝動に胸を鷲づかみにされて。
しかし、残された五人がエンデの死をそれ以上悼むことは出来なかった。痛みは更なる痛みで、悲しみはより深い悲しみに打ち消される。
「お腹、痛い。」
「なんか、気持ち悪い」
ほとんど同時に発せられた不吉な呟きにカシオとデトミナは凍りついた。発したのは二人。ケイナとサリオ。
病魔の侵攻は未だ始まったばかりだった。
最初に全部で30~40話と予告していましたが、20話強で終わりそうです。
もうしばらく、お付き合いいただけると嬉しいです。