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ブザー・グレイ

 びしょびしょの濡れ鼠になって帰ってきたカシオの姿を連日目撃するに至ったことに、ブザーは驚くよりもむしろ呆れているように見えた。出立の準備を中断し、宿屋の食堂にある暖炉の前に外套とマントを干す。シャツやズボンは流石に脱がせないので、手拭いで水気を取るだけだ。

 そうしたことがひと段落すると、ブザーはカシオの向かいの席に腰を下ろして覗き込むような目付きで少年を見た。

 相手が何を言い出すか分かった上で、どう切り出すかを見極めているその表情にカシオはにわかに緊張した。寒さに強張った右手をほぐすように一度、握って開く。

「ブザー、僕をこの町に置いていって欲しい。」

 前置きもなく、カシオはいきなり本題に触れた。暖炉の薪が乾いた音を立ててはじける。ブザーは椅子の背もたれによりかかり少しばかり顔をしかめた。

「正直なところ、そう言うだろうとは思っていたよ。しかし、その件については昨晩すでに話をしたじゃないか。」

 静かで大人しいが、断固としたブザーの口調。カシオは視線をそらしたくなったが、何とかそれをおしとどめた。

「友達が病気で苦しんでる。スラムの小屋で助けを待っているんだ。」

 恐らく、ずぶ濡れのカシオを見たときに勘付いていたのだろう。スラムへ行っていたことを聞かされてもブザーに動揺は見られない。

「君がいて何になる。黒死病は医者でさえ逃げ出す死病だぞ。」

 自身の非力を責められてカシオは言葉に詰まる。とっさに反論できない少年に対してブザーは追い討ちを掛ける。

「君が危険を犯すほどの意味はない。君を息子のように思っているリイドの気持ちを汲んでやろうとは思わないのか。」

 カシオは俯いている。

「でも、」

 やっと搾り出した少年の声は自信なさげに揺れてはいたが、顔を上げた時、その目には確固たる意思があった。

「でも、大したことは出来なくても、全く無力って訳じゃない筈だろ。吐いたものを片付けてやるだけでも違うはずだ。それに」

「それに、なんだい?」

 ブザーは少年の抵抗に気を悪くした様子はなかった。むしろ興味深げに続く言葉を待っている。

「それに、リイドは僕にそんな風には教えなかった。友達を見捨てろなんて絶対に言わない。友達を見捨てるくらいなら、むしろ友達の身代わりになれって言う筈だ。」

 この台詞を聞いて、ブザー大きくため息をついた。

「まったく、あの親にしてこの子あり、というところか。確かにリイドはそういうだろうな。」

 そう言って、ブザーは微笑んだ。いや、苦笑した。

「じゃあ。」

 カシオの声が明るくなる。

「ああ、私の負けだ。リイドには怒られるだろうが、止めても勝手に行きそうだからな。それならせめて薬でも渡してやった方がマシってものだろう。必要なものがあるなら言ってくれ。手持ちがあれば融通しよう。町に紛れて逃げてしまえばよかったのに、わざわざ戻ってきたって事はそういう意味だろう?」

 カシオが薬と食料を望むと、ブザーは外へ出ていき、しばらくすると荷物を持って帰ってきた。大きな麻袋と懐に納まるくらいの小さな皮袋。馬車から降ろしてきたのだろう。

「こっちの小さいのが薬だ。とは言っても、黒死病に効く薬なんてないからな。あくまで気休めの毒消しだ。煎じて病人に飲ませてくれ。それでこっちが食料。黒パンにジャガイモ、大麦、それにリンゴが少し。病人に食べさせるときはよく煮て柔らかくするんだぞ。」

 言いながら、二つの袋をカシオの目の前に置く。

「ありがとう」

 カシオはブザーに頭を下げた。ブザーは「気にするな」といわんばかりに肩をすくめると再び椅子に腰掛けた。

「薄情かもしれないが、私は予定通り出発させてもらうよ。君には君の約束があるように、僕には店主として無事に帰る義務があるからね。それと最後に一つ、説教臭いことを言わせてもらっていいかい。」

 カシオが居住まいを正すのを確認して、ブザーは続ける。


「君はさっき言ったな。自分は微力だが無力ではない、と。いい言葉だ。

 私が思うに、完全に無力な人間はこの世にいない。しかし、全能の人間もまた存在しない。

 友人を助けようという君の思いは素晴らしいが、常に全てを救えるわけではない。所詮、人は僅かな力を持ち寄ることしか出来ないんだから。

 誰のせいでもない悲劇というのがこの世にはたくさん存在していて、この街に残るということはそれらを目撃するということだ。いいかい。もしも君が誰かを救えなかったとしても、それは君のせいじゃない。それを忘れないでくれ。」


 普段はしない熱のこもった物言いだった。自ら苦境へと進もうとする友人へのせめてもの餞別だろう。カシオはそんなブザーに対して再度、礼を言う。ブザーは大儀そうにかぶりを振った。

「じゃあ、私はもう出発させてもらうことにしよう。大分時間がかかってしまったからな。」

 そういうと、ブザーは立ち上がり右手をカシオに差し出した。

「君の幸運を祈っているよ。」

 カシオも握手に応じる。

「貴方も気をつけて」

 二人は笑いあい。ブザーは馬車に乗り込んだ。玄関まで見送りに出たカシオに思い出したかのように言う。

「そうそう、スラムに行くなら神殿を頼るといい。今日の朝、施しを持ってスラムへと入るはずだから、同行ぐらいは許してくれるだろう。」

 その言葉を置き土産に、ブザーは今度こそカワセミ亭を後にした。

 残されたカシオもまだ湿っている外套を身に着けると、荷物を持って町へ出た。まず足を向けたのはデトミナのいる水車亭だ。約束どおりスラムの様子を伝えなければならない。


 まだ朝も早いというのに、水車亭は既に目覚めているようだった。店の奥からは人の立ち働く気配が漏れてくる。

 カシオは作業場に直接つながっている裏の戸を控えめに叩き、低い声でデトミナを呼んだ。間もなく、頬を小麦粉で汚したデトミナが顔を出した。カシオを認めると、戸口から飛び出してくる。その顔にはカシオの持ち込んだ報せへの期待と緊張が見て取れる。

 ありのままに伝えるべきかどうか、ここに来てカシオは躊躇った。真実を伝えれば、この少女は危険を顧みずスラムへと、孤児たちの下へと向かうのではないか。

 そこまで考えてカシオは苦笑した。何のことはない。つい先程のブザーと自分の会話を今度は配役を変えて繰り返そうとしているだけだ。そして、自分にそんな権利はない。

「カシオ、どうしたの?」

 デトミナがいぶかしげに声をかけてくる。カシオは向き直ると昨夜見てきたことを出来うる限り客観的に少女に伝えた。

 スラムの中ではどうやらかなり病が流行っているらしいこと。四人のうちエンデが病で伏していること。自分はこれから薬と食料を持って、神官たちとスラムへ向かおうと思っていること。

 デトミナは一言も発することなく聞いていたが、カシオが話し終えると今度はエンデの容態について詳しく質問を重ねてきた。

「私も、一緒に連れていって。」

 会話の最後にデトミナは口にした。

「止めやしないよ。そう言うとは思っていたし。何より四人は君の家族だ」

 デトミナの言葉を予想していたカシオはそう告げる。デトミナはその言葉を聞くとカシオに礼を言って、店の中へと戻っていった。

 カシオは|庇≪ひさし≫の下に詰まれた薪の山に腰を下ろし、帽子のツバ越しに朝の眩しい太陽に目を向ける。店の中からは作業の物音が途絶え、辺りには鳥のなき交わす声が時折響くだけだ。

 やがて、他の家々からも朝食を煮炊きする煙が上り始める頃、戸口からデトミナが出てきた。話は済んだのだろう。神妙な顔つきをしている。デトミナの目元が微かに赤くなっていることにカシオは気がついた。

「お待たせ。」

 待つほどの時間ではなかったと首を振るカシオ。その時、戸口から店の主人ガレットと妻のセムラが姿を現した。

 カシオは反射的に頭を下げた。ガレットとセムラは手にした包みをデトミナに渡している。デトミナの恐縮した態度を見るに餞別ということだろうか。

 カシオがぼんやりしていると、ガレットがこちらに向き直った。強い視線にたじろぐ。

「カシオ、だったな。お前さんとは知り合って間もないが、これでも人を見る目はもってるつもりだ。あの娘のことをよろしく頼む。」

 そう言って頭を下げる姿に言葉が見付からず、それでもカシオは肯いた。その戸惑いを見て取ったのか、ガレットは笑みを浮かべた。

「悪いな妙なことを言っちまって。でも、確かに頼んだぞ。」

 そういうと、セムラたちのほうへと戻りデトミナに言葉を掛ける。カシオは三人の邪魔をしないように少し距離をとって明後日の方へ視線を向けた。

 今度はすぐにデトミナがやってきた。

「それじゃ、今度こそ行こう。」

 デトミナの声に、カシオも肯いた。背後で手を振るガレットとセムラにデトミナは手を振りかえし、カシオは頭を下げてから歩き出した。

「急ごう。遅くなると神殿から施しの一行が出発してしまうかもしれない。」

 既に街は目覚め、戒厳令下とはいえ通りにはざわめきが満ち始めている。その中を二人は足早に歩いていく。水車亭を後にしてから明らかにデトミナの表情が硬さを増した。スラムで待つ四人の状況に心を痛めているのだろうか。カシオもあえて触れることはせずに黙々と足を急がせた。


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