水精
そこは夜の海のような、黒と見紛うばかりの青で満ちていた。時折、水滴が落ちる音がすると、それは空間に反響し澄んだ余韻となってカシオの耳を打った。
「ココは、一体」
状況が把握できず、あたりに視線を走らせるカシオ。不思議なことに脱いであったはずの衣服や短剣も身に着けている。
「突然のことで驚いただろうけど、とりあえず、僕の話を聞いてくれないかな。」
あどけない少女の声が青闇の中から響く。慌てて目を向ければ、ケイナと同じ年頃の少女が一人、ほんの三歩ほどの距離にたたずんでいた。髪が長く、瞳はどこまでも青く澄んでいる。ゆったりとしたワンピースの裾は青い空間に溶け込んでいた。光ない空間でもその姿がはっきり見えるのは、どうやら少女自身が仄かな光を発しているかららしい。
「本当は初対面ではないのだけれど。この前はちゃんと言葉を交わせなかったからね。だから、はじめまして。夜の王子、僕たちのかわいい末の弟。」
そう言って少女はクスクスと笑う。その声に聞き覚えがあったカシオは思わず口を開いた。
「貴方は森の泉であった妖精?でも、なんで」
「僕たち水精は全にして一。つまり、アレも僕、コレも僕だ。しかし、先日は池の精気が小さすぎて碌に意思の疎通も出来なかったからね。あんな半端な歌になってしまったんだよ。ふふ、それにしても実際対面してみるといいもんだねえ、弟ってヤツは」
そういいながら、少女はカシオに抱きつくとその頬をすりつけるようにする。
「弟?弟ってなんですか。っというかここはどこなんですか。それにさっき夜の王子って」
完全に状況に乗り遅れているカシオが早口で疑問を口にすると、少女は得意げな顔をしたあとでカシオから離れた。こめかみに指をあて、分かりやすく考えているポーズをとる。
「んふふ。んー、簡単なものからいくけど、ここは君の頭の中であり僕のフィールドでもある場所。まあ、夢の中って理解でいいよ。それで残りの二つなんだけど、一言では説明できないな。ちょっと長くなっちゃうんだけど我慢してちゃんと聞いてね。なんたってこれは、君の『これまで』と『これから』の話なんだから」
少女は口調からふざけた様子が消え去る。カシオも居住まいを正して少女の話に耳を傾けた。
「昔、昔のことさ。二人の王様がいたんだよ。太陽の王と夜の女王の二人。二人は協力してこの世界を作ることにした。太陽の王は大地や人や獣や草木、およそ形あるもの全てを造った。対して夜の女王は精霊や妖精のような形なきものを造った。
さて、二人の王は無事に世界を作り終えた。でも、全てが完璧に計画通りというわけじゃなかった。
ものが生まれ光があれば、そこには影が生まれ、やがて闇に育つ。
太陽の王の力は今より強かったから、生まれた闇も強大だった。生まれた闇は世界、さらには夜の女王をも蝕んだ。何せ、闇と夜は近すぎる。同じといってもいいくらいにね。
そこで太陽の王は自分の力を分け、その一つを月の騎士とした。太陽の王の力が弱められたことで生まれてくる闇の力も弱まり、なおかつ自分たちには味方が増える。月の騎士の力もあって王と女王は困難を乗り越えたんだ。
でも、夜の女王は気がついてしまった。自分と自分の創り出した子供たちが形あるものたちに比べて余りにも儚く脆い存在であることに。」
少女は一旦言葉を切ると、改めてカシオに問いかけた。
「今のはいわゆる『創世記』なんだけど、人々が伝えているものとは違ったよね?」
カシオは肯いた、教会で聞いた話では太陽神テラスは一人で世界を創造していた。そう答えると、少女はニコニコと笑い、少年の頭を撫でてくる。よく出来ました。そういわんばかりの表情だ。
「人はこれからどんどん増える。出来ることも増えていく。今や彼らは神さえ自分好みに変え始め、世界のルールも変えていこうとしている。そして、いずれは神を不要として、世界のルールどころか世界そのものを変えてしまうだろう。今、世界はこれまでと異なる局面を迎えようとしてるんだよ。言うなれば、新世界の幕開けさ。」
それ自体は良いことでも、悪いことでもないのだけどね。そう続けた少女の表情はどこか寂しげだ。カシオは何か言うべきかと思ったが、結局黙って続きを待った。
「つまり、脆く儚い古世界の住人はもう用なしということなんだ。かつて、女王が予期したことがついに現実になった。形あるものたちは、この世界は、既に僕たちを必要とはしていない。
だから、僕たちは少しずつ母の|御許≪みもと≫へと還る事になる。少しずつだが、確実に。いずれはこの世界から妖精・精霊の類は完全に消え去るだろう。」
でも。と、少女は言葉を溜めた。形の良い眉に憂いの影が被さる。でも?と、カシオは先を促すように声をかけた。
「全てのものが正しく還れるわけじゃないんだ。僕たちの存在は不安定に過ぎる。闇に触れれば容易く穢れ、人と交われば囚われるか、封じられる。たとえ、人智を超える力があり、永遠に等しい寿命があったとしても、やはり僕たちはか弱い。
だから、夜の女王は君を遣わせたんだ。仮初の身体に溢れんばかりの祝福を込めて。君を、愛らしい末の弟を。兄の穢れを祓い、囚われの姉を救出する最後の精霊、愛すべき夜の王子。それが君だ。」
「僕が精霊?それに祓いや開放なんて、僕はそんなことできませんよ。」
たまらず大声で異議を差し挟んだカシオに、少女は柔らかな表情を見せる。幼い子供に安心感を与えようと、その姉が浮かべるような笑顔だ。大丈夫だと、心配いらないと訴えかけてくる。
「出来ないなんてことは君に限ってはありえないよ。君の存在はそれだけで僕たちにとっての道しるべであり、女王の福音に等しいんだから。
でも、したくないというなら、無理にとは言わないよ。僕も女王も末っ子には甘いんだ。『どう生まれるか』と『どう生きるか』は別なんだから。この世界で何をなすか。それは君が君自身で決めていいことなんだ。」
少女の言葉にカシオは首を振った。少女はそんな少年の頬を慈しむようになでた。
「まだ、分からなくてもいいんだよ。幸いにして僕たちは長生きだ。いろんなものを見てからでも遅くはない。」
そういうと手を差し出し、短剣を一振り渡すようにカシオに求める。カシオも素直に応じた。
手にした短剣を口元に寄せるとその腹に口づけする。途端に短剣が少女と同じ燐光を放ちだした。それをカシオに返しながら言う。
「これはちょっとした餞別だよ。水精の加護を与えた。何かの役に立つだろう。じゃあ、もう帰ったほうがいい。」
その言葉を言い終わらないうちに、少女とその周りの空間が霞に包まれ始める。
驚き、少女を呼ぶカシオの耳に遠くから微かな声が聞こえた。
「僕たちは、いつでも君とある。愛しているよ。」
その声を最後にカシオの意識は乳白色の靄に包まれた。
気がついたとき、カシオは岸辺近くの浅瀬ででうつ伏せになっていた。ひたひたと小さな波が顔を打つ。身体には何も身に着けていない。下半身は完全に水没しており、上半身も下側は半分以上水に浸かっていた。
「う、あぁ」
流木が衝突した頭部の痛みにうめき声を上げながら、何とか上半身を起こす。手も足も冷えきっていて自分の身体ではないようだった。背筋にも痛みがある。荷物の包みはカシオから数メートルのところに転がっていた。当たり前だがびしょびしょに濡れている。
どうやら橋まで百メートルほどは距離があるようだった。この距離ならばよほど気付かれないだろう。そう安心して辺りを見渡す。まだ暗いが、山の端にほんの僅かに日の出の兆候がある。どうやら、のんびりしている時間はないようだった。
這いずるように荷物に近づき、引きずるように岸まで移動する。冷え切った身体に濡れた衣服を身に着けるのはかなりの苦行だった。それに今や身体は鉛のように重く、普段なら五分とかからない着替えに今日は少なくとも二十分はかかってしまった。
やっと全てを身に着けたあと、思いついてカシオは短剣を引き出す。両刃の短剣は夜明け前の暗さの中で仄かな光を放っている。
やはり、ただの夢ではなかった。カシオはそう確信すると短剣をしまう。そして、歩き出す。本音を漏らせば、すぐにもその場に倒れこみたいほど消耗しているが、そんなわけには行かない。
約束したからな。薬と栄養のつくものを持って帰るって、約束したんだ。
そう自分に言い聞かせると、カシオは最大速度で移動を開始した。