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孤児たち・2

 背後で見張りの男の怒鳴り声がする。カシオの思ったとおり追っては来ない。彼はあくまでスラムから病が噴出しないように見張っているのだし、誰も病魔が徘徊しているスラムへなど行きたくはないのだ。

 粗末な町並みの中に入り、橋が見えなくなったところでカシオは速度を緩めた。目指す孤児たちの小屋はスラムの端、走って行ってはその間に疲れきってしまう。

 小屋へ向かう間に、カシオは以前来たときと変わってしまっているスラムの様子を嫌でも思い知ることになった。

 一言で言えば、静かだった。酔っ払いの喚き声も、サイコロ賭博に興じる人々の喧騒も、今や全く聞こえない。

 かわりにカシオの耳に届いたのはバラックの薄い壁を通して響く、誰かが胃の内容物を吐き戻す粘ついた水音と嗚咽だった。

 不安をあおるその音に背中押されるようにして、カシオは足早にジアーニたちの小屋へと向かった。


 到着したとき、小屋は以前よりも小さくみすぼらしいものに見えた。駆け寄って粗末な板の扉を三回叩く。

「ジアーニ、ケイナ、サリオ、エンデ。僕だ、カシオだ。居たらあけてくれ。」

 途端に、跳ねるようにして扉が開く。カシオは思わず小さな唸り声をこぼした。

 狭い小屋の中には、糞尿と吐しゃ物の混じりあった甘くすえた臭いが充満している。明らかに誰かが病魔に犯されている。

 戸をあけてくれたジアーニ、その傍に立っているケイナ、そして部屋の奥に腰掛けているサリオの三人の視線がカシオを射すくめた。

 助けを求め、すがりつく視線だった。カシオの背中を恐怖にも似た震えが駆け上がる。

「え、エンデが。カシオ、エンデが…」

 ケイナが口を開いた。カシオの登場に気が緩んだのか、そのまましゃくりあげ始める。カシオはしゃがんで少女の涙を拭いてやり、ジアーニに向けて目線で部屋の奥を指した。ジアーニが肯くのを確認して部屋の奥へ進む。

 サリオの前に詰まれた藁の山。その上にエンデが寝かされていた。顔色は蒼白で口元が吐いたもので汚れている。兄であるサリオはまるで視線に病を遠ざける効果があると信じているかのように、固い表情で弟を見つめている。その表情には年齢に似つかわしくない苦悩の影が浮かんでいた。

 サリオに了解を求めてから、カシオは慎重にエンデの容態を確かめた。その身体は恐ろしいほどに熱く、ただでさえ細い身体がさらにやつれている。肌のはりも失われ、少年はマッチの燃え殻のように見えた。兄の呼びかけも届いているのか、切れ切れにうめき声を漏らすだけだ。

 上着をはだけると脇の下を中心に忌まわしい黒斑が浮かび始めていた。思わず息を呑んだカシオを他の三人が心配そうに見つめる。その視線に我に返ったカシオは動揺を表に出さないように努めながら、指示を出した。

「とにかく温かくすることだ。火をもっと強く出来ないか。それに湯を沸かして欲しい。それと、吐いたものと出したものには触らないようにするんだ。病気の毒が含まれているかもしれない。」

 カシオの言葉にジアーニがすぐさま桶を抱えて飛び出していく、水を汲みにいったのだろう。ケイナが部屋の真ん中に置かれたひび割れたコンロに薪を加えた。

 カシオはもう一度視線を戻す。こんなことならブザーにもっと具体的な処置の方法を聞いておくんだったと後悔していた。検問やぶりの企みが露見するかもしれないと思い、無関心を装ったのが裏目に出ていた。

 エンデの口元には吐しゃ物を拭った跡がある。少なくともサリオは吐いたものや出したものを片付けるのにそれらに触れてしまっているだろう。もしかしたら、三人とも。

 それも既にしようがないことだった。その考えを頭から振り払い、カシオはエンデの手を握ったまま俯いているサリオの肩に手を置いた。弟の苦しみに心を痛めているのか、その目は赤く腫れていた。

「夕方に、いきなり吐きだして。オレ、何にも出来なくて」

 小さな肩が震え、目頭に涙が溢れる。カシオは掛ける言葉につまった。何を言っても駄目な気がした。リイドやブザーならこんなときどんな言葉を掛けるのだろうか。

「泣くのは、エンデが元気になったときにしよう。今はしっかりしなきゃいけない。なんと言っても君はエンデの兄さんなんだから」

 気休めに過ぎないが、それでもサリオは目を擦って顔を上げた。

 エンデが弱々しく咳き込む。また嘔吐し、同時に下からも便が噴出した。既に腹の中には何もないのだろう。上からも下からも水のようなものが少しだけ、糸を引いて寝床の藁を汚しただけだ。

 しかし、その色を見てカシオたちの顔色が変わった。透明な粘液の中に一筋、鮮やかな赤が見て取れた。

「大丈夫か。エンデ」

 とっさにサリオが名前を呼びかける。エンデも消え入りそうな声でそれに答えた。

「にい、ちゃ…」

 一言、発すると再び高熱による自失の世界に戻っていってしまう。

 カシオが汚れた藁を丁寧に集めて、コンロにくべる。そこに桶に水を満たしたジアーニが帰ってきた。すぐさまケイナが鍋に水を移して火にかける。

 それを見ながらカシオは考えていた。これからどうすべきか。自分に何が出来るのか。それにこの狭い小屋の中で病人と一緒にいるという状況。それ自体が既に危険であり、ひょっとしたら他の三人も既に病魔に冒されているかもしれない。

「なあ、このあたりでこの家のほかに君たちが二、三日泊まれる所はないのか?」

 出来れば病人と子供たちを隔離してしまいたい。そういう気持ちを含んだカシオの問い。

 それに対して、子供たちの反応は少しばかりカシオの予想とは違っていった。カシオの目論見を悟ったジアーニやサリオに反抗されるかもしれないと思っていたのだが、実際には二人とも悔しそうに目を伏せただけだった。意外の思いを抱いたカシオに対して、ケイナがオズオズと答える。

「えっと、いつもならお願いすれば飯場のおばさんのトコとか、クーリーおじさん家とか泊めてもらえるんだけど。今は、ちょっと」

 そこで言いにくそうに口をつぐんだケイナ。カシオが続きを促そうとすると、今度はジアーニが吐き捨てるように言った。

「病人がでた家のヤツは近寄んなって、どこに行っても門前払いさ。」

 屈辱を感じているらしい表情の少年と、少女の寂しげな表情。カシオも心中で頭を抱えた。この寒さの中、大して服も身に着けていない子供たちを外に放り出すわけにも行かない。


 結局、危険を承知でこの小屋の中にいるしかないのか。諦めの気持ちでそう結論を出した時、鍋の湯が沸いた。欠けた椀にとり、木のさじを添える。せめて塩でも入れたかったが小屋の中には黒パンとチーズが少しあるだけだった。

「少しずつこの湯をエンデに飲ませるんだ。良いかい。少しずつだ。さもないとすぐに吐き出してしまう。でも、絶え間なくだ。下痢で身体に水がなくなってるからね。」

 サリオは真剣な面持ちで椀を受け取ると、さじで一すくいした湯をエンデに差し出した。恐る恐る口元に運ばれ、その唇を濡らすように垂らされる。どうやら飲み込んではいるようだった。

 カシオは肯くと、同じようにその様子を見守っていたジアーニとケイナに向き直った。サリオにも声をかけ、注意を向けると三人に向けて話し始める。

「さっきも言ったように、出来るだけ水を飲ませるようにして暖かくしてやるんだ。吐いた物や出した物には触ってはいけない。それから心配なのは分かるけど、君たちも順番に休憩を取るんだ。こちらが元気でなければ看病なんか出来ないからね。あとは喉が渇いたら君たちも湯を飲むようにしてくれ。椀はそれぞれ違うものを使うんだ。いいね。」

 つらつらと看病の心得を語る様子に、何か勘付いたのか。ケイナがカシオを見上げるようにして口を開く。

「カシオは一緒に居てくれないの?」

 心細げな表情のケイナの頭を優しく撫でながら、カシオは精一杯の笑顔を浮かべて三人を見る。何とか自信ありげに見えて欲しい、そう思いながら。

「僕はこれから街に戻って薬と栄養のつくものを手に入れてくる。薬屋をやっている知り合いがいるんだ。大丈夫さ。朝までには戻るから、それまでエンデのことを頼むよ。」

 ケイナはそれでも泣きそうな顔をしていたが、ジアーニとサリオの表情には落ち着いた意思が見て取れた。これなら大丈夫だろう。

「それじゃあ、僕は行ってくる。後は頼んだよ。」

 そういうとジアーニとサリオの肩を軽く叩き、ケイナの頭をもう一度撫でてからカシオは外気の中へと踏み出した。


 既に時刻は真夜中を過ぎ、吹き抜ける風は一層冷たさを増しているように感じる。その中をカシオは川のほうへ、しかし、橋とは別の方向へと走っていた。

 進入の際に強引な手段をとったせいで、橋の緊張感が高まっているのは間違いない。それにそもそも橋の検問は街への侵入を防ぐ目的で実施されているのだから、仮に騒ぎがなかったとしても突破することは不可能だろう。

 ならばどうするか、その答えをカシオは既に用意してきていた。スマートでも、安全でもないものだったが。

 カシオは北大橋の上流数百メートルの川原で足を止めた。既にスラムからも町からもはずれ、北風が冬枯れの木と積もった雪の上を吹きすさんでいるだけだ。見ているものなどいるはずもないが、それでもカシオはまわりをぐるりと見渡した。仄かな明かりが北大橋のたもとに見て取れる。

 そのあとで、覚悟を決めるとやおらに服を脱ぎ始める。脱いだ衣服と短剣などの荷物を外套で包むと、残っていた荒縄で自分の頭にくくりつけた。濡れない様にする為に。

 つまり、カシオは氷のような冬の川を泳いで渡ろうと考えているのだ。スマートでもなんでもないが、一応勝算がないわけではない。

 まず、見張りがいない。冬の川を泳いで渡ろうなどとは全くの自殺行為だ。泳ぎだした途端、いや、泳ぎだす前に体温どころか命まで奪われてしまうのだから。だから、検問を張っている自警団も河岸を警備してはいないし、船を見張るだけで済んでいるのだ。

 しかし、カシオは人間ではない。心はあるが、その身体は木偶といってもいい樫の木であり、停止する心臓も凍りつく血液も持ってはいない。その身体ならば冬の川を泳ぎきることも不可能ではないはずだ。

 カシオは準備を整えるとゆっくりと水の中へと進んでいく。澄み切った水の感触は冷たさよりも、ガラスの破片のような切り裂く痛みを与えてくる。カシオは歯を食いしばりながら前進し、泳ぎだす。


 流れに逆らうのではなく、半ば流されるような形で斜めに進むカシオ。

 だが、瞬く間に四肢の感覚は失われ、体力も爆発的に奪われる。半ば流されるような形であったのが、半ば以上、ほとんど流されている状況へと変わっていく。

 人よりも鈍感であるとはいえ、体が冷え切り体力が奪われればやがては意識を失うことになる。そうなれば。

 不吉な予想に抗うようにカシオは懸命に岸を目指した。目もかすみ、ほとんど溺れるようになりながらも、泳ぎ続ける。

 不運は一本の流木の形で現れた。はるか上流で雷によって折れ、長い旅路の果てに水を吸い重くなった倒木。水面直下を滑るように進んでくるそれをカシオは波立つ流れの中から見つけることが出来なかった。

 

 ゴッ

「!?」

 落雷による焦げ目のついた断面がカシオの後頭部を掠める。速度はないが、巨大な重量をもったその一撃でカシオの意識は刈り取られた。少年の体から力が抜け、川底へ沈んでいく。流木はそれを尻目に海を目指して通り過ぎていった。


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