突破
デトミナと別れたカシオが宿屋の自室に戻った時、ブザーはまだ帰ってきていなかった。
その方が詮索されなくて都合がいいか、と息をついてからカシオは準備に取り掛かる。
準備といっても、基本的には手持ちの装具の確認だ。検問を人知れず突破しなければならない以上、不備がある道具を持っていくわけにはいかない。
二本の短剣を鞘から抜き、刃こぼれ、がたつきがないことを確認してから砥石で研磨する。続いてスローイングナイフも同様に手入れした。
帽子と、外套には問題はない。シャツとズボンはここ二・三日の騒動であちこちにほつれと破れがあるが活動に支障をきたすほどではないだろう。手袋とブーツは相変わらず頑丈だ。
一通り確認を終えたところで、カシオは寝台に横になると考え始めた。どうやってスラムに出入りするのか。この町で出会ったスラムの孤児たちやイズレイル、そしてデトミナ。ブザーとリイドのこと。本当に自分はこの町を出るべきか。
全ての問いに答えが見付かるよりも前に扉の開き、蝶番のきしむ音が思考を中断した。
「もう帰っていたのか。どうだい、お世話になった人たちに挨拶は出来たかい。」
明るい調子で言いながら入ってきたのは、やはりブザーだった。手には大きな皮袋が提げられている。長い1日だったせいか、口調とは裏腹に目元には少しばかり疲れが見て取れた。
自分の問いにカシオが肯くのを確認してから、荷物を置いて着替え始める。
「首尾よく挨拶できたなら良かった。私もあちこち歩き回って疲れたから、今日はもう休ませてもらうことにしよう。明日の出発は明朝だ。日が昇ったらすぐに出るから、君もしっかり休んでおいてくれ。」
そういうと、ブザーは空いていた寝台に潜り込んだ。何分もしないうちに低いいびきが聞こえてくる。
カシオはしばらくそのいびきに耳を澄ませていたが、ブザーの眠りが深くなったことを確認すると立ち上がって静かに部屋を後にした。
部屋に取り残されたブザーは心中でため息をついた。
無論、起きていたのである。何か大胆なことをやってやろうといわんばかりの、カシオの表情を見逃すほどブザーの目玉は濁っていない。
「やれやれ、困ったもんだ。言っても聞かないだろうしな。もっとも、あの親にして、この子ありと言ったところか。」
そう結論付けるブザーの胸には、今のカシオと同じように向こう見ずだった若かりし頃の自分が浮かんでいる。そこにはリイドを始めとした古い友人たちの姿もあった。
自分の若いころを思い出したせいか、ブザーは自嘲にも似た笑みを浮かべると、寝返りをうって今度こそ本当の眠りへと沈んでいった。
既に太陽が完全に沈み、濃紺の闇に同化した町並みの中をカシオは一人歩いていた。
スラムの封鎖に続いて通達された戒厳令のせいか、家々から漏れる光も少なく、普段ならにぎやかな酒場も今は戸を閉ざしている。大通りは常になくひっそりと生気をなくしていた。
カシオは通りから通りへと滑るように移動し、ほとんど人とすれ違うこともなく目的地へ到着した。
スラムへとつながる三本の橋の中で最も上流にある北大橋。
大橋とついてはいるが幅は馬車がようやく一台通れるかどうかといったところ。その代り、長さはなかなかのものがあった
既に昼間の騒ぎは気配もなく。今は不寝番を行っている自警団の男たちが篝火の中に数人いるだけだ。見たところ男たちの注意は主にスラム側に向いており、こちら側ならばそれほど警戒する必要はなさそうだった。カシオはそう判断を下すと、距離を保ったまま検問の様子を観察した。
一時間ほどそのまま過ごしただろうか。どうやら検問は三人で行っているらしい。三十分に一回ほどで、連絡もかねた見回りがやってきては別の一人が出て行く。橋と橋の間を歩いているのだろう。北大橋よりも上流には足を向けない。騎兵は中央の橋に集まっているのだろうか、姿は見られなかった。
普段、海都ベイリーフやアルタメノンの鉱山からの荷運びに使われている川舟は町側、橋の近くに全て泊められている。そんなもので漕ぎ出せばすぐに見付かってしまうだろう。
とはいえ、無理やりに突破することも三人相手では難しい。
しばらく考えこんだ後、その場を離れた。夜の闇の中を泳ぐように移動し、橋から百メートル以上離れた土手の上に立つ木立の陰に身を隠した。ここで時機を待つつもりだ。
北大橋の松明が小指の先程に小さく見え、反対側にはさらに小さく芥子の実ほどの中大橋の明かりが見えた。思ったとおりちょうどいい場所だ。
少なくとも今のところは自分の判断が間違っていないことを確認しながら、カシオは腰に巻いていたロープから短剣で二メートル弱の長さのものを二本切り出した。それをズボンのベルトに挟むと準備は完了だ。カシオは息を殺して暗闇に潜んだ。
やがて中大橋の方向から松明が一つ、揺れながら近づいてくる。見回りの時間だ。高まる緊張に大きく息をつきそうになるのを、カシオは奥歯に力を込めてこらえた。
腰に剣をさげ、肩に槍を担いだ男が松明を手に歩いてくる。
男があくびをかみ殺しながら自分が隠れている柳へと近づいてくるのを、カシオは梟のように研ぎ澄まされた五感で捉えていた。
男との距離が十メートルになり、五メートル、三メートル、二、一、零。
「動くな。」
突然、喉元に短剣を突きつけられた男は悲鳴を漏らしたが、カシオの左手によってふさがれた口からはくぐもったうめき声が漏れただけだった。脂汗を顔中から噴出させた男と対照的にカシオは努めて冷徹かつ厳格に次の言葉を発した。
「騒ぐな。大人しく従えば命はとらない。分かったか。」
ようやくのことで、状況と言葉の意味を理解した男が小刻みに肯くのを確認して、カシオは左手を男の口から離した。
「な、なんだ。おまえ、こんなことをして」
「喋るんじゃない。命令するのも、質問するのもこっちだ。」
カシオはそう言って男の言葉を遮ると、喉もとの短剣に僅かに力を込める。途端に男はまるで石でも飲み込んだかのように静かになった。カシオは男から松明を取り上げる。次に槍と剣を捨てさせると、足元に転がったそれらを手近な草むらの中へ蹴り込んだ。さらに用意してあったロープのうち、一本を男の足元に放って命じる。
「このロープで自分の足を縛るんだ。」
男はその内容に従いがたい不吉な予感を感じたようだが、短剣の存在を思い出したのかノロノロと受け取った。カシオは作業の邪魔にならないように短剣を男の喉から離し、代わりに背中に突きつけた。
「次はうつ伏せになって、両手を背中に回せ。」
男が両足を縛り終えるのを見計らってカシオが次の指令を出した。男は既に抵抗する気概を失っているのか、素直に従った。
カシオは男自身が縛った両足の結び目をあらためると松明を路上に置く。その後で、手早く男の両手を縛り上げた。
すべきことをやり終えたのを確認すると、カシオは踵を返して町の中へと駆け出した。ぐるりと遠回りする形で橋のほうへと戻っていく。背後から縛られた男が北大橋の見張りに助けを求める声が聞こえた。予定通りだ、とカシオは駆ける足に力を込めた。
再び建物の影から橋を視界に捕らえたとき、ちょうど三人の見張りのうち二人が縛られた男のほうへ走り出していくところが見えた。
今や橋の守りはたった一人。その一人も騒ぎのほうへと目を向けてカシオの方へは注意を向けていない。
見張りの死角からカシオは音もなく橋へと迫った。
残り五メートルのところで見張りは接近してくる不審者に気がついた。しかし、既に手遅れ。槍を振りかざしたときには、もうカシオはその間合いの内側に侵入している。
そのまま、槍を跳ね上げて見張りの脇をすり抜けると、後を振り返ることもせずに一気に橋を駆け抜けた。
作中では実力不足から描写できていない主人公・カシオの生理機能については、人と木の中間ぐらいのイメージです。
具体的には、
食事は不要だが、水は適度に要する。呼吸は必要。堅い木材で出来ており丈夫で、痛覚がやや鈍い。そのためケガが行動を阻害することは少ないが、ケガの回復自体は人並。
こんな感じです。
主人公にとって、何が脅威であり、何が危険でないのかが分かりにくいかと思い、このような形で説明させていただきました。