黒死病
ブザー・グレイは少々のことでは動じない骨の太い男だが、朝食の席にびしょ濡れボロボロの闖入者(泥や蟲の体液で汚れていたので、川で人目につかないように洗ってきたせいだ。)が現れた時は珍しく驚いた顔をした。
「おいおい、しばらく見ないうちに男ぶりが上がったじゃないか。張り切るのはいいが、あんまり無茶はしないでくれよ。私がリイドに怒られてしまうからな。」
そんなことを言いながら、とりあえずカシオを部屋に連れていく。体を隠せるように自身の外套を渡し,
濡れた衣類は干しておくようにと言いつけ宿の従業員に渡す。
落ち着くとすぐにカシオは先ほど見かけた男の死にざまを伝えた。
途端にブザーの顔つきが変わる。
「確かに一昨日に君にちょっかいをかけた男だったんだな?それが今朝、全身に黒い斑点を浮かべて死んでいた、と。」
ブザーは詳しい場所と当時の状況を根掘り葉掘り聞いた後で、握った拳を眉間に当てた。そのままの姿勢で数秒考えていたが、やがて顔を上げると立ち上がった。
「私はこれから出掛けてくる。カシオ、君は一休みしてからで構わないが、荷物をまとめていつでも動けるようにしておいてくれ。場合によってはここを発つことになるかもしれない。」
説明を求めようとしたカシオに、後で説明すると言い残してブザーはあわただしく表へ出て行った。それを見送ったカシオは痛む身体を休めるべく寝台に寝転がった。
ブザーが向かったのは自分の主な取引相手であり、ラインフォレストの商工組合幹部でもある薬問屋、デント・メジオの元だった。
ブザーの店の三倍はあろうかという大店の入り口で番頭に取次ぎを頼むと、すぐに奥へ通された。二階南側の応接室で、恰幅のいい薬問屋はちょうど朝食を終えて茶を飲んでいるところだった。
「おお、ブザーさん。どうされました。こんなに早くに。なにか新しい商売でも思いつかれましたかな。」
そう言ってデントはブザーを出迎えた。ふくよかで髭のない頬に生え際が半ばまで交代した頭が卵のようだ。人の良さそうな笑顔も浮かべ、のんびりとした雰囲気をまとっているが、同時に立ち居振る舞いに威厳が備わっている。軽口は叩いているが、その眼力は既にブザーが火急の、それも重大な用件で来ていることに気づいていた。
ブザーが突然の来訪を詫び、人払いを願い出るとデントはすぐさま使用人を下がらせた。手ずからブザーの茶を用意すると、椅子を勧めて自身も腰掛ける。
「不躾なお願いを聞いていただいてありがとうございます。しかし、ぜひとも聞いていただきたい用件があったものですから。」
ブザーの言葉にデントは微笑んで肯いた。
「信頼に足りる相手であれば無理をきくのも、また喜びです。それで用件とはなんですか。貴方がそれほどにあわてるとは全く珍しい。」
デントの口調には誠実さと真剣さ、それに長年の商売で得た自信が感じられた。勝ち負けを繰り返しながら積み上げた自分への確固たる信頼。容易なことでは揺るがぬ現在の地位。そういったものが柱となってこの男を支えているのだ。
しかし、続くブザーの言葉を耳にしたときデント・メジオの精神は久方ぶりに動揺することになった。
「実は、スラムで黒死病が発生した可能性があります。」
「なんだと、それは本当ですか!」
唸るように声をあげたその顔は切迫したものになっていた。恐らくブザーのもたらした報せは彼の想定していたどれとも違っていたのだろう。それでも、平静を失っていないのは流石といえた。
「信頼の出来る私の連れが今朝方、体中に不気味な黒い痣の浮かんだ死体を目撃しています。しかもその男、一昨日までは全く異常なく元気であったことも確認できています。」
ブザーの説明にデントは押し黙った。強張った表情の下で何事か考えているようだった。
ラインフォレスト近辺では発生した前例がないため、未だ黒死病について知らない者も多い。しかし、職業柄多くの情報に触れてきた者にとってブザーの報告はたやすく聞き流せるようなものではなかった。
黒死病。およそ考えつく中で、もっとも恐るべきこの病の特徴は、強力な感染力に高い死亡率、さらには発症してから一日から五日という短い期間で死に至ること。つまり、あっという間に広がり、瞬く間に街を滅ぼし、いつの間にか消え去る。まさに悪魔のごとき疾病であった。
やおら、デントは立ち上がると下男を呼び、何事か言いつけた。その後で再び椅子に腰掛けると、指を顔の前で組み合わせて大きく息を吐いた。
「まず、何よりも必要なのは正確な情報です。今、医師のデミグルという男を呼びました。信頼のできる男です。すみませんが、彼と一緒に黒死病が疑われる死体の実検に行ってはもらえないでしょうか。本来ならば、部外者である貴方にお願いすることではないのですが、何せことは一刻を争いますし、他のものでは場所が分かりません。」
デントからの依頼をブザーは二つ返事で引き受けた。
「分かりました。お引き受けいたします。他にも私に出来ることがあれば何でも仰ってください。」
その言葉に微笑みながら礼を言うと、デントは立ち上がった。その背筋は鋼でも入っているかのように真っ直ぐに伸び、内部の活力を感じさせた。
「私はこれから代官、商工会それに神殿と対策を話し合いに行ってきます。取り越し苦労になるならばそれが一番ですが、期待というのは大抵裏切られるものですからね。それから、会議は代官屋敷で行うことになると思いますので、実検の結果はそこへ持ってきてください。では、よろしくお願いします。」
デントはそう言い残すと威厳のこもった足取りで出て行った。ブザーはしばらく豪華な応接室で医師の到来を待っていたが、残った茶を一息に飲み干すと階下へ降りた。
気ばかり焦ってしょうがないので、入口で医師の到着を待つことにしたのだ。
デミグルは良く日焼けした精悍な顔つきの男だった。歳はブザーと同じくらい。身体は細いが、医師というよりは軍人に見える。太い眉が見る人に実直な印象を与えていた。
どうやらそれほど詳しいことは聞いていなかったらしく、馬車の御者席に並んで座りながら、ブザーはいきさつを説明した。話を聞くほどに医師の眉間に刻まれた皺がその深さを増していった。
「これは確かに深刻な事態ですね。今の話が確かならこの街に黒死病が持ち込まれた上に、既に多くの人がその死体に近づいてしまっている。」
ゆっくりとした落ち着きのある声でそこまで言って、医師は少し表情を緩めた。
「まあ、診てもいないうちから心配しても仕方ありません。勘違いであることを祈りましょう。」
明るい口調に、ブザーも同意した。
男の小屋に到着したとき、ちょうど死体が運び出されようとしているところだった。デミグルは制止の声をかけながら近づくと、死体の脇に膝をついて検分を始めた。ブザーは作業を中断されて迷惑顔の人足達に銅貨を何枚か渡しながら、その様子を見守った。
「やれやれ旦那たちはいったい何をやってんだい?コイツの親戚なら引き取ってもらうところだが、そんなわきゃないよな。」
人足の一人が呆れた様子で口を開いた。
「ああ、この人は医者だよ。おかしな死体が見つかったと聞いて調べに来たのさ。」
ブザーが話をしている間にも、デミグルは死体の脇の下、太ももの付け根などを慣れた手際で確認している。その眉間には皺がより、額にもうっすらと汗が光っている。
人足たちが早いところ仕事を片付けたくてソワソワしてきた頃、デミグルは検分を終えて立ち上がった。ブザーに肯くと歩き出す。ブザーは男たちに礼を言いながらそれに続いた。
「間違いありません。アレは黒死病です。」
緊迫した面持ちでそう告げると、つけていた手袋をドブに投げ捨てた。乱暴な仕種に少しばかり意外な顔をしたブザーに困った顔で釈明する。
「黒死病の毒はどのように人を侵すのか分かっていない。だから、少しでも危ないもの。直接触れたものなどは処分してしまう必要があるんです。」
「そうだったんですか。これは失礼しました。とりあえずこの結果を報告しに戻りましょう。残念ながら、いい報せにはなりませんでしたが」
二人は足早に馬車に乗り込み、馬に鞭を当てた。後方に流れていくスラムを目にデミグルが重々しく言った。
「予想以上に悪い状況です。ブザーさん、気がつきましたか?あの小屋の周りの野次馬の中に、微熱があるような赤い顔で空咳をしているものが何人かいました。恐らく、初期症状です。実際にはもっと多いでしょう。私たちは早いうちに危機に気がついたつもりで、実はもう手遅れなのかもしれません。」
ブザーは答えずにただ、馬を急がせた。それから会合の行われている代官の屋敷までどちらも口を開かなかった。