楽師
夜、ブザーと分かれたカシオは再び街を歩いていた。昨日の今日で出歩くことを止められるかと思っていたが、ブザーは軽く注意を喚起しただけだった。
完全に日が沈んだ街で、影の中に溶け込んだカシオの姿はすれ違った者もその存在に気付かないほど夜気の中に紛れている。
どこか不吉な夜だった。カシオは街をゆっくりと、しかし、澱みなく歩いていく。
彼は今、奇妙な予感に突き動かされていた。
スラムと街を隔てるレイテ川、そのスラム側の岸に建つ廃屋。以前は富裕な人物が暮らしていたのだろうか。それは夜空の下にかつての栄華を誇るように黒々とそびえていた。しかし、うち捨てられた今となっては、不気味な姿から近づく者も少ない。
その屋敷の前でカシオの耳が奇妙な音を虚空から拾い上げた。
獣の唸り声にも似て、不安をあおる不快な音。湿った物陰に漂うようなジメジメとして、それでいてやけに騒がしい気配。
それらは高くなり低くなり、大きくなり小さくなり、それでも決して止むことなく廃屋から流れ出てきていた。
カシオは自分の体が緊張と恐怖で強張るのを感じながらも、屋敷の庭へ一歩を踏み入れた。夜風がカシオと一緒に淀んだ空気の中に入り込み、周囲の空気が僅かに震える。
耳元で夜気が警告を告げ、退却を勧める声をカシオは確かに耳にした。こういうことは以前にもあった。例えば、リイドの森で飢えと負傷から狂気に陥った灰色熊と危うく鉢合わせしそうになったときだ。
紛れもない危機が待ち構えていることを、カシオは確信した。
ただ、この現象は自分が慣れ親しんだ夜の気に守られている証拠でもある。
その事実は、彼に前進のための活力を与えた。
屋根も壁もあらかた崩れ落ち、または崩れ落ちる寸前となっている廃屋の中で、カシオは一歩ずつ慎重に歩を進めた。一歩、進むごとに奇怪な唸り声は大きくなり、不吉な気配は大きくなっていった。
屋根が抜け落ち、ただ風雨に色あせた太い梁だけが、かつての威容をひっそりと主張している大広間。
今夜は湿った空気の渦巻くその場所で、カシオは見つけた。
昨夜、遭遇した不吉の塊。おびただしい数の害虫と毒虫をまとった凶兆の源。
夜気が耳元で悲鳴を上げた。
カシオは朽ちた扉の影に身を沈め、息を殺して目を凝らした。
それは嗤っていた。今にもくずおれそうな梁の上で、不恰好で滑稽なステップを踏む。その手には、一本のリュート。いや、正確にはリュートだったものが握られている。今や胴は破れ、クビは曲がり、弦はあらかたなくなっている。それはそんな楽器の様子にはまるで無頓着にそれは演奏を続けていた。
そう、それはまさに災いの前奏曲と呼ぶに相応しい不吉な演奏だった。
汚れて爪が割れ、蛆虫の這う指で弦を弾き、胴を叩き、ステップを踏む。醜悪な顔をさらにゆがめ、嗤いながら踊り狂う。その度に、破れたリュートの胴から蝿、鼠、油虫、百足、その他、おぞましい蟲たちが潰れた吹き出物からあふれ出す血膿のように、あふれだしてくるのだった。
虫の羽音、鳴き声、体を擦り合わせる音が絡まりあって不快な唸りとなる。神経を冒すようなその音が高くなり低くなりしながら闇の中を渡っていく。
その調べに乗るように羽のあるものは飛び、そうでないものは這いずって四方へと消えていく。カシオの耳元も虻や蝿、それに蝙蝠が掠めて飛んでいき。足の横を鼠と百足が這っていった。それは一匹一匹が、楽師がばら撒く災いと呪いの運び屋に違いなかった。
人ならぬ身の直感か。いや、その光景を目にしたものならば、一つの例外もなく確信したであろう。目の前の化け物が不吉なものであり、一刻も早く倒すべき敵であると。
カシオは背筋が凍りつくような恐怖の中で、別の感情が競りあがってくるのに気がついた。
燃え盛る炎のように熱く、若木の生命力よりも凶暴なその感情。それは僅か数日とは言え、過ごし、友を得たこの街に目の前の不吉な存在がはびこることを許容するものでは決してなかった。
できるか?いや、やらなければならない。そんな自問自答が少年の中でなされた。
音もなく短剣を引き抜き、低く構える。自身の行動に対し生じた、恐怖と迷いが次第に小さくなり体の片隅に追いやられる。弓を持ってきていればよかったとチラリと思ったが、それもすぐに消え去った。
夜気に包まれながら、目の前の魔性を鋭く見据え、足に力を溜める。
細い月が雲に隠れ、辺りが暗闇に包まれた瞬間。カシオは飛び出した。
同時に右手でナイフを投擲し、あやまたず標的に命中したことを目の端で確認する。崩れた壁と傾いだ柱を一息に駆け上がり、楽師の背後数メートルの位置へと音もなく着地した。そのまま谷間を吹き抜ける突風のような速さで標的に向かって駆ける。
カシオが後一歩の距離に迫ったとき、楽師はやっと振り向いた。迎撃どころか既に回避すら不可能な必殺の間合い。しかし、楽師の表情を捉えたカシオはその刹那、自身の敗北を予見した。
瞬き一度にも満たない時間の中で楽師はカシオを嘲笑い、薬指で弦を弾く。雪崩の如くあふれ出す、害虫の濁流。
気がついたときにはカシオは飲み込まれ、吹き飛ばされ、したたかに叩きつけられて、崩れかけた壁の下に腐乱死体のように転がった。
意識を失う短い時間の中で彼の目にしたもの。それは赤い月の光を浴びて、ことさら愉快そうに彼をあざ笑う楽師の姿だった。腐臭を放つその顔には、確かにカシオの投じたナイフが突き刺さっていた。
山の端から顔を出した太陽が槍のような曙光を投げつける、それを顔に受けてカシオは意識を取り戻した。記憶の混濁した数秒の後、襲ってきたのは敗北の苦渋。そして、好機を逃したという痛恨の思いだった。
それらは体の痛みとあいまってカシオを責めさいなんだ。楽師は既に深い霧の中に隠れてしまったかのごとく、気配のかけらも残さずに去ってしまっていた。
後悔も痛みも未だ過ぎ去ってはいない。しかし、自身のふがいなさを弄ぶのは贅沢で無意味な行いだと教わった。それにいつまでも薄汚れた廃屋に座り込んでいるわけにも行かない。カシオは壁に身体を預けながらゆっくりと立ち上がった。
落ちていた短剣を回収し、背中と腰の沁みるような痛みをこらえながら、ソロソロと廃屋から抜け出す。
そのまま、宿に帰ろうとしたが、ふと早朝に不釣合いな人のざわめきに気がついた。ざわめきの元は帰り道とは逆。スラムの方向から響いてくるようだった。そのまま行き過ぎようかとも思ったが、結局カシオは覗いてみることにした。
一軒の粗末なバラック。その周りを遠巻きに人々が囲んでいた。カシオの汚れた格好を見てもスラムの人間は全く気にしない。割り込んだときに、肩の触れた者が少しばかり不機嫌な顔をしただけである。
バラックの中には男が一人、仰向けに死んでいた。顔に断末魔の苦しみを貼り付け、体中に不気味な黒斑を浮かび上がらせた醜悪な死体。その顔を見たときカシオは危うく声をあげそうになった。
一昨日、執念深くカシオに闇討ちを仕掛けた卑劣漢が、今や物言わぬ骸となって襤褸のように転がっていた。
カシオの背筋を蛇の様に悪寒が這い上がってくる。それは男の身体に浮かんだ黒斑と昨夜対峙した楽師のそれとの類似によって、なおさら強く引き起こされた。
人々は男の不気味な死に様を恐れて近づけないでいるらしい。カシオは舌をだらりと垂らした男の顔から顔を背けると、出来うる限りの速度でそこを後にした。逃げ出した、といってもよかったかもしれない。