8 もえた
静かな雰囲気だった食事はラルフの登場で大いに盛り上がった。
ラルフの留学する大学が祐樹さんの出身大学だったことや、ホームステイ先が偶然芹菜さんの仕事場の近くだったことなどが次々と明らかになり、ラルフは『ワオ』と『オーマイグッドネス』を連発しながら楽しそうに笑っている。
これって、国民性の違いかなぁ。
ラルフの笑い声につられてつい笑顔になりながら、私はふとそんなことを思った。
ラルフはすでに初対面とは思えないほど二人と打ち解けていて、下手をすると私よりも古い知り合いに見えてしまうほど。
そして私も、会うのはたったの二度目だというのに、どうしてだかラルフには全く壁を感じないのだ。あの日会うまで、その存在すら知らなかったというのに。
目の色が同じだとか顔立ちが似ているとかそういうのも理由のひとつなのかもしれないけれど、この弟という存在はなぜだか心にストンと収まった。それはそう、本当にすんなりと「落ちて来た」のだ。そして当たり前のように、そこに居座っている。もうずっとずっと昔からそこに居場所があったかのように。
うーん、それにしても、姉と弟でこうも性格が違うものかなぁ。
やっぱり、半分だからだろうか。
私には半分父の性格が受け継がれ、ラルフには半分、ラルフのお父さんの性格が。
ああ、でも、芹菜さんと祐樹さんだって、きっと性格は違ってるし。
廉と凜だって―――
自分にとって一番身近な兄妹に思い至ったところで、私はあわてて頭を振り、その名前を吹き飛ばした。
油断すると、ついつい出てきちゃうんだから。
そこにタイミング良く運ばれてきたピザを店員さんから受け取って、私はほぉと小さく声を上げた。
おいしそうなクワトロ・フォルマッジ。私が一番大好きな4種類のチーズのピザだ。
豪快に笑うラルフを尻目に、気の利いたことも言えないまま三人の会話を聞きながらピザにハチミツをかけた。
均等に、均等に。
心のなかで唱えながら、細い筋を落としていく。
全部かけたら甘すぎかな。
小さな容器に入ったハチミツが半分ほどになったところでそう思って手を止め、あっしまった、と後悔した。
かける前に一言断った方が良かったかな。
ハチミツ嫌いな人がいたらどうしよう。
ピザの上でつやつやと光るハチミツを見つめ、どうしたものかと顔を上げたら祐樹さんと目が合った。
「ありがとう、茉莉花さん。俺そのピザ好きだから、豪快にハチミツかけちゃって」
眼鏡の奥の目がすっと細められる。
どうしてわかったのだろう。
びっくりしながらピザを見、ハチミツを見て気付く。
あ、ハチミツの容器を片手に難しい顔でピザを睨みつけていたからバレバレだったのかも。ああ、恥ずかしい。
ハチミツを持った右手がかすかに震え、容器からドロリと蜜が垂れた。
「あっ」
「もーらい」
祐樹さんがひょいと手を伸ばし、今しがた私がハチミツ漬けにしてしまったその一切れを掴んで口に押し込んだ。
「うまい」
いつになく砕けた口調でそう言って笑うので、なんだか申し訳ないやら嬉しいやらで、目尻を下げた変な笑みを作ってしまった。
ん? 嬉しいやら……?
何が、だろう。
自分の心に浮かんだその感情に、私は戸惑いを覚えた。
私の失敗をあっさりとその胃袋に落とし込んで隠ぺいしてくれたことが?
それとも……空気になっていた私のほんの小さな逡巡に気づいてくれたことが?
私は祐樹さんをまっすぐに見れなくなってまたピザを見つめた。さっきから見つめすぎて、このピザにはそろそろ穴が開いてしまいそう。
私はいつもこう。
誰と食事に言っても、人と向き合っている時間より食べ物と向き合っている時間の方が長い。その傾向は、食事の人数が多くなればなるほど顕著だった。
他の人が話しているのを聞くのは好きなのだ。聞いているだけで十分に楽しいし、「何かしゃべれ」って言われる方がしんどいから。
でも、本当はちょっとだけ憧れてしまうのだ。輪の中心になれる人に。
そんな気持ちに気づかれたような気がして、ピザをつまみあげた。
私がピザとハチミツに心を砕いているその短い間にラルフがあれこれと質問をして、祐樹さんがお医者さんであることや芹菜さんがインポートもののお洋服を扱うセレクトショップを経営していることなどが明かされた。
ふむふむ。
塩気の強いチーズと甘いハチミツが口の中で絡まり合って、複雑な味を作り出す。甘いでもしょっぱいでもない、この感じ。
ちょうど、今の私の気持ちみたいな。
楽しいんだけど、少しだけうらやましいような、そんな感じ。
『それで、マリカとユーキとセリナは何で知り合いなの?』
ラルフの問いかけに、私はピザから視線を引きはがした。
祐樹さんと芹菜さんと目が合うと、二人とも柔らかく微笑んでいる。
『とっても偶然の出会いだったんだけどね。祐樹が学会で大阪に行ってる時に私も仕事で大阪に行ったのよ。それでちょうどいいからって二人でご飯を食べようと思ったら、そのレストランに茉莉花さんがいたのよ。ね? 茉莉花さんがあんまりキレイだから、思わずナンパしちゃったの。そして、そのおかげで私は前に進めたのよ』
「え?」
思わず日本語が出た。
『私ね、謝りに行ったのよ。嫌味を言っちゃったあの女の子のところに』
芹菜さんはそう言いながらゆっくりと前髪を掻き上げた。女性らしい、色っぽい仕草。
『女の子?』とラルフが首を傾げているけど、わたしはその腕をそっとつついて後でね、と目配せをした。
『ちなみにそれ、俺もついて行かされたんだ』と祐樹さんが迷惑そうな顔をすれば、『あら、あなただって手料理ごちそうになって嬉しそうにしてたじゃない』と芹菜さん。
『シンゴの幸せそうな顔を見てたら本当に気持ちがすっきりしちゃって。やっと吹っ切れたの。だからこれからは新しい恋を探すのよ』
そう言いつつ芹菜さんは、話がわからずに首をひねるラルフ相手に特に隠すこともなく自分の恋の話を披露し始めた。
……のはいいんだけど、
――いま、シンゴって言った?
その名を聞いて私の頭の中に一番最初に浮かんできたのは倉持真吾さん、うちの会社の常務。
祐樹さんのお友だちだって言ってたし、もしかして……
聞いてもいいものかと迷いながら視線を泳がせていると、祐樹さんと目が合った。祐樹さんは私の表情を見るなり苦笑して芹菜さんを肘で小突き、『姉貴、名前言っちゃってたよ』と呟く。
「えっ? 名前?」
「うん。さっき真吾って言ってたよ」
芹菜さんは私の表情を見て、それから真っ赤になった顔を手で覆った。
「そうだ。茉莉花さん倉持商事……やだ、もしかしてわかっちゃった?」
焦っているせいか、出てくる言葉は日本語だった。
「あの、はい、たぶん……」
『なに、マリカ? どうなってるの? 日本語わかんない』
『芹菜さんの想い人が、もしかすると私の知り合いかもっていう話』
小声でそう言いながら芹菜さんを見つめるけれど、その手で顔のほとんどを覆っているので表情は読めない。ただ、耳まで朱に染まっていた。
かわいいなぁ。
芹菜さんの内心を思うと見当違いな感想だとわかってはいるけど、素直な反応をただただかわいいと思った。
「やだ、もう。恥ずかしすぎるわ。茉莉花さんには私がしたこと全部バラしちゃったのに…知り合いだなんて……」
飲み明かした夜に、芹菜さんが教えてくれたのだ。
芹菜さんはずっとその男の人が好きで、何度も付き合ってほしいと言ったこと。
でも、答えはいつもノーだったこと。それでもあきらめきれず、時折理由を見つけてはその人の家に遊びに行ったこと。遊びに行くたびに、女の人の痕跡を見つけて泣きたくなったこと。次から次へと女性を変えるのに、自分にだけは決して振り向いてくれないのが辛かったこと。ある日、ソファの隙間に落ちていた女性もののピアスを見て、悔しくてたまらなくなったこと。つい対抗心を燃やして、その日買って偶然持っていた下着(!)をその人の家の来客用のチェストの中に入れたこと。その後ほどなくしてその人に本命の彼女ができたと聞いて、切なくてたまらなかったこと。その彼女と顔を合わせる機会に、つい、ひどいことを言ってしまったこと。
芹菜さんは「つい、であんな言葉が出て来るってことは、私は深層心理できっとずっとそう思ってたのよ。それがすごく嫌だった」と言っていた。
芹菜さんが相手の女の人に何を言ったのかわからないけど、あれだけ後悔しているってことは、きっと結構重大なことを言ってしまったんだろう。
そしてその相手というのが、倉持常務の奥さん。あの常務がベタ惚れしているという人。
芹菜さんは真っ赤な顔のままテーブルに沈み、私は祐樹さんと顔を見合わせた。
だから祐樹さんが、芹菜さんの恋模様を知っていたのか。仲のいい姉弟ってだけじゃなく、芹菜さんの想い人が祐樹さんのお友だちだから。
切ないなぁ。
絶妙に近いその関係。
弟の、友達。
親友の、兄。
なんだか似通ったその形にまたちくりと胸を刺され、それを誤魔化すようにピザに手を伸ばす。
芹菜さんが早く、新しい恋を見つけられますように。
指に垂れたハチミツをぺろりと舐めとりながら、私は心の底からそう思った。
***************
『また四人で会いましょうね』
その日の別れ際に芹菜さんはそう言ってくれたけど、6月になった今でもまだその約束は果たせずにいる。
なぜって、そこからの数か月、本当にあわただしかったのだ。
まず、ラルフは大学入学の一か月前から日本語学校に通い始め、時折会話やメールに日本語が混じるようになった。
〈ぼくのなまえわらるふです〉というメールが突然届き、直後に〈わ、でなく、は〉という訂正が送られてきたり、夕飯を家で食べないかと誘ったら〈まじでえんりょをしたいですが、いきます〉という意味不明な返信が来たりもした。遠慮したいという言葉の使い方を間違えたらしく、意図するところは「お世話をおかけして本当に申し訳ないですが行きます」ということだったらしい。
そして四月のある日届いた一通のメール。
〈もえた!〉
なるほど萌えたのか、と思い、
〈なにに?〉
と返信したら、
〈いえが!〉
と返ってきた。
何とラルフのホストファミリーの家が火事で全焼したのだ。幸いけが人は出なかったが、ラルフに残されたのは肌身離さず持ち歩いていたパスポートと財布と携帯、そしてその日学校に持って行っていたおかげで辛くも難を逃れた教科書数冊とノートパソコンだけ。
持ち運んでいなかった教科書類や洋服、雑貨などは灰になった。保険に入っていたのでその被害は取り戻せるものだったし、留学の仲介業者が新たなホームステイ先を探してくれることで話は落ち着いたのだが、唐突に父が言ったのだ。
「どうせならラルフくん、うちにホームステイしたら?」
父は日本語のほとんどできない母と結婚したくらいだからもちろん英語は話せるし、私も日常会話程度ならできる。さらに血縁者の家ということもあって学校からも留学支援の仲介業者あらもあっさりと許可が下り、ラルフは晴れて(?)うちの一員となった。意外にも父は息子ができたようだとラルフを歓迎し、ラルフはラルフで父に懐くという奇妙な関係が出来上がっていた。
『日本人は何考えてるかわかりづらいよ。マムも言ってたけど、本当だった』とは、ラルフの弁。何やら日本人の「建前」とか「謙遜」という文化がなかなか理解できないらしい。
『だからマリカ、言いたいことは言ってね。一緒に暮らすなら言ってくれないと、お互いのために良くないから』
それは私の一番苦手なことなのに。
言われた時はそう思ったけど、その悩みはあっさりと解決した。
言いたいことを言わないと、生活ができないのだ。
今日も今日とて、風呂上りに上半身裸で家中をうろつく弟を相手に私は叫ぶのだ。
『ちょっとラルフ! ここはカリフォルニアのビーチじゃないんだから! 服を着てよね!』