6 いい意味、悪い意味
その週の金曜日、仕事を終えて会社のビルを出ると冷たい風が髪を揺らした。
ぶるり、肩が震える。
風の当たる面積を減らそうと首を縮めたところで、自分と同じように背を丸めている人を視界にとらえた。
――あ、あの人も寒そう。
その人はビルの前の木に身を寄せて、風から逃れようとしているらしかった。
あんな細い街路樹じゃ風よけにはならないんじゃないかなぁ。
ぼんやりとそう思っていると、寒そうなその人が顔を上げ、その瞬間に私は目を見開いた。そしてその人も、私と同じように驚いた顔をした。
「あれ、茉莉花さん」
「祐樹さん」
「久しぶりだね」
「お久しぶりです」
飲み明かした日からおよそ三カ月。
あの日とちっとも変わらない姿で祐樹さんはそこに立っていた。
短い髪の毛に、縁なしの眼鏡。
私と同じようにマフラーに顔の下半分をうずめて肩をすくめている。
どうして祐樹さんが、ここに?
「あーっと……」
祐樹さんは何か言いかけ、思案気な表情で私と私の背後のビルを交互に見つめてから「茉莉花さんってもしかして、お勤め先、ここ?」と言った。
「あ、はい」
「このビルって一社だけだっけ?」
「はい、うちの会社だけです」
「そっか。じゃあ茉莉花さん、倉持商事で働いてるんだね」
「はい」
大学卒業後、運よく内定をいただいた総合商社で働いて三年。トイレがやたらと綺麗なこのビルは、総合商社倉持商事の自社ビルだ。
「祐樹さんはどうしてこちらに?」
「友達がここで働いてるから。今日はそいつと待ち合わせなんだ。もう待ち合わせ時刻過ぎてるんだけど、こうして寒空の下で待たされてる」
そう言って祐樹さんは腕時計を見やってからぶるっと震えた。
「そうだったんですか」
そう言ったきり、言葉が出てこない。
さっさと立ち去ればよかったのかもしれないけど、何となく去り難くて、でも、気の利いた言葉を見つけることが出来ず、寒いですねとか春はまだ先ですかねとかこないだの雪がすごかったですねとか、同じようなことを何度も何度も言った。
祐樹さんはその度に微笑んで「そうだね」と言ってくれるけれど、お天気の話なんて本当にどうでもいいよね、と自分で呆れてしまった。
ついに天気の話題まで出し切ってしまったので、私は気まずい沈黙をごまかすようにマフラーに顔をうずめて肩をすくめた。
「最近、どう?」
祐樹さんが私の方をまっすぐに見ながら呟くように言った。
元気だった? とか、あれから大丈夫だった? とかではなく、「最近、どう?」
どんな答え方もできるその質問に、私はまた感心する。
「あれからは、泣いてないですよ」
私はそう言って微笑んだ。
私の言葉に祐樹さんはマフラーからひょいと顎を出し、丸めていた背を伸ばした。そして窺うような視線を投げてくる。
泣いてないというのは本当のこと。
あの日芹菜さんと祐樹さんと飲んだ時以来、私は涙をこぼしていなかった。
凜に会った時も、父に事情を説明したときも、廉とのことを知る友人たちと話をしたときも、吉田のおばちゃんにばったり会ったときも、原田さんたちと会ったときも。
私は決して泣かなかった。
「……それは、いい意味で? それとも、悪い意味で?」
「え?」
唐突な質問に私は思わず聞き返した。
悪い意味?
「泣くほど悲しい気持ちになっていないのか、それとも泣ける場所がないのか。どっちかなぁと思って」
マフラーからすっかり顔を出した祐樹さんとは逆に、私は顔をさらにマフラーに埋めた。鼻まですっぽりと覆われると、自分の吐いた息がマフラーの中にとどまって温かく顔の周りを包み込む。だけどどうしてか、手足がひどく震えた。
「どうして……」
やっとの思いで絞り出した声はマフラーの中でくぐもったけれど、祐樹さんにはしっかりと届いたらしい。
「言ったでしょ? 友達が同じような目に遭ったって。そいつは長い時間引きずってた。だからわかるんだ。苦しみはそんなにすぐには癒えないってことがね。癒えたように見えても、些細なことですぐに傷は開く。そして、傷が開いたことに自分でショックを受ける」
どん、と胸の辺りを強く押されたような気がした。
どうして、どうしてわかってしまうのだろう。
周囲の人に「大丈夫?」と言われると「大丈夫だよ」と答えなくてはいけないような気持ちになった。時間が経ってすべてのことは動いて行くのに、自分だけが同じ場所にとどまっているのがたまらなく恥ずかしくて、みじめで、そしてしつこいような気がした。
だから、何度も何度も偽った。
「大変だったけど、もう平気だよ。時間が解決してくれたから」
そう言えば、みんなほっとしたような顔をした。
そしてきっと自分も、ほっとした。
言い聞かせるように何度も何度も「大丈夫」と繰り返すことで、私自身も安心していたのだと思う。
自己暗示は大切だとよく言うし、それはきっと本当なのだろう。
辛い辛いと思ったら辛さは増幅されていくし、大丈夫と思えば少し心が軽くなる。
だけど、時折胸を突き刺すような痛みに襲われるのだ。無視することのできないほどの痛みに。
それは誤魔化しようもなく胸に居座って、吐き出すこともできずに持て余していた。
「祐樹」
私の背後から少しハスキーな声が聞こえて、祐樹さんが顔を上げた。
「おう、真吾」
祐樹さんの軽い口ぶりに振り返ると、長身の男性が立っていた。
倉持真吾氏。私が勤める会社の常務だ。
倉持商事の創業者一族の御曹司で、いずれこの会社を継ぐ人。
「あ、君は確か……須藤さん」
倉持常務が私の顔を見て思い出したように言った。
ついこの間、私はこの常務に会ったばかりだった。社内公募の最終面接で。
「倉持常務、こんばんは。その節はお世話になりました」
私がぺこりと頭を下げると、常務は意外そうな表情で私と祐樹さんを交互に見つめた。
「あれ、二人は知り合いなの?」
「うん、まぁね」祐樹さんが答える。
「で、祐樹が須藤さんを泣かせたの?」
常務の言葉に私は驚いて目をしばたいた。そして頬に手をやる。それで初めて、自分が涙を流していたことを知った。
――いつの間に?
慌ててマフラーに顔をうずめ、ごしごしと頬をこすったけれど、ウールのマフラーは涙を吸い取ってはくれず、濡れた繊維がこすれてくすぐったいだけ。
私は慌てて肩にかけたカバンを探り、ハンカチを引っ張り出した。けれど、直後に後悔することになる。
ああ、しまった。このハンカチ、全然可愛くない。
何度も洗濯して模様もすっかり薄くなり、タオル地のループがゆるんでところどころぴょんと糸の輪っかが飛び出したそのハンカチは、吸水性こそ抜群だけど、可愛らしさとは程遠かった。
手で隠すようにそれを持って零れた涙をふき取っていると、祐樹さんがふっと笑った気配がした。
「まぁな」
祐樹さんが常務に投げ返した言葉に驚き、私は慌てて首を振った。
「え? あのっいえっそうじゃなくてっ」
私は祐樹さんに泣かされたわけではないのに。
「真吾、悪いけど」
「あーはいはい、了解」
その短い会話だけで、常務は片手を上げて「じゃ、お疲れ様」と言って去って行ってしまった。
私は呆然とそのスラリとした後ろ姿を見送って、慌てて祐樹さんに声を掛けた。
「あの……えっと……?」
「茉莉花さん、これからご飯でもどう?」
「えっでもお友だちとの約束は……」
「今キャンセルになったから」
あ、約束の相手って常務だったんだ。
いや違う違うそうじゃなくて、キャンセルって、今の会話で?
状況がよくわからずに頭を働かせるので精一杯で、涙なんか引っ込んでしまった。
「ガキの頃からの長い付き合いだからね。阿吽の呼吸ってやつ」
そう言って祐樹さんは笑う。
「あ、でも別に、用事があったらいいんだよ。もしお暇なら」
祐樹さんはいつもこうやって、逃げ道をくれる。
その気遣いに感心しながら、私は頷いた。
「祐樹さんがいいなら、ご一緒させてください」
「俺が誘ったんだから、いいに決まってるよ。あいつと行くはずだったレストラン予約してあるからちょうどよかった。個室だしゆっくりできるよ」
「あの、でも、本当にいいんですか?お約束……」
振り返って常務が去って行った方向を見つめると、祐樹さんはまた肩をすくめた。
「全然大丈夫だよ。あいつとはいつでも飯食えるし、あいつは家に帰れば愛妻が待ってるんだから」
……愛妻?
「あれ? 常務って……」
「ああ、そうか。発表はまだしてないんだったかな。やべ」
そう言って祐樹さんは口を塞ぎ、その手をすぐに人差し指に置き換えた。
「内緒ね。どうせ近々公になると思うんだけど。婚約したのは知ってる?」
「あ、はい」
そういえば、秋口に常務の婚約者を名乗る人物が突然会社に現れたと受付の子が騒いでいた気がする。
「その相手と、年末に入籍したんだ」
「そうだったんですか」
「うん。あいつがベタ惚れでね。逃したくなくてさっさと入籍したんだと思う」
へぇ、あの常務が。
意外。
ベタ惚れなんて、全然似合わない感じなのに。
倉持常務がとてもかっこいい人だというのは、この会社に勤める人ならたぶん誰もが認めること。モデルみたいに体格がよくて顔立ちが整っていて、仕草も洗練されている。
だけど何と言うか、少しだけ遊び人らしい雰囲気があった。女性慣れしていそうな。
少なくとも奥さんにベタ惚れなんていう言葉が似合うようなタイプではない、と私は思っていた。だけど、常務と名前で呼び合う仲の祐樹さんが言うのだから、本当なのだろう。
――いいなぁ、ベタ惚れかぁ。
予約しているレストランは会社からほど近いダイナーだというので、そこまで連れだって歩きながら話の続きをする。
「祐樹さんは、いらっしゃらないんですか? 彼女とか、奥さまとか」
「うん、いないよ。真吾が超うらやましい」
「うらやましい?」
「うん。べた惚れできるような相手と出逢えていいなぁと思って」
そっか。
私は「べた惚れされている」奥さんをうらやましいと思ったけど、祐樹さんは「べた惚れしている」常務のことがうらやましいんだ。
不思議。
「あ、ここだよ。レストラン。この地下なんだ」
階段を下りて落ち着いた雰囲気のドアをくぐると、あたたかい空気が全身を包み込んだ。
「何か食べたいものはある?」
メニューを見せられたけど、私がまごついているとすぐに祐樹さんが「テキトーに決めちゃっていいなら、ちょっとずつ色々頼もうか?」と言ってくれて助かった。
こういうとき、私はいつだってスパッと決められないのだ。
「それにしても、茉莉花さんが倉持商事だったとはなぁ。部署はどこなの?」
注文を終えた祐樹さんに尋ねられる。
「食品を扱っている部署です。私は鶏肉を担当していて……」
「そっか。ミサイルじゃないんだね」
私はくすりと笑い、首を横に振った。
軍需から食品のような身近なものまで、総合商社の扱うものは幅広い。かつてとある会社が「ラーメンからミサイルまで」というキャッチフレーズを使ったとかで、総合商社に勤めていると言うと多くの人から「ミサイル?」と尋ねられるのだ。
「真吾と一緒に仕事をしたことがあったの? 知り合いっぽかったけど」
私はまた首を横に振る。
「いいえ。仕事はご一緒したことはないんです。実は最近社内公募に応募して役員面接を受けたので、おそらくその時のことを覚えて下さっていたんだと思います」
倉持常務は目立つ容姿をしているし、常務というポジションからも私は当然に彼のことを知っていたけれど。
「そっか」
「公募は結局ダメだったんですけどね」
私はそう言って苦笑した。
「通ったら芹菜さんと祐樹さんにもきちんとご連絡しようと思っていたんですけど。なかなかうまくはいかないですね」
失恋をバネに仕事を頑張って成功をつかむ……なんて、ドラマや小説みたいなことはそう簡単には起こらないみたい。
「そっかそっか」祐樹さんはそう言って微笑み、それから「姉貴も茉莉花さんに会いたがってたよ」と言った。
「姉貴なりにちゃんと色々始末をつけて、前に進んでるみたいだよ。気が向いたら連絡してやってね」
「はい」
公募落ちちゃったけど頑張っています、でもいいのかもしれない。
うん、きっとそうだ。
芹菜さんと祐樹さんと初めて出会ったその瞬間から、私はかっこ悪かった。今さら肩肘を張らなくても、いいのだろう。
近々必ず連絡しよう。
そう心に決めて、私は頷いた。
それから祐樹さんが振ってくれる楽しい話題に乗ってあれこれ話しながらおいしい食事を堪能し、レジのところで祐樹さんとひとモメしてから何とか食事代金の一部を受け取ってもらうことに成功した後、レストランを出て駅で別れた。
満腹のお腹と、すっかり軽くなった心を抱えて家路についた。
祐樹さんと話すと、なぜだか心が楽になる。
私の気持ちを不思議なくらいにわかって、先回りしてくれるからかな?
自分の気持ちを口にするのが苦手な私にとって、それはすごく心地よいものだから。
そんなことを考えながら寒空の下を歩いていたら、家の前に人影があった。
「マリカ……」
人影は、私の姿を見るなり瞳を輝かせた。