5 砂を噛む
まぁ、人生そううまくはいかないよね。
パソコンのモニターを睨みつけ、私は動揺を隠すように伸びをした。
「須藤、残念だったな」
課長にぽん、と肩を叩かれる。
社内公募制度に応募してからおよそ一か月。数度の面接を経て、最終選考までは残っていた。
最終結果の発表が今日。
社内のweb掲示板にその結果が掲載されていて、そこに私の名前は無かった。
――ダメだった、かぁ。
オフィスの大きな窓から差し込んだ冬の夕日がひどく目に染みた。
パソコン用の眼鏡をそっと外して眉間をぐりぐりとつまみ押し、何度かゆっくりと瞬きをしてからトイレに立った。
個室に入ってもまだ、さっき目に飛び込んできた夕日の残像が目に残ってずっとチカチカしてい
「ダメだった、かぁ」
もう一度心の中でつぶやいたはずだったのに、うっかり声が出てしまって慌てて咳払いをした。
誰かに聞かれていないといいけど。
そう思って少し耳を澄ましてみたけれど、人の気配はなかった。
よかった。誰もいないみたい。
ホッと一息ついて、それからまた一つため息をつく。同じ息なのに、どうしてこうも重さが違うかなぁ。前者は軽くて、後者はとてつもなく重い。
服を着たまま便座に腰かけ、何とはなしに天井を見上げた。
ああ、このトイレの天井ってこんな感じだったんだ。
深い茶色の木目模様で、シンプルな小ぶりの照明がはめこまれている。
こんなところに木目。
ビル自体も別にそれほど古いわけではないけれど、トイレは他の部分と比べて圧倒的に綺麗な空間だった。清潔感を押し付けられてるような。何の変哲もないオフィスから一歩ここへ入ると、高級ホテルかと勘違いするくらいに光が満ちた空間が広がっているのだ。ちょうどあの、大阪のホテルのような。
気持ちよく用を足せるのは嬉しいし、汚いトイレは嫌だけど、一日のうちのたかだか数分しか滞在しないこの場所をここまで綺麗にする必要があったのだろうか。
木目パネルを見ながら、そんなことを思う。
このパネル、会議室に使ってくれればもう少しいい気分で会議できるかもしれないのに。廊下でもいいし、エレベーターホールでもいいし。きっとこのパネルだって、もっとたくさんの人の目につく場所に設置されたかっただろうに。
私なら会議室のあそこにつける、なんてことをあれこれと考えて、思考が緩やかに飛んでいく。
誰なんだろう、トイレをこんなに綺麗にしようと思い立った人は。
きっとその人の家のトイレは綺麗なんだろうなぁ。流れる水が青くなるやつが置いてあったりして。そうそう、廉の家にも置いてあった。
小さい頃、不思議でたまらなかった。
どうしてうちの水は透明なのに、廉の家の水は青いんだろうって。まさか貯水タンクの上に置かれたあの小さな丸い物体がそんなパワーを持ってるなんて思いもしなかったから。
天井を見上げたまま木目パネルを相手にどうでもいいことを考えていたら、目のチカチカはすっかり直っていた。
――ああ、またタイミングを逃しちゃった。
廉とかをりさんとの会食からすでに3か月。社内公募にめでたく通ったら、芹菜さんに報告も兼ねてメールをしようと思っていた。ちゃんと元気になって、前を向いて進んでいますよって。
――ダメだったしなぁ。どうしようかな。
何かを誤魔化すように個室の中で両腕を天井に向けてぐんと伸ばした。
役員の面々に囲まれた面接でもしっかりと答えたつもりだったのに。やっぱり実績が足りなかったのだろうか。
トイレを出て仕事に戻ってからも時折心にそのことが浮かんできてしまって、全然捗らないのでその日は終業時間ぴったりに仕事を終えることにした。
こういう日は遅くまで粘るより潔く帰って、翌日早く来て仕事をした方がはかどるのだ。
帰りに自宅近くのスーパーで食材を買い込み、家に帰って夕飯の支度をした。あさりが安かったので、メニューは父の大好きなクラムチャウダー。寒い季節にぴったりの煮込み料理だ。
最後に加えたあさりに火がとおったところで一旦火を止めてエプロンを脱ぎ、自分の部屋と父の寝室、そして料理で出た生ごみをまとめてごみ袋に詰め、それを持って家を出た。
ゴミ捨てのわずかな距離だからと薄着で出たが、日のすっかり落ちた冬の夜は凍えるほど寒い。首を縮めて足早にゴミ捨て場に向かうと、ご近所さんが2人立ち話をしていた。
「三宅さん、原田さん、こんばんは」
ゴミを置きながら挨拶をすると二人ともにこやかに挨拶を返してくれる。二十数年来のご近所さんだから、気心も知れていて話しやすい。
「聞いたわよ、茉莉花ちゃん、おめでとう」
「え?」
「吉田さんちの息子さんと結婚するんでしょう?」
原田さん明るい声に、思考が停止した。
ぽかんと口を開けたまま、二人を見つめる。どうやら三宅さんは事情を知っているらしく、アワアワと何かを言いたげに焦った様子を見せた。
その三宅さんあまりの動揺ぶりに申し訳なさを覚えて冷静さを取り戻した私は、原田さんに言った。
「あの……私じゃないんです」
「へ?」
「吉田さんの息子さんが結婚されたのは本当ですけど、私じゃないんです」
自分でも驚くほど、不自然に高い声が出た。今が夜でよかった。街灯の薄明かりの下ではきっと、私の表情はそれほど鮮明には見えないだろう。口角を上げているから、笑っているように見えると思う。
原田さんと三宅さんは言葉を失った様子でじっと固まっていた。
無理もない反応だった。
ご近所では私と廉が長く付き合っているというのは有名な話で、二人で歩いていると「仲良しねぇ」と声を掛けられることも多かった。
去年の夏前に廉がこっちへ帰ってきたときも二人でドライブに行ったりしていたから、廉の結婚と聞いて相手が私だと思い込んでしまったのも無理はない。
たぶん、勘違いしているのは原田さんだけではないだろう。
仕方のないこととはいえ、これからもこの訂正作業を繰り返さなくてはならないのかと思うと、気が重かった。
「じゃあ、失礼します」
固まったままの原田さんと三宅さんを残し、家へと戻る。
玄関に入ると歯がカチカチと音を立てるくらい、体が震えた。履いていたスリッパを脱いで揃え、のろのろとリビングへ向かう。
――廉のバカ。
あなたは大阪にいるからいいけど、私はここに住んでるんだから。
ソファに座り込んでクッションを抱え、頭の中で廉に文句を言ってからはたと気づいた。
――お父さんも、同じだ。
幼い私を残して母が自分の故郷へ帰ってしまってからも、父はずっとこの場所に住み続けていた。
なぜ突然母がいなくなったのか。悪気はなくとも向けられる近所の好奇の視線に、父はずっと晒されていたのかもしれない。
父の帰宅後クラムチャウダーを食べながら、ぽつりと尋ねてみた。
「お父さん、お母さんがいなくなった後、つらくなかった? 何で奥さんいなくなったんですか、とか聞かれて」
父はスプーンを持ったまま顔を上げ、ゆっくりと首を振った。
「別に辛くはなかったよ。でも、茉莉花にそれを聞かれるのは辛かったかな」
「そっか」
あ、あさりの砂抜き、ちょっと失敗したなぁ。
口の中でじゃりじゃりと砂を感じながら、誤魔化すようにそれを呑み込む。
「……そんなことを聞いてくるってことは、誰かから何か聞かれたの?」
「まぁね。悪気なく。知らなかったみたいで」
「そうか。大丈夫か?」
「うん、さすがに平気。3ヶ月も経ったから」
「そうか」
もともと口数の少ない父と私2人きりの食事は特に会話が弾むこともなく、静かに終わっていった。ゆるやかな沈黙は普段はとても心地いいけれど、なぜかこの日だけは「欠けているもの」を意識させられて、少しだけ寂しかった。
――茉莉花ちゃんって、ハーフでしょ? お母さん、どこの人なの?
幼い頃、よく向けられた質問。
もの珍しそうに見られるのも、「ガイジン?」と問われるのも慣れたものだったけれど、母のことを聞かれるのは少しだけ辛かった。
「アメリカ」
「へぇ! そうなんだ! 会ってみたい! 今度遊びに行ってもいい?」
無邪気に言われ、私はいつもうつむいた。
「お母さんいないんだ」
「え? どうして? 死んじゃったの?」
「ううん。アメリカに帰ったの」
「へぇ。アメリカ人だから?」
母がアメリカに帰ったのはアメリカ人だからかもしれないが、ここを去ったのはアメリカ人だからではない。父と離婚したからだ。
親が離婚をしている家庭というのはそれほど珍しくはなかったし、ハーフもまた、稀有な存在というわけではなかったのだと思う。それでも、離婚もハーフもマイノリティだったのは確かで、その二つの要素が掛け合わさった私は随分と周囲の関心をひいたらしい。
それは小学校、中学校、高校とコミュニティーが変わるたびに問われるもので、思春期には随分と悩まされた。
――またお母さんのこと聞かれた。
いつだったか、廉にそう言ったことがあった。
――そっか。辛かったな。
辛いなんて私は一言も言わなかったのに、廉はすぐにそう言って私の頭をぽんぽんと撫でてくれた。
――今度同じこと聞かれたらさぁ、母ちゃんは日本人だって言っとけよ。うちの母ちゃんってことでいいじゃん。どうせそんなようなもんだし。母ちゃんいつも言ってるよ、茉莉花はうちの娘だって。
頭に浮かんだ廉の言葉をかき消すように、私は奥歯に残る砂を噛みしめた。