4 にじむ涙
私がみっともなく泣き出してしまってからも、祐樹さんは特に何をするでもなく黙って隣に座ってくれていた。
そうしている内に少しずつ気持ちは落ち着いて言ったけど、油断するとまた視界が揺らぐ。
――今夜はきっと眠れないだろうなぁ。
それなのに、ホテルについているバーは二十三時で閉店してしまうのだという。
バーテンダーからそれを知らされ、すごすごと部屋に戻ろうとした私に祐樹さんが声を掛けてくれた。
「姉貴が外で飲み直したいって言ってるんだけど、茉莉花さんもよかったら一緒にどう? 明日の予定もあるだろうから無理にとは言わないけど」
私は二つ返事でその誘いに乗って、芹菜さんと祐樹さんと一緒に居酒屋にいた。
どこにでもある、気取らないチェーンのお店。
その一角のお座敷に陣取り、私の背中をさすりながら芹菜さんが元気よく言った。
「飲もう飲もう! 飲み明かすわよお! こんな時間にフライドポテトなんて食べたの久しぶりよ、今日は特別」
そう言いながら綺麗な爪を塩まみれにしてポテトをつまみ、芹菜さんは笑う。
「ほら、茉莉花さんも食べて、食べて。食べないと元気、出ないわよ! あのね、油分を摂取するとね、脳みそで幸せなホルモンが分泌されるのよ!」
綺麗な指でポテトを口に詰め込まれ、慌ててそれを咀嚼しながら祐樹さんに視線を送ると、祐樹さんは申し訳なさそうに笑った。
「酔っ払いの戯言だから、信じない方がいいよ」
芹菜さんはすでに相当な量を飲んでいて、ろれつも怪しくなっている。
だけど、この状況はなんだかすごく、嬉しかった。しんみりした雰囲気で飲んでいたら、たぶんもっと気持ちが沈んでいたから。
すっかり緩みきった涙腺のせいで時折私の目には涙がにじむけど、二人はそんなことを気にする気配すら見せなかった。
どうしてこの人たちはこんなに優しくしてくれるのだろう。飲み直したいなんて絶対に嘘だ。
どんな顔をしたらいいかわからなくて、ポテトと同じ大皿に盛られた唐揚げをお箸でつまみ上げ、それを口に放り込んだ。
一口噛むとあつい肉汁がしみだしてきて、口の中でそれを収めきれずに思わず口をあけた。
口からほくほくとした湯気が立ち昇る。
熱くて熱くて、生理的な涙を出しながら私は慌てて手元のお酒を煽った。
うわぁ私、行儀悪いなぁ。
でもお酒の回った頭ではそれ以上のことは考えられなくて、まぁいっか、と腕で口を拭う。唐揚げの脂でテカテカになった腕を照明に照らして光らせながら、祐樹さんに尋ねてみた。
「あの、どうしてこんなによく……?」
最後まで続かなかった私の質問に、祐樹さんがおしぼりを差し出しながら答えてくれた。
「すごく仲のいい友達が、茉莉花さんと同じような目に遭ったんだ」
「私と同じような目?」
差し出されたおしぼりを受け取って、口から零れた肉汁を拭き拭き。そして腕を拭き拭き。
「そいつの場合は、結婚式で花嫁に逃げられた」
祐樹さんが苦い表情でそう言ったので、私は手を止めた。
そんなドラマみたいなこと、本当にあるの?
「だから何となく、ほっとけなくて」
「それだけじゃないわよ。茉莉花さんがキレイだから、仲良くなりたいっていう下心もあったわよねぇ」
充血した目で芹菜さんがそう言った。
「はいはい、姉貴にはね」
祐樹さんは芹菜さんの言葉をテキトーに流して肩をすくめた。
「そのお友だちは……?」
「今は別の人と結婚して、幸せそうに暮らしてるよ。奥さんもすごく良い人だし、お互いに本当に大切に想ってるのが見ててわかる」
「よかった」
会ったこともない人だけど、本当によかった。
「うん」
「……そんな人から比べたら、私なんて大したことないですね」
腕をおしぼりでごしごしと拭きながら、私は言った。とっくに腕のテカテカは取れていたけど、祐樹さんの顔を見れなかった。
私は別に廉と正式に婚約していたわけでもないんだし。結婚式当日に逃げられたその人と比べたら、こんなの全然大したことない。それなのにウジウジして、みっともないなぁ、私。
そう思ったら顔を上げられなかったのだ。
「苦しみの大きさなんて比べられないよ」
祐樹さんがぽつりと言う。
「……え?」
「そいつと茉莉花さんのどっちが辛いかなんて、比べられないよ。過ごしてきた時間も、生きてきた時間の長さも、事情も、それぞれに違うんだ。どっちが辛いなんて比べられない。大したことないわけないよ。それぞれに辛いに決まってる」
許された、気がした。
苦しむことを。
わかっている。
世の中には私より辛い思いをしている人だってきっとたくさんいるのだろう。
浮気くらい、裏切りくらい、簡単に乗り越えてみせる人だっているだろう。
だけど、そのことが私の苦しみを軽くするわけじゃない。
全然、軽くなんてならない。
誰かにとっては大したことなくても、私にとっては辛い出来事だった。同じ経験をしたみんなが同じくらい苦しむわけじゃないとしても、私にとっては、とてつもなく苦しい出来事だったのだ。
この人は、それを知っている。
「祐樹、いいこと言うじゃなァい。そうなのよねぇ。見てよ、私なんて、ただの失恋よ? その上相手の女の子罵っといて、それなのにこんなに凹んでるのよ? バッカじゃないのって感じでしょ? でも私、苦しいのよ。人間が小さめに出来てるからさァ、辛いの。いい歳してって言われても、年齢なんて関係ないのよ」
「うん、まぁ、そうなんだけどね。姉貴は飲みすぎだから」
そう言って祐樹さんは芹菜さんの目の前に置かれていたお酒を奪い、テーブルの隅っこに寄せた。そして店員さんを呼び、お冷を頼む。
流れるようなその動きに感心しながら私はぼんやりと芹菜さんを見つめていた。
「ごめんね、茉莉花さん。こんな感じで」
「いえ。本当に、本当に……」
――ありがとうございます。
何度も何度も口にした言葉。
何度言っても、足りない。
その後私は朝まで二人と一緒にすごし、翌日昼過ぎの飛行機に乗って東京に帰った。
日常へ。
現実へ。
飛行機が着陸し、空港に足を踏み入れた瞬間、何とも言えない気持ちに襲われた。
――帰ってきてしまった。
その感覚は自宅に近づくにつれて大きくなり、最寄駅の改札を抜けた頃にはひどい疲労感となって押し寄せていた。
そういえば、昨日寝ていないんだった。
家に帰ったら寝よう。
余計なことを考えずに。
それが一番いい。
歩きなれた駅からの道をぼんやりと歩いていたら、前方から声がした。
「茉莉花っ!」
顔を上げるまでもない。
声の主はすぐにわかった。
「凜」
吉田凜。幼馴染。親友。家族。
どれだけの肩書をもってしても語りつくせない存在がそこに立っていた。
だけど今は、たった一つの彼女の肩書が私の心に突き刺さる。
廉の、妹。
「茉莉花。お兄ちゃんからさっき連絡あった。聞いた、全部」
そう言った凜はすでに泣いていた。
「ごめん、茉莉花。ごめん。お兄ちゃんバカで、ごめん。お父さんとお母さんも、廉のバカヤローって」
凜はそう言って抱きついてきた。
そして、泣きじゃくる。
一つ年下の凜は私にとって妹みたいな存在だった。無邪気で、正直で。本当の妹になるんだろうって信じてもいた。つい最近まで。
「凜。凜が悪いわけじゃないから、謝らないで。凜、おばさんになるんだよ。姪っ子か甥っ子が生まれるんだよ。喜んで。おめでたいことなんだから。私に気を遣う必要なんてないよ」
私は一気にそう言った。
帰りの飛行機の中で、何度も何度も練習した台詞。
望むと望まざるとに関わらず、四軒隣の吉田家の誰かには近々絶対に遭遇するだろうとわかっていたから、だから決めていたのだ。こう言おうって。
正直、今日会うとは思っていなかったけど。
「茉莉花……」
「私は大丈夫だよ」
「そんなわけ……」
「案外、平気だった。廉が大学卒業してからずっと遠距離だったから、別に。いなくてもそんなに変わらないから」
台詞の続きを流れるように言うと、凜はそれ以上何も言わずにただ私をぎゅっと抱きしめた。私よりずっとずっと小柄な凜は、私に抱きついてるのか、抱きしめてくれているつもりなのか、まるでわからないけど。
抱きしめられた体と一緒に、胸がぎゅっと締め付けられる。
「茉莉花。茉莉花」
何度も名前を呼ばれ、私はその度にうんうんと頷いた。
誰よりも心を許せる相手に本音を言えないことが、こんなに辛いとは。
凜の髪の毛からふわりと漂うシャンプーの香りが、昔からずっと変わらない吉田家の香りで、耐えられなくなった私はそっと凜から離れた。
「おじさんとおばさんにも伝えてね。気にしないでって」
私がそう言うと、凜は鼻水をすすりながら頷いた。それを見届けて、私は自分の家へ向かう。
走り出しそうになるのを堪えて、ゆっくりゆっくり。一歩一歩。
凜が自分の背中を見つめているのがわかるから、不自然にならないようにまっすぐに歩いた。
平気だよっていう精一杯の大嘘が、背中からもどうかにじみ出ていますように。
家に入るなりすぐに部屋に駆け込んで、風呂に入ることも着替えることもなくそのまま眠りについた。
夢は、見なかった。