3 いたむ心
ばふんっ。
音を立ててベッドに飛び込んでみると、マットレスが予想外に堅くて、「ぶぐっ」という声が喉の奥で漏れた。
そのまま大の字に寝転がって、そして笑った。
声を出して笑ったら気持ちも明るくなるよって誰かが言っていた気がするのに、気持ちはどんどんしぼんでいって、笑い声はいつの間にかただの息に変わって、そして小さく震え始めた。
――鼻が、痛い。
こんなところで鼻を強打して涙目になっているなんて、馬鹿みたい。
そう思ったら涙があふれてきた。
鼻が痛いせい。
この涙は、鼻のせい。
決して、悲しいからじゃない。
無駄だと知りながら、自分にそう言い聞かせた。
あの後、食事をゆっくりと終えてから三人でそろってホテルを出た。
「茉莉花さん、素敵な時間をありがとう」
芹菜さんの声に見送られ、こちらこそと小さく言いながらタクシーに乗り込んだ。
二人との会話はとても楽しく、廉とかをりさんがいつの間にかレストランを立ち去っていたことにも気づかなかったほどだ。人生で最悪の瞬間を楽しい時間に変えてくれた彼らには感謝の言葉もないくらい。そして口下手な私は言葉をうまく紡ぎだせず、差し出された手を強く強く握って頷くだけで精一杯だった。
「祐樹は送りオオカミにならないようにね!」
芹菜さんの言葉に、祐樹さんは苦笑しながらタクシーに乗り込んだ。
「傷心につけこむほど悪人じゃないよ」
私は一人で帰れるから大丈夫と言ったけれど、「この時間に一人は危ないし、どうせ俺のホテルも方向ほとんど同じだから」と言って祐樹さんが送ってくれることになったのだ。
この時間と言ってもまだ二十一時を過ぎたところだし、祐樹さんの泊まっているホテルが同じ方向というのはたぶん嘘だろうと思ったけれど、私はそのご厚意を受け取ることにした。
知らない街はやはり心細いし、タクシーにも乗り慣れていない私にとってはとてもありがたい申し出だったから。
「茉莉花さんは東京の人なの?」
タクシーが走り出してからほどなくして、夜を彩る街の光に視線を泳がせていると、隣に座る祐樹さんから声がかかった。
「はい……祐樹さんも、ですか?」
芹菜さんも祐樹さんも二人ともそれぞれに仕事の関係で大阪に来ていて、偶然時間が合ったからご飯を一緒に食べることになったのだと言っていた。
「そうだよ」
それならもしかしたら、東京に戻ってもまたどこかで会うことがあるかもしれないなぁ。
そう思って、芹菜さんにも祐樹さんにもまた逢えたら嬉しいと思ったのに、それをどう伝えてよいかわからずに私は黙り込んでしまった。またお二人に会いたいなんて言ったら、迷惑だろうか。
「東京のどの辺りなの?」
祐樹さんはそんな私の心の中を察したように言った。
どの辺り。
私の意志で、答え方を変えられる問いかけ。あまり詳細を知られたくなければ、東西南北で大まかに答えればいいから。
これはきっと、気遣いなのだろう。小さなことのようで、大きな。
「田園都市線の沿線です」
一瞬の逡巡の後で無難に答えると、祐樹さんは頷いた。
「ああ、そうなんだ。じゃあもしかすると結構近いかも。俺は東横線沿線だから」
東横線なら、渋谷で乗り換えてすぐだ。
バスを使えばもっと早いかもしれない。
そんなことが、なんだかとても嬉しかった。
「もしよかったら、時々姉貴と会ってやってもらえないかな?」
穏やかに問いかけられ、私は慌てた。
「会ってやってなんて、そんな! こちらの方が……!」
しどろもどろになりながらそう言ってから、ああ、こういうときは「喜んで」という一言でよかったのに、と気づく。
どうしてこうも、うまく心の内を表現できないのだろう。
だけど祐樹さんは私の慌てっぷりに呆れるでも笑うでもなく、私を落ち着けるようにゆっくりと言った。
「姉貴、喜ぶよ。ああ見えて最近結構元気なくて。今日も葬式みたいな食事会になることを覚悟してたんだ。茉莉花さんが居てくれたおかげで姉貴も随分元気になったみたいで、本当によかった」
私は何もしていないし、私の方がお二人に元気をもらったのに。
「茉莉花さんのオーラみたいなのがね。たぶん姉貴からすると眩しかったと思うよ」
「オーラ……ですか?」
「うん」
あ、と私は小さな声を上げた。
「もしかして、この服のせいですか? あの、普段はこんな華やかな服は着ないんですけど、今日は気合い入れなくちゃと思って無理して買ったんです」
会食の場所が一流ホテルのレストランだと知って、どんな服を着て行けばいいかわからずに慌てて買いに行ったのだ。学生時代のお洒落な友人に「一世一代のお洒落をしたい」と言ったら喜んで協力してくれた。廉に会いに行くと言ったからたぶんその意味を誤解したのだと思う。
祐樹さんはほんのりと笑った。
「服のせいではないと思うけど。でも、その服も素敵だよ」
ストレートな褒め言葉に、私は一瞬固まってしまった。
男の人から真顔で「素敵だ」なんて言われたことは一度もない。かろうじて廉から「可愛い」と言われたことくらいはあったけど、それだって本当に稀なことだった。
「ああ、ごめん」
私が固まっていると、祐樹さんは苦笑して謝罪の言葉を口にした。
「いえっいいえっ」
口の中がすっかり乾いてしまって、舌が口の中でうまく動いてくれない。
「姉貴にいっつも『この服似合う? ねぇキレイ? 素敵?』って聞かれるから、つい出てきちゃうんだ」
祐樹さんは迷惑そうに眉をひそめてみせた。本当に迷惑って思っているというよりは、ちょっと面倒だと思いつつもそれを楽しんでいるような感じ。ご姉弟で本当に仲が良いのだろうなぁというのが伝わってくる表情だった。
「あの、いえ、ただ、慣れないもので……」
私が言うと、祐樹さんは少しだけ意外そうな顔をした。
「え? よく言われない? 綺麗だって」
「いいえ」
私は首を横に振った。
容姿について言われるのは、いつだってそのルーツに関わること。
母に似た容姿は明らかに日本人離れしていて、顔立ちも体格もすべてが「外人っぽい」と言われるばかりだった。大半の人はそれを褒め言葉として言ってくれているのもわかっていたし、言われて嫌かと言われればそういうわけでもなかった。ただ、父と自分を捨てて出て行った母に似ていると言われて、手放しに喜ぶこともできなかった。
だからいつだって、複雑な気持ちだったのだ。
「姉貴と俺、ロビーで待ち合わせしてたんだけど。姉貴が先に着いててさ。俺の顔見るなり、『そこにものすごく綺麗な人がいるのよ』って囁いてきたんだ。姉貴が女性を褒めるなんて珍しいからびっくりしたよ」
「そんな、そんなことは……」
「そんなことあるよ」
そう言ってから祐樹さんは余裕の笑みを浮かべる。
なんだか、私ばかりが焦っている。
何と答えたらいいのかわからなくなって、でもこれ以上否定すると卑屈に見えるだろうかと思って、どうしてよいかわからずに俯く。
『ありがとう』
唐突に、祐樹さんが声のトーンを上げた。
「へ?」
「おじさんからのアドバイス。褒められたら、『ありがとう』でいいんじゃない」
「おじさんって、祐樹さんお若いじゃないですか」
たぶん同い年くらいだろうと、思っていた。
「もう三十だからね。茉莉花さんとは五、六歳違うでしょう」
「えっ三十歳なんですか?」
「そうだよ。そんなおじさんからのアドバイス」
「わかりました」
「よろしい」
祐樹さんが楽しそうに微笑んだところで、タクシーが止まった。
料金を払おうとしたけど受け取ってはもらえず、「こういうときは?」と笑顔で問われた。
「ありがとうございます」
「そう、よくできました」
そう言って祐樹さんは「ほら、寒いからもう入って」と言う。
今日は甘えてしまおうか。
またいずれお礼をすればいいのだし。
そう思って私は結局引き下がったのだった。
***************
ああ、楽しかった。
ホテルに足を踏み入れた瞬間はそう思った。
だけど、その気持ちも長くは続かなかった。
チェックインを済ませてホテルの部屋に入ると急に何かがこみあげてきたのだ。
それを何とか体の中に押し込めておきたくて、服も着替えずにベッドに飛び込んで鼻を強打した。
「ふふっ……」
ベッドに突っ伏したままもう一度笑ってみるけど、どうしたってそれは鼻声になった。
だって、痛いんだもん。
鼻が。
心が。
慣れないヒールのせいで、足が。
緊張していたせいで、肩が。背中が。
作り笑顔をしていたせいで頬が。
涙をこらえて目を見開いていたせいで瞼が。額が。
どこもかしこも、痛くてたまらない。
「きっとお酒が足りないんだ」
一人呟いてみると、本当にそんな気がしてたまらなくなった。
会社の飲み会や、友人との会食で飲む以外、ひとりでお酒を飲むことなんてまず無い私だけど、きっと今日は飲む日なんだ。
ベッドから起き上がり、すぐに部屋を出た。
このホテルには確かバーがついていたはず。
きっと高いに違いない。
お酒代に含まれる場所代。雰囲気代。
そのおかげで異様な値段が設定されていることだろう。
――どんとこい。
「今日飲まなくて、いつ飲むの」
ノースリーブのワンピースにクラッチバッグだけを持って、最上階のバーへと向かった。
しっとりとした暗い照明の中、洋楽が流れている。
カウンター席に座って適当なカクテルを注文し、ひとつちいさなため息をついた。
頼んだのはメニューの一番上に載っていたもの。もともとお酒に詳しくはないし、酔えればどんなお酒だってよかったから、注文してからそれが出てくるまでのわずかな間にその名前すらも忘れてしまった。
少ししてカタカナの名前と共に目の前に差し出された淡いオレンジ色の液体は、間接照明を浴びてキラキラと揺れた。
甘い。
舐めるように一口を飲んだ後は、ぼんやりとグラスを見つめていた。
水滴に映りこんだ自分の顔。
気合いを入れてつけたジャスミンレッドの口紅はとっくに落ちていて、グラスについてしまう心配もいらなかった。
――こうして一つずつ、剥けていく。
明日には東京に戻って、いつも通りの生活へ。
これまでと同じ、それでいて、すべてが違う生活。
それが自分にとってどんなものなのか、ちっとも想像が出来なかった。
ベビーカーのときから当たり前に傍にいた人を失ってしまったのだ。
幼い私を残して母が家を出て行って、仕事が忙しい父は私を抱えて右往左往。そんなとき快く私の面倒を見てくれたのが4軒隣りの吉田家だった。その家の長男坊が廉だ。だから物心ついたときから、私の世界にはいつだって廉がいた。
「いなくなっちゃった……」
そう呟いた瞬間、すーっと、この世界には自分とグラスしか存在しないような感覚に囚われた。
耳がぼんやりとして、静かに囁き合う周囲の客の声が消えていく。
その代わり、さっきまで気にも留めなかったBGMがやたらと耳に入り込んできた。
イギリスの女性歌手が独特の声色で歌い上げるその歌は胸にしみこんで、そこをゆっくりと、そして静かにかき混ぜた。
「おひとりですか?」
右隣から声がかかり、現実に引き戻された。
そちらに目をやると、男の人がこちらを覗きこむようにしてカウンターにもたれかかっていた。私がこんな服を着ていなければ決して声をかけてはこないのだろうと思うような、つやつやの髪をした男の人。
「もしよかったら、ご一緒しませんか?」
この人の目には、私が連れを探しているように見えたのだろうか。
「すみません。俺の連れです」
割り込むように背後から聞こえてきた声に、振り返った。そこには困ったように眉を寄せ、肩をすくめた祐樹さんが立っていた。
声をかけてきた男性は「なぁんだ」とでも言いたげな顔をして歩み去って行った。
「どうして祐樹さんが……」
「さっきのレストランじゃお上品すぎて飲み足りなかったからさ」
「でも……なぜ?」
なぜ、このホテルのバーなのだろう。
だって、私をタクシーで送って自分のホテルに向かったんじゃ。さっき下でタクシーを見送ったはずなのに。
「茉莉花さんがここに一人で飲みに来るようなら、きっと一人にしないほうがいいと思って」
そんなにか弱いと思われたのだろうか。
「バーでそんな綺麗な格好をした女の人が一人お酒飲んで泣いてたら、男の格好の餌食になっちゃうよ。コートも持たずにこの季節にここに居る人なんて宿泊客だってバレバレだし」
「私、泣いていないですよ」
「そう? なら、俺の思い違い」
祐樹さんは「隣、いい?」と言いながら返事を聞くことなくスツールに腰かけた。その手に握られたグラスには、ちっとも減っていないお酒。
「……ありがとうご……」
言葉にならなかった。
たった一つ。
自分のことだけを気にかけてくれる人がこの瞬間、この場所に居てくれることがただただ無性にありがたかった。
涙がふいに、溢れた。
たったいま、「泣いていない」と言ったところなのに。本当に、さっきまでは泣いていなかったのに。
「すみません、ちょっと」
祐樹さんがバーテンダーを呼んだから、お酒を注文するのかと思ったけれど、呼んだ理由は違っていた。
「音楽を変えていただいてもいいですか。アデルは好きだけど今はちょっと」
祐樹さんは軽く言った。
どうしてだろう。
この人はいとも簡単に、私の馬鹿馬鹿しい感傷に気づいてしまう。
先ほどから流れているBGMは、結婚してしまったかつての恋人に対して語りかける切ないバラード。
こらえきれなくなった私は、慌てて口を両手で塞いだ。
その指のわずかな隙間から、嗚咽が漏れた。