答え合わせ
最終話の、アメリカの家での二人の会話です。
本編に入れようとして省いた部分に加筆しました。
客間のドアを閉め、それから祐樹さんに向き直った。
祐樹さんは部屋を見渡し、「素敵な部屋だね、いまさらだけど」と言った。
母がインテリアを手がけた客間は、数ある部屋の中でも私の一番のお気に入りだ。オリーブ色の壁に白いドア、白いモールディング、ネイビーブルーのカーテン。日本では見かけないその色遣いが、落ち着いていてとてもいい。
「祐樹さん」
好きな色に囲まれていたら、少し勇気が沸いた。とんでもないことを、言えてしまえそうなくらい。
「あの……ハグしても、いいですか」
どうしてそんなことを思ったのか、自分でもよくわからない。もしかしたら、これが夢じゃないと確かめたかったのかもしれない。
挨拶がわりに気楽に交わすハグにはすっかり慣れたけど、それとは全然違う。自分で言い出したくせにどんな顔をしていいのかわからなくて俯き加減に祐樹さんを見上げていたら、祐樹さんは一瞬ハトが豆鉄砲を食らったような顔をしたあと、すぐに小さく笑った。そして、答えの代わりに両腕を大きく広げてくれた。
その仕草にほっと胸を撫で下ろした。
祐樹さんがもし一瞬でも嫌がるような素振りを見せたなら、私の勇気はぽっきり折れてしまっただろうから。
ひとつ、深呼吸をする。
それからゆっくりと歩み寄って、そっと祐樹さんの胴に腕を回すと、祐樹さんも私の背に柔らかく腕を回してくれた。そんな祐樹さんの肩に頬をつけ、目を閉じる。
「あ、これやばい。俺の心臓が思春期の少年並みになってることがバレる」
祐樹さんが苦笑交じりの声で言った。
たしかにさっきから鼓動の音が聞こえていたけど、それが自分のものか祐樹さんのものかよくわからなかった。
「祐樹さんはいつも通りだと思っていました」
もごもごと言うと、祐樹さんの腕の力が少しだけ強くなった。
「そんなわけないよ。茉莉花さんに会えてうれしいし、これでもここに来るのにめちゃくちゃ緊張したんだから。茉莉花さんの帰りを待たせてもらってる間もね、怪しまれそうなくらいソワソワしてた」
緊張しているし、ドキドキもしている。だけど、すぐ近くから声が聞こえてくるのが不思議に心地よくて、ホッとする。
そんなことを考えていたら、ゆるりと視界が滲んだ。
「……私、こうしてるだけで涙が出てきちゃうくらい、祐樹さんのことが好きみたいです」
幸せなのに、どうして涙が出るのか。
ううん、もしかして、幸せだから涙が出るのかも。
スン、と鼻をすすると、祐樹さんが言った。
「できれば泣かないでほしいなぁ」
「あっごめんなさい、肩、濡れちゃいますよね」
あわてて祐樹さんの体に回していた腕を外し、こぼれかけた涙をすくおうと動いたら、祐樹さんの腕の力にそれを阻まれた。
「肩が濡れるなんて全然平気だよ。ただ、笑っててほしいなと思って。でも、我慢してほしいわけでもないから。なんか矛盾してるね、ごめん」
大きな手が優しく背中を撫でてくれる。
「あの、でもこれは、幸せな涙です」
「それならよかった」
祐樹さんの声が、優しい。
それだけで嬉しくなる。
「私、祐樹さんといるときに泣いてばかりですね」
悲しくて泣いて、よくわからなくて泣いて、悔しくて泣いて、幸せで泣いて。
「いつもは、こんなに泣き虫じゃないんです、本当に」
こっちに来てから、泣いたことなんてほとんどない。日本にいたころだって、決して泣き虫な方ではなかった。そのはずなのに、祐樹さんの前では何度涙を見せたことだろう。
「うん、知ってるよ。たぶん、だから俺は茉莉花さんのことが好きなんだと思う」
その言葉に驚いて体を離そうとしたけど、祐樹さんの腕はやっぱりそれを許してくれなかった。
「ダメ。さすがに今の顔は見られたくない」
そう言った祐樹さんの肩が小さく揺れた。
笑ってる。
もしかして照れてる、のかな。
わたしもつられて、少しだけ笑った。
「初めて出会った日に、一旦別れたあとホテルのバーで会ったでしょ」
「はい」
「あのときにね。バーで茉莉花さんの背中を見つけた瞬間から、たぶん俺は茉莉花さんが好きだったんだと思う」
「え?」
「肩を小さくしてスツールに座ってる後ろ姿を見て、『ああこの子には笑っていてほしい』って心の底から思ったんだ」
「そう、だったんですか」
「はじめましての状況があれだったから気にかかったっていうのもあるけど。仕事柄いろんな人のいろんな感情に触れる機会は多いからね。毎度心を砕いてたらこちらの身が持たない」
私は黙って祐樹さんの言葉に耳を傾けていた。
「だから、普段は他人のことに入り込んだりしないんだ。姉貴に言ったら『茉莉花さんがきれいだったからでしょう』って言われそうだけどね、それだけじゃない。全然平気って顔をしてタクシーに手を振っておいて、ちっとも平気じゃないところがね、たまらなかった」
その言葉がうれしくて、祐樹さんの背中にぎゅっとしがみついた。こんなときに言葉がうまく出てこない自分がもどかしく思いながら。
そんな私をなだめるように、祐樹さんがゆるやかに背を撫でた。
「私は……いつからって、よくわからないです。初めてお会いしたときから、人としては大好きでしたけど。それがいつ、恋に変わったのかは」
廉のことに自分の中できちんとお終いをつけるまで、次のことを考えちゃいけないような気もしていたし。
「少しずつ少しずつ惹かれていったのかもしれません。私はその……経験が少なくて、どういうのが恋愛感情だとか、本当によくわからなくて。だから、きちんと気付いたのはたぶんあの……ジンの」
そう言うと、祐樹さんの腕が少し緩んだ。
「あの……」
やっぱりまずかったかな、この名前は。
祐樹さんの体がほんの少しだけ離れ、眼鏡越しの穏やかな視線が注がれる。
「あの、ごめんなさ……」
「茉莉花さんが謝ることは何もないよ」
祐樹さんの手はまだ私の肩に置かれていて、そこから伝わる体温が心に安寧をもたらしてくれた。
怒ったりは、していない。きっと。
「でも、その話もちゃんとしなくちゃと思ってたんだ。すこし座って話そうか」
母自慢のソファセットは、四角い部屋のなかで敢えて斜めに配置されている。『壁際にソファをつけて並べると病院の待合室みたいになるから』と、これも母のこだわりの配置だった。
そのソファに向かい合って腰掛けると、祐樹さんは静かに語りだした。
「ジンも、俺の友達なんだ」
「……え?」
「マイカは小学校の頃の同級生だけど、ジンは高校から入ってきた奴でね。仲のいいグループのひとりだった。俺と真吾と、真吾のイトコの貴俊と、ジンの四人組で」
仲のよい友達と、元恋人が結婚した。それはきっと、とてもつらい経験だったのだろう。
「俺と別れた後に付き合い始めて、そのあと結婚したんだからさ。俺に責める資格はないし、あいつらが後ろめたく思う理由もない。それでもやっぱり気まずくてね」
「そう、ですよね」
「でも、茉莉花さんがアメリカに来て少ししてから、ジンに会ったんだ。本当に久しぶりに。不思議なもんで、まともに話したのは数年ぶりなのに、あっさりと高校時代に戻れた。いままでのわだかまりは何だったんだろうってくらいに」
「本当にいいお友だちだったんですね」
「いい友達って言っていいのか。悪友と言うべきかな」
その人のことを話す祐樹さんの表情はとても穏やかだった。
「それでマイカのことも、俺の中でちゃんと終わった。結構時間がかかったけど、ようやく」
「そのお気持ちは、よくわかりますから」
わたしがまだ廉やかをりさんのことで苦しんでいた頃、祐樹さんはその気持ちに寄り添ってくれた。あのとき祐樹さんは、友達が同じような目に遭ったから私の気持ちがわかるのだと言っていたけど、もしかしたらそれだけではなかったのかもしれない。祐樹さん自身も、捨てきれない想いを抱えていたからだったのかも。
「あの……また苦しくなったら、言ってください」
祐樹さんがわたしの気持ちをわかってくれたように、きっとわたしにも祐樹さんの気持ちが理解できる。
「祐樹さんの支えになれるのだとしたら、廉とのあの出来事も、無駄ではなかったと思うんです」
祐樹さんの瞳のなかに、わたしの姿が映り込んでいた。その顔が本当に祐樹さんのことを好きだっていう表情をしていて、少し恥ずかしくなった。でもそれ以上に、誇らしかった。今のわたしは、ちゃんと気持ちを伝えられている。前よりもずっと素直に。
「祐樹さんが口にするより先に気づける私でありたいですけど、毎回は気づけないかもしれないから。だから、できれば、言ってください」
どうしてか、また涙が出そうになる。
私が何も口にしなくても、いつも私の気持ちに気づいてくれた祐樹さんに。返せることはそれほど大きくないけど、せめてこれくらいは。
「ショットグラスがなくても、祐樹さんの本音をちゃんと受け止められるように、私ももっとしっかり……」
涙を隠そうとして下を向いたままそう言ったら、かたん、と音がした。
「俺、やっと、わかった気がする」
祐樹さんは立ち上がっていた。
「……なにが、ですか……?」
「真吾がハルカさんに惚れ込んでるのを見て、いつも思ってたんだ。いい子なのはわかるけど、そこまで惚れ込むってどういう感じなんだろうって。でも、いまわかった」
「……あの、それは……」
「好きとか、そういう言葉で表現しきれない感情がある」
そう、それだ。
さっきから私の涙を溢れさせているのは、その。
言葉をうまく紡ぐことのできない私の、ありあまる感情。
心の器におさまりきらないその気持ちの名前が、よくわからなくて。
それが全部、涙になって体から外へと溢れだした。
言葉の代わりに。
「わたしも、です」
今度こそ、涙が止まらなくなった。
祐樹さんに出会えて、本当によかった。
こんな感情を、知ることができた。
「好きじゃ、足りない」
眼鏡の向こう側の祐樹さんの眼が、ほんの一瞬だけ光ったような気がした。
「反則なくらい、綺麗な顔で泣くよね」
祐樹さんはまた苦笑しながらそう言って、ハンカチを差し出してくれた。
心の器から溢れだしたこの感情に名前をつけるとしたら、きっとそれは――
まだ口にできないけど、いつかきっと。
その言葉を、伝えられる日が、来ますように。
オチも何もありませんが、お楽しみいただけましたら幸いです。




