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風間に咲く花  作者: 奏多悠香
番外編

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32/35

酒とアデル

随分前に書きかけていた男性視点を少しだけ…

「お前、いいの?」


 その問いに酒に注いでいた視線を上げると、やや茶色がかった瞳がこちらを覗き込んでいた。

 その視線から逃れるように額に手を当ててうつむく。


「いいって、何がだ」


 そう口に出してはみたものの、問うまでもない。こいつが何を聞きたいかなんて、わかっている。


「いいのかよ」

「だから、何がだよ」

「お前が思ってるよりずっと遠いぞ」

「何の話だ」


 真吾は答えなかった。珍しく真剣な表情で、そして珍しく、言い淀んでいる。


「ハルカに言われたんだ」

「何を?」

「余計な口出しをするなって」

「そうか」

「でも……いや」


 そう言ってまた、口をつぐむ。

 真吾の言いたいことはわかっているし、真吾は俺の返事をわかっている。だから、その言葉を口にしたところで何も変わりはしない。


「……この歌、何かお前みたいだな」

「歌……?」


 真吾がぽつりとつぶやいた言葉に、それまで耳を素通りしていたBGMに意識を傾けた。特徴のある切なく掠れた声。


「アデル、か」


 そういえば、彼女と初めて出会った日。あのバーで流れていたのもアデルだった。いま流れているのは、あのときとは違う古い曲のカバーだ。


 Make you feel my love.


 そこで紡がれるのは、深い愛情。

 包み込んで守るような、そんな。


「俺はこんなんじゃない」


 俺はこんなに深い愛情を誰かに対して感じられるような人間じゃない。

 もっと冷たくて、もっと――

 思わず両手で頭を抱えて耳を塞いだ。それでも、その歌詞が頭をめぐる。

 世の中の人間の心がみんなこの歌詞みたいにきれいなわけじゃない。

 

「どうして受け入れなかったんだ。お前、須藤さんのこと好きだろ」


 ついに真吾がその言葉を吐き出した。

 好きだろ、か。好きじゃないのか? ではなく。

 確信めいた口調はこの友人の常だというのに、今日に限って癪に障る。


「幸せになってほしいんだ」


 出会ったその日から、彼女は泣いていたから。


「苦しむ姿を見ていたからこそ、本気で幸せを願ってる」

「前もそんなこと言ってたけど、それなら傍にいてやればいいだろ」


 さも簡単そうに言ってのける。それができる自分がどれだけ恵まれているか、たぶん真吾は気づいてもいない。


「俺には無理だ」

「なんでだよ」

「知らないからだ」

「何を」

「普通の家庭の普通の幸せを。彼女が望むそのものを俺は知らない。だから絶対に与えられない」


 自分の育った環境のことを今さら嘆くつもりはない。とうに諦め、すでに終わった。だが、あの環境で育った自分には決して理解できないものがある。それがたぶんこの歌詞だったり、そこに滲む深くて暖かく穏やかな愛情だったりするのだろう。


「何かっこいいこと言ってんだ。バカが」


 眉がつながるのではないかと思うほどぐっと眉根を寄せた真吾が言った。

 容赦のない言葉に、飲んだ酒が胃の中で踊る。

 なんでこのタイミングで、このBGMなんだ。

 ジン。

 アデル。

 俺にはいつから、こんなに嫌いなものが増えたんだ。

 さっきの言葉の一体どこが、かっこいいんだ。

 身体中を巡ったアルコールのせいか、言葉が口をついた。


「かっこいいのはお前だよ」

「はぁっ?」


 俺の言葉に、真吾が眉を持ち上げて荒い声を上げた。


「今さら何言ってんだよ、そんなん今に始まったことじゃねぇだろう。気持ち悪い奴だな」


 付け加わった言葉に思わず笑いそうになった。

 本当にこの男は。


「お前はかっこいい。ちゃんと、ハルカさんを幸せにしてる」


 カラン。

 目の前に置かれた酒の氷が溶けて、小さな音がした。

 学生時代からこいつの彼女が途切れることはなかった。稀代のモテ男と誰もが口を揃えたし、本人もそれを楽しんでいた。

 そんな奴だが、今は奥さん一筋だ。

 奥さんと出会って急に落ち着いた真吾の変わりように周囲は皆驚いたが、俺はどこかで納得していた。若い頃は遊んでいても、自分の目指す家庭像をきっちりと持っている。だからそれを共有できるひとを見つけてからは、早い。こいつは明るく、笑顔の絶えない暖かい家庭を築くのだろう。あの倉持家のような。それが容易にイメージできた。

 だが俺には、自分のそんな姿が想像すらできない。


「……幸せなぁ。どうだかな。文句を言われてばっかりだけどな」

「文句?」

「当たり前だろう。他人と一緒に暮らすんだぞ。お互いに文句なんて山ほどある。トイレットペーパーの買い置きがどうとかそんな細かいことを言われて、死ぬほどむかつくこともある」

「それでも返品はされてないんだから、うまくいってるってことだろう」

「返品?」


 真吾の眉が片側だけ持ち上がった。


「たった一言『別れよう』っていう言葉だけで終わるんだぞ。結婚だって、紙切れ一枚で終わる」


 俺は、それがどれだけ脆いものか知っている。

数か月前まで普通だったはずの両親が突然不仲になることも。数日前まで笑っていた恋人から突然の別れを告げられることも。

 真剣に言ったのに、真吾は俺の言葉を鼻で嗤った。


「なんだ、お前、怖かったのか」


 怖かった?


「須藤さんを幸せに云々じゃなくて、それを理由にいつか須藤さんから捨てられるのが怖かったのか。しょうもない奴だな」


 真吾は一人納得したようにうなずきながら、目の前の酒を煽った。


「いいことを教えてやるよ」

「なんだ」

「お前が幸せにしてやらなくても、幸せになるってさ」

「何の話だ」

「須藤さんが言ってたんだよ。空港でな」

「空港?」

「俺は見送りに行ったんだよ。空港まで。そこで須藤さんが言ったんだ。自分の力で幸せになるって」

「それはどういう……」

「お前、須藤さんに『幸せにできない』って言ったんだろう? 須藤さんは、お前に幸せにしてもらえなくても自分で幸せになれるって証明するんだってさ」


――幸せに


「その話は……そうか、覚えてたのか」

「お前、須藤さんのあれ、信じてたの? ジンを飲んだところから覚えてないって? そんなわけないだろ。あの子はきっと全部覚えてる。だけど、忘れたふりをしてたんだ。お前のために」

「ますますかっこわるいな」

「お前さぁ、とりあえず自分が幸せになっとけよ」


 そう言ってから真吾はニヤリと笑った。


「俺はべつにハルカを幸せになんてしてない。俺が、ハルカといると幸せだから結婚した。皆そんなもんだろ」


 度数の高い酒をなめるように飲んだら、舌先がひりついた。


「育った環境のせいじゃねぇよ」


 そう言って真吾はゆっくりとバーの天井を見上げた。


「出会ってなかっただけだ。俺がさっきの歌みたいな感情を元カノ全員に抱いてたと思うか? そんなわけねぇだろ。でも今は、ちょっとわかる。わかるようになったんだ」


 ハルカさんに出会ったから。

 そうか、心が震えるほどの愛情を感じたことがなかったのは、出会っていなかったからか。


「お前、須藤さんと一緒にいて感じなかったか。この子に笑ってて欲しいとか、この子の毎日が穏やかであって欲しいとか」


 考えるまでもない。ずっと思っていたことだ。


「それで十分だろ。幸せにするだなんて、そんなに肩肘張らなくてもいいんだよ。だいたいお前は頭でっかちすぎるんだ。そんで、お前みたいなしょうもない奴には、あれくらい芯のある子がいいよ」


 グラスの中の氷が解けて、固い小さな音が響く。

 幸せに。


「もしかしたら……彼女のことがうらやましかったのかもしれない」

「そうか」

「きつい状況だったはずなのに。健気にそれを乗り越えて、前を向いて。いつの間にか翼が生えて、飛び立って」


 眩しいと思う反面、いつまでも同じ場所から動き出すことのできない自分が惨めにも思えた。強烈な憧れと劣等感は、たぶん背中合わせだ。

 真吾はしばらく考え込むような仕草を見せてから言った。


「お前、転職しろよ」

「転職?」

「医者より絶対、詩人が向いてる。ウェルテルもびっくりすんぞ」


 真顔で言うから何かと思ったら。


「うるせぇ」


 たしかにちょっと気持ち悪いことを口にした自覚はあったんだ。だが、それくらいスルーしてくれてもいいだろうが。

 軽く睨み付けると真吾は肩をすくめた。


「よかったじゃん、翼が生えてる人で。お前、もう誰かを引きずって飛ぶのは嫌だろう」


 俺は静かにうなずいた。

 本当に、その通りだ。


「氷の張った湖の上に置いたとしたらさ」


 母は、自ら氷を割って溺れる人だった。

 姉は、助けを求めて叫ぶだろう。

 彼女はきっと、ただ一人でその氷の上を進むだろう。ゆっくりと、しかし着実に。そうか、でもきっと彼女は大丈夫なんだ。翼が生えているから。

 母を長く見てきたせいで、自分が背負って歩かなくてはならないものだとばかり思っていた。

 そう言うと、真吾はやっぱり嗤った。


「今からでも転職、遅くねぇと思うぞ」


 グラスを空にした真吾は、俺の顔をちらりと見た。そしてたぶん、そこに何らかの変化を見て取ったのだろう。数度頷いてからゆっくりと立ち上がった。


「さっきの歌詞。俺はやっぱりお前みたいだと思うよ。お前はずっと見守ってきたんだろ? 彼女がつらい時、いつも誰よりそばにいた。それでいいんだ。お前が何もしなくてもあの子は大丈夫だよ。ただ、傍にいてやれ。たぶん須藤さんの望みはそれだけだ。案外、お前を引きずって飛んでくれるくらいの強さが、あの子にはあるような気がする」


 真吾は最後にそう言うと、スツールの背もたれに掛けてあった上着を取り上げた。


「これ以上遅くなったらハルカが怖いから、そろそろ帰るよ」


 ハルカが怖いから。

 何かにつけ真吾がそう口にするので、仲間内で密かにこの言葉が流行していると、いつかこいつの奥さんに教えてやろう。きっと彼女は憤慨するのだろう。失礼なッとしかめっ面をする姿が用意に想像できる。

 そして、そんな彼女を見ながら笑うこいつの姿も。


「お前は? どうする?」

「俺はもうちょっと飲んでから帰る」

「そうか、じゃあな」


 去り際、真吾は俺の背中をぐいと押した。

 デカい手だ。そこから伝わってくる思いのデカさに比べたら、全然大したことないが。

 さて俺は。

 とりあえずジンを注文し、それを一気に飲み干してやった。

 そしてアルコールで沸き立つ頭で考える。

 何をするか。

 自分の力で幸せになるという彼女に、自分の( to )気持ちを(make her)伝える( feel )ために(my love)


お楽しみいただけましたら幸いです。


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