30 最終話 風間に咲く花
「祐樹さん」
部屋の入口に突っ立ったまま、私は言った。
あまりの緊張で口がカラカラに乾いていたせいで、声を出すときに唇がパサリと音をたてた。
「茉莉花さん、久しぶり」
ソファから立ち上がったその人は以前と変わらない、穏やかな笑みを浮かべていた。その笑みに、私は深い深い安堵の息を吐いた。
よかった、笑っている。
最後に会ったときは、泣いていたから。
「お久しぶりです」
乾燥した口からやっとのことで音を出したけれと、いつもより低く何かに引っ掛かったような変な声が出て、私は慌てて咳払いをした。
それからまた祐樹さんの方を見ると、祐樹さんは先ほどと同じ穏やかな笑みを浮かべたまま私をじっと見つめていて、私はまた居心地の悪さに咳払いをする。
そうしてケホンとかコホンとかを数度繰り返したあと、ようやく私は切り出した。
「あの……さっきまで倉持常務と」
小さな声で言うと、祐樹さんは小さなため息をついた。
肩が少し下がり、眉をひょいと上げる。
祐樹さんだ。
「そうだったんだ。俺が今日ここに会いに来るのをわかっていてわざわざ茉莉花さんを呼び出すんだから、あいつは本当に性格悪いよな」
丸い笑み。
少し髪の毛が伸びて、眼鏡のフレームが以前とは変わっている。
短い髪の毛に縁なし眼鏡の祐樹さんを見慣れていた私には、その姿は新鮮なものに映った。
新鮮というか、かっこいい。
祐樹さんはこんなにかっこいい人だったんだ。
そんな風に思うのは、久しぶりに会ったせいだろうか。
日本にいた頃の私にとって祐樹さんはただひたすらに祐樹さんで、もちろん素敵な人だということは知っていたけど、こんなにかっこよかったなんてちっとも気づかなかった。
ぼーっと見つめていたら祐樹さんが少しだけ口角を上げたので、私は慌てて誤魔化そうとして、思わず目を逸らしてしまった。
自分が驚かせるはずが、驚かされている。
次に会うときにはドキドキさせようと思っていたのに、私がドキドキしている。
その笑顔ひとつで、私の心臓は痛いほど暴れだす。
いつから私はこんなに好きになっていたのだろう。
「いつまで待っても帰ってこないから会いに来ちゃったよ」
ソファのわきに立ったまま、祐樹さんが肩をすくめた。
「え……? わたしに?」
「そうだよ。そうじゃなきゃ、ここまで押し掛けたりしないよ」
「あ、そう……ですよね。あの……」
急に、得体の知れない不安に襲われた。
祐樹さんに次に会うのは当分先だと思っていたから、心の準備が全然できていなかった。最近は化粧にもほとんど時間をかけていないし、実はこっちにきてちょっと太ったし。まだまだ満足には成長できていないし。
変わらないな、と思われたら。成長していないな、と言われたら。
「あの、その、まだ、で……」
「まだ?」
「まだ、これからなので、あの、その」
今の私より、もう少し成長できるはずだから。
だから今の私で答えを出さないで欲しいと、そう懇願したくなった。だけど、言葉がうまく出てこない。
おかしいな。もっとずっとハキハキ話せるようになったはずなのに。お国柄なのかビジネスの世界はそういうものなのか、容赦のない注文をしてくるお客さんにも「それは無理です」とキッパリと言えるようになった。
なのに、どうしてか、うまく言葉が出てこない。
乾いた口が妙に空回った。
「まだなの? 俺、もう結構待ちくたびれたのにな」
祐樹さんが渋い顔をした。
「あ、ごめんなさい。え? 待ち……?」
「待ってた。茉莉花さんが日本に帰ってくるのを、心待ちにしてた」
「え? 心待ち? どうして……」
「茉莉花さんのことが好きだから」
「え?」
「好きだった。だけどあのころの俺には全く余裕がなかったし、自分がまともな家族を築けるとも思ってなかった。茉莉花さんには幸せになってほしかったから、俺じゃだめだと思った。でも真吾から茉莉花さんが言ったことを聞いて背筋が延びたんだ。自分で幸せになるってやつ。それで俺も、茉莉花さんが帰ってきたときに堂々とその気持ちに答えられるようになっていようと思った」
「え……? あの」
「なのに全然帰ってこないからさ」
「あの」
「もしかしてほかに好きな人でも出来たかなと思って姉貴に聞いてみても知らぬ存ぜぬの一点張りでなんにも教えてくれないし、ラルフは口笛吹いてごまかすし」
なんて古典的なごまかし方を。
「ほかに好きな人なんて」
そんなこと、考えもしなかった。
ただただがむしゃらで。
突き進む私の心の中には、胸を張って祐樹さんに会いに行く未来の自分の姿だけがあった。
「それを聞いて安心したよ。間に合ってよかった」
「祐樹さん、あの、さっきの、本当に……?」
「うん。本当だよ」
「あの、もう一度、もう一度言ってもらっても?」
図々しいと思ったけど、どうしても聞きたかった。
祐樹さんはくすりと笑って肩をすくめ、それからさらりと言った。
「茉莉花さんのことが好きだ」
だけどその口調とは裏腹に目は真剣そのもので、その言葉に嘘はないってことがきちんと伝わって来た。
その真剣なことばを受け取って。
手が震えた。
手だけじゃない、胸も。
ああ、これで。
またしばらく頑張れる。
「祐樹さん、私、自分から好きだって気持ちを誰かに伝えたの、あのときが初めてだったんです」
声も震えていた。
「だから、本当に嬉しいです」
本当に、本当に。
受け身で生きてきた私が、初めて勇気を振り絞った瞬間だった。
一度、大きな深呼吸をした。
「でもあの、帰国までもう少し待ってもらえますか? 修行がまだもう少し。大切な現場もいくつもあって」
「……もう少しって、どのくらい?」
祐樹さんが眉根を寄せて言った。
「あと……一年とか、二年とか……」
もしかしたらもう少し、と思ったけど、祐樹さんの表情を見てそれ以上は言えなくなった。
「かなりアバウトだね」
そういって祐樹さんは片眉を上げた。
「それにちょっと、長すぎるよ」
「え? あの……」
そんなには待てないということだろうか。
待てないというのは、何を意味するのだろうか。
やっぱり、ダメだということかな?
それは嫌だ。
だって、せっかく。せっかく。
どうにかしなくちゃ。
「あのっ」
「だから俺がこっちに来ることにした」
「へ?」
「学生時代の恩師がUCアーバインのメディカルセンターで働くことになったって聞きつけて、俺も連れて行ってくださいって頼み込んだんだ。それこそ夜討ち朝駆けで。それでようやく、頷いてもらった」
「……え?」
「ご近所だよ。車でここから20分ぐらい。今回はその家探しもあって」
どうしてそれを、先に……
「こっちに来たら、ときどき会ってくれる?」
「も、ちろんです」
「ときどきじゃなくて、しょっちゅうって言ったら?」
「あの、はい」
「よかった」
「それはつまりその……」
「付き合ってほしい。そして」
祐樹さんは少しだけ緊張した表情を見せた。
「これは軽々しく口にできることじゃないけど。でも俺としては、その先に家族という形があったらいいなと思っている」
頭も心臓も、この急展開に全くついて来られていなかった。
何を言えばいいのかわからなくてあわあわしていると、祐樹さんがふっと笑った。
「そこのドア、閉めてもいい?」
へ?
振り返ると、客間のドアは私が入ってきたときのまま開け放たれていた。
それを閉めようと慌ててドアに駆け寄って部屋の外に出た私の目に飛び込んできたのは、暗い廊下で壁に張り付いている母だった。
『ちょっとお母さん、そこで何を……』
母はちょっと気まずそうに笑った。
『マリカを男の人が尋ねて来るなんてこれまでになかったから、それにわざわざ日本からって言うし……』
壁に張り付いて聞き耳を立てたところで、日本語ほとんどわからないくせに。
そう言って笑うと、母は『そうなのよ、だから英語で話してくれないかなと思ってたところ』と言って屈託のない笑みを浮かべた。
母のせいで全身の力が抜けてすっかり緊張がほぐれてしまい、私は『あとでちゃんと紹介するから』と母を立ち去らせてから客間のドアを閉めた。
それからたっぷり二時間、祐樹さんと私はいろんな話をした。
あのときはこんなことを思ったとか、いつ好きだと気付いたとか、答え合わせのようにお互いの記憶を埋めあって、そして。
「いったん日本に戻って、それからまたこっちに来るよ。俺はあんまりこういうキャラじゃないんだけど、でも、次に会うときまでの『約束』がほしいな」
そう言って祐樹さんが私の唇にひとつ、その『約束』を落として行った。その『約束』はどんな言葉よりも雄弁に祐樹さんの気持ちを伝えてくれていて、混乱しどおしだった私の心に安寧をもたらした。
その約束とはまた違う、もっと幸せな『誓い』が落とされたのはそれから2年後のこと。ふたりで日本に帰国してすぐに、小さな教会で結婚式を挙げた。
「吹きすさぶ風から茉莉花さんを守る」
まっすぐに私を見つめながら紡がれたその静かな宣言に、どれほどの想いが詰まっているのだろう。
「風間」という言葉には二つの意味があるのだという。
風の絶え間と、風の吹いているとき。
そのどちらのときも、私はこの人の傍にいよう。
教会のステンドグラスの下で私は誓った。
「私も祐樹さんを守ります」
未来を信じ、肩を並べて歩いていく。
これからも、ずっと。
FIN
最後までお付き合いいただき、本当に本当にありがとうございました。
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