2 赤い紅
レストランの重厚な木の扉をボーイさんがゆっくりと開けてくれ、私は軽く会釈をしながらそこを通り過ぎようとした。
開いたドアの隙間から薄暗い店内に一筋の光が差し込む。
その光の中に足を踏み出そうとした瞬間、その光と共に「じゃあ私が悪いって言うの?」という声が流れ込んできたのを耳にして思わず身を引いた。
重厚な扉の向こうに彼女と廉が戻ってきている。
つまり、このまま出て行けば鉢合せをするということ。お祝儀と指輪を残して颯爽と立ち去るつもりだったのに。何てかっこ悪いんだろう。
私の考えていることがわかったのだろう。ボーイさんも目を泳がせ、摑んでいた扉を一旦閉じてくれた。
それでも、もたもたしていたら彼らが入ってきてしまう。
どうしよう、どうすればいいんだろう。
瞳の奥の方にずっしりと重い感じを覚え、後ずさった。
高いヒールのせいか、襲い来る眩暈のせいか、体が後ろにふらりとよろけたが、何か温かいものが肩を支えてくれたおかげでバランスを保つことができた。
「あっすみませ……」
誰かにぶつかったのかと思って慌てて謝りながら振り返ろうとしたら、「こっち」と背後で固い声がした。
その言葉を誰に放ったのか理解するより先に、私はその人に腕をつかまれていた。
「ちょっと失礼」
そう言ってその人は私の腕をつかんだままレストランの奥へと歩き出した。
ドアにほど近かった私たちの席を素通りしたところで、「ちょ、ちょっと」と言ったけれど、私の腕をつかんでいる女性は私に一瞥をくれることもなくずんずんと歩いて行く。そして「奥の個室に」と言って私をボーイに引き渡すと、くるりと踵を返した。
どういうことかわからず、その人を目で追おうとした私の視線を遮るように、女性は立ちはだかった。決して身長は高くないけれど、堂々とした態度のせいか随分と大きく見えた。
――ああ。
ふと気付いた。
彼女は、廉たちがレストランに入ってきても私の姿が見えないように、わざとそうやって立ってくれているんだ。
状況が全く掴めない中でたった一つわかったことは、今は彼女の言葉に従った方がいいのだろうということ。
「こちらへ」
背に宛がわれたボーイさんの手に促され、私はドアに背を向けた。
そして、私の耳にガラスが割れるような音と悲鳴が入ってきたときには、私はすでにボーイさんに案内されて個室の中にいた。
***************
「ごめんなさいね。手荒なことをする気はなかったの。腕をつかんだのはちょっとやり過ぎだったわよね」
廉たちの席からは死角になる奥の個室に通されたところでさきほどの女性が戻ってきた。
女性は驚くほど整った顔立ちをしていて、どこか色気が漂っている。
流れるような仕草で椅子に腰かけるその姿を見ながら首を振った。笑顔を浮かべたいけど、たぶんうまく笑えてはいないだろう。
「いいえ、ありがとうございました。鉢合わせたくなかったので」
「でしょうね。あの女性の話し相手もこれ以上したくないでしょうし」
「ええ……あの……でも、なぜ?」
「私たち、あなた方の隣のテーブルで食事をしていたのよ。ごめんなさいね。聞く気なんてなかったんだけど。あの女性、とても声が大きいじゃない? すごく不愉快だったの。だから連れと、個室に席を替えてもらおうって話してたのよ。そうしたらあなたがその……とても困っているようだったから」
「助けて下さったんですね」
見ず知らずの人に話を聞かれていたという恥ずかしさよりも、その人が自分を助けてくれたということがただ嬉しかった。
私の言葉に、女性は肩をすくめた。
「とっさにここに連れ込んでしまったけれど、彼らが帰るまでここから出られなくなってしまったわね。むしろ余計なことだったかしら」
すっと通った鼻筋。
決して大きくはないけれど、少し垂れ気味で、長いまつげに縁どられた印象的な瞳。
穏やかに細められてこちらを見つめる視線には、同じ女性でも思わずぞくりとしてしまうほどの色香がある。
そして、ぽってりとした唇にひかれた真っ赤なルージュ。
――こういう人に似合うんだなぁ。
ジャスミンレッドの口紅を塗りつけた自分がひどく滑稽な気がした。自分の唇を軽く噛んで口紅を舐め取りながら「いいえ。とんでもないです。本当にありがとうございます」と頭を下げた。
顔を上げると、女性は優しく微笑んでいた。私よりも五つくらいは年上だろうか。その微笑みには余裕と慈愛がこもっていた。
「申し遅れましたけど、わたし風間芹菜といいます」
そう言って女性はすっと右手を差し出した。
つやつやと輝く美しいネイルの施された細い指。
何もしていない自分の手をそっと差出し、その手を握る。彼女の手が暖かいのか、自分の手がひどく冷たいのかわからないが、痛いほどの温度差を感じた。
「須藤茉莉花です」
「まりかさん。どんな漢字なの?」
「ジャスミンの花の『まつりか』と書いてまりか、と」
「素敵なお名前ね」
「ありがとうございます」
セリナさんだって、素敵な名前。どんな漢字を書くんだろう。
心の中ではそう思ったのに、それを口に出すことが出来ないまま奇妙な沈黙ができてしまって、気まずさをごまかすために俯いた。
「えっ最後まで食べてないのに、お金全部取られるんですかっ!?」
沈黙を切り裂く大きな声に気まずさは消えたものの、新たな絶望感に襲われて、テーブルの下に隠れてしまいたくなった。
かをりさんの声だった。
私の分の料理の代金の話をしているのだろう。
私がすでに帰ったと思っているのだから仕方ないといえば仕方ないのか。
目を閉じて、襲い来る感情の波をなんとかして心の隅っこに追いやる。
何と名づければいいのか未だにわかっていない感情と向き合う元気はまるで残っていなかった。
「ふう」
静かな声が聞こえて顔を上げると、個室に男性が入ってきたところだった。
「あなたの分の料理もここに運んでもらうことになりましたよ。彼らには気付かれていませんから、ご安心を」
「ありがとうございます。ごめんなさい。二人のお食事にお邪魔してしまって」
「いえいえ。僕らのほうが巻き込んでしまったようなものですから。それにここの料理は絶品だそうですからね。どうせなら最後まで楽しんで帰らないと、もったいない」
そう言って男性は女性と同じように、流れるような所作で椅子に腰かけた。
「須藤茉莉花さんっておっしゃるんですって」
女性が私を紹介してくれ、男性はごつごつとした手を差し出した。
「風間祐樹です」
風間さん。
ご夫婦なのだろう。
美男美女でお似合いの二人。
今日は同じ苗字の二人組と食事を共にする運命なのだろうか。
だがさきほどの二人組との食事よりは格段に、こちらの方が平和そうだ。
不思議なものだ。かたや、幼いころからずっと一緒に育ってきた友人と、今日出会ったばかりの人。後者の方が楽なんて。
「私の弟よ」
芹菜さんによって付け加えられた情報に、なぜか胸をなでおろした。夫婦、と名のつく関係が私には少しまぶしすぎたせいかもしれなかった。
「あの……申し訳ありませんでした。私たち、騒がしかったですよね?」
食事が運ばれてきてからしばらく経って、勇気を出してそう聞いてみることにした。
さっきから二人とも私に気を遣ってか、廉たちのことには一切触れず他愛もない話で私を穏やかな気持ちにさせてくれていた。でも、私たちのせいで個室に移動しようと思ったくらいだから相当迷惑だったに違いない。
「騒がしかったのは一人だけよ。あの女性」
芹菜さんが心配そうに私の顔を覗きこみながらそう言った。
祐樹さんも、うんうんと頷いている。
「あなたはすごく静かだったし、レストランにいた客が皆拍手をしたくなるくらい天晴れな対応だった。誰かさんにも見習ってほしいくらいだよ」
祐樹さんがそう言って笑う。
「あら、嫌なこと言うのね」
芹菜さんも笑った。一瞬かをりさんのことを言っているのかと思ったが、そうではなかったらしい。
話がわからずに首を傾げると、芹菜さんが説明してくれた。
「私ね、つい最近ものすごーくかっこ悪いことしちゃったのよ。聞きたい? なんて、聞きたくないって言われてもしゃべっちゃうけど。ずっと好きだった人にね、彼女ができたって聞いて。その彼女に嫌味言っちゃったの」
「あれは嫌味なんてもんじゃないよ。嫌がらせ」
「あんなことが言いたかったわけじゃないのよ」
そう言って頬をおさえるしぐさは少女のようで、さっきまでの色っぽい雰囲気が嘘のようにとても可愛らしかった。
いいなぁ、こんな風に素直に自分の感情を表せたら。ぼんやりとそう思いながら芹菜さんの言葉の続きを待った。
「あのね、好きだった人ってね、すごく裕福なの。だから相手の女の子がお金目当てなんじゃないかと勝手に心配になっちゃって、それで余計なおせっかいを焼こうとして彼女に話しかけたのよ。そうしたら、びっくりするくらいあっけらかーんとした返事が返ってきて。その瞬間に、ああこの子はお金目当てなんかじゃないんだなって思ったらなんかモヤモヤしちゃってね。俗に言う嫉妬ってやつね。あれに焼かれちゃったのよ。本当に惨めだったわ」
「そうだったんですか」
それ以外に返事のしようがなくて、私は一言そう答えた。
こんなに綺麗な女性でも本当に失恋することなんてあるのだろうか。相手の男の目は曇っているんじゃないだろうか。
「彼に『彼女が良い子そうで安心したわ、よかったわね』って、そう一言告げれば何もかも平和に終わったのに、どうしてもそうできなかったの。無駄にプライドが高いのよね。悔しくて、負けを認めたくなくて、つい攻撃的なことを」
そう言って苦笑する芹菜さんの瞳にはほんの少しだけ涙が光っていて、胸が痛くなった。
もしかすると、その失恋からまだ立ち直れていないのかもしれない。
不器用な私が掛けるべき言葉を見つけられずにただただ頷いていると、芹菜さんは「聞いてくれてありがとう」と言って微笑んだ。
何か伝えたいのに、うまく言葉が出てこない。
私はいつもそうだ。
だけど、どうしても何か言いたかった。
「誰にだって、間違えることは」
絞り出した言葉はたったこれだけ。
だけど芹菜さんは目を見開き、「ありがとう。本当に」と言った。
私の方がありがとうなのに。
本当なら今頃、このホテルを飛び出して土地勘のない大阪の寒空の下を一人さまよっていたはずなのだ。
「私も茉莉花さんみたいになりたいわ。あんな人を目の前にして穏やかで大人な対応を取れるなんてね。私なら罵ってるわよ。それに、ワインぶっかけるくらいはしたかも」
芹菜さんの言葉に私は思い切り首を振った。
「私はすごく口下手で……言いたいことをまとめられないだけなんです。だから、そんな風に言っていただくようなことじゃないんです」
「あ、でもワインぶっかけるのは俺が代わりにやっといた」
ずっと黙って私たちのやり取りを聞いていた祐樹さんがそう言ったので、私は驚いて彼を見つめた。
「ちょっと足止めを食らわせるためにね」
祐樹さんはまるでそれがなんでも無いことのように言う。
個室に入る直前に聞こえたガラスの割れるような音は、どうやらその時の音だったらしい。
「ちなみに、赤ワインね。あー気持ちよかった」
彼らを足止めするためにしてくれたことだとわかってはいても、目の前の人が平然としているのが信じられなかった。
そんな私の顔を見て、切れ長の目がきゅっと細くなった。
「相手はわざとだなんて全然思ってないから平気だよ。男の方に掛けといたから女性に被害はなかったはずだし、ホテルのスタッフに頼んで新しいシャツを用意してもらうようにしたから彼がそれに着替えて一件落着」
「あの……でも……」
シャツの代金は、誰が払ったのだろう。
「細かいことはいいんだ。ワインぶっかけるって、ちょっとやってみたかったんだよね」
私の心を読んだように、祐樹さんは軽い調子でそう言った。
「ちなみに俺がワインぶっかけたとき、周囲のお客さんから拍手が起こりそうだったよ。もっとやれっていう空気に思わずもう一杯を検討したくらいだ」
あまりにも楽しそうに言うので、ワインをかけられて驚く廉の様子を想像して私も思わず笑ってしまった。
「ありがとうございます」
何度目になるかわからない感謝の言葉を述べながら、目の前に出された料理を口にして今日初めて「おいしい」と思った。
さっきまでは何も味がわからなかったから。
食べ物をおいしく食べられる内は、そして笑える内は、人はまだまだ大丈夫だって聞いたことがある。きっと、私は大丈夫。