27 甘い香り
芹菜さんは深夜になってようやく帰ってきた。
「おかえりなさい」
「ああ、茉莉花さん。ごめんなさいね、起こしちゃった?」
「いいえ」
「お通夜は明日で、明後日に告別式になったわ」
疲れた様子で玄関に座り込み、緩慢な動作で靴を脱ぐ。
それから体を反転させるようにして床に手をついて立ち上がる姿からは、いつもの太陽のような明るさはすっかり消え去っていた。
「お花とお供物の手配は終わったし、親戚にも連絡したし……ああ、宿泊場所をいくつか確保しなくちゃいけないんだった。ネットなら今の時間でも予約できるわよね」
立ち上がって居間に入り、サイドテーブルに置かれていたノートパソコンを起動する。
それからしばらく画面に向き合ってキーボードをたたく音が聞こえ、その音が途切れて芹菜さんがふうっと長い息を吐きながらソファに沈み込んだところで、隣にそっと腰かけた。
「ごめんね、バタバタして」
「いいえ、全然」
「祖父母が亡くなったときはまだ中学生だったから、ほとんど親戚がやってくれたの。だからこういうのって初めてで。悲しむ暇も無いものなのね。まぁ、これはこれでいいのかもしれないけど」
私はうなずいた。
「ここへは喪服を取りに戻ったのだけど……祐樹に少し眠って来るようにって言われたの。明日も明後日も忙しくなるからって。明日は母の傍で夜を明かすことになるだろうし。あの子も今頃少しは眠れているといいんだけど」
祐樹さんと芹菜さんは仲のいいご姉弟だと思っていたけれど、今になって思えばそれはきっと、ふたりでずっとこうして支え合ってきたからなのだろう。
「まぁ、とても眠れそうにないわね。体は疲れてるんだけど、妙に気持ちが高ぶっていて」
芹菜さんの言葉に、ふと思いついたことがあった。
「あの、ウイスキーありますか?」
「あるけど…ウイスキーを飲むの?」
「あの、そのまま飲むわけでは……眠れないときに、いい飲み物があるんです。」
「それを飲むと眠れるってこと?」
「はい。本当によく効くんです。あの、明日の朝何時に出かけますか? 私が必ずその時刻に起こしますから、飲んでみませんか」
芹菜さんはしばらく私の顔をじっと見つめてからゆるやかに頷いた。
「じゃあ、試してみようかしら」
ホットミルクに砂糖とほんのすこしのウイスキーを入れると、あたたかくて甘く、ほんのりと香ばしいにおいが湯気とともに立ちのぼった。
「あら、いい香り。ありがとう」
「昔私も眠れないときに作ってもらったことがあるんです」
消極的な性格のせいもあってか就職活動がなかなかうまくいかずに苦しんでいたときに、吉田のおばちゃんが作ってくれたのだ。「うまくいくときもいかないときもある! これ飲んでたっぷり寝て、起きたらまた頑張れ」と言って。
おばちゃんが青春時代にとても好きだった漫画に出てきたのだというその飲み物は、心の芯まで暖かくなるような優しい味がした。
「甘くて、なんだかホッとする味ね」
そういって芹菜さんはほほ笑んだ。
――どうか、少しでも心が楽になりますように。
そして翌日の夕方、ラルフとともにお通夜に参列した私は入口で参列者に頭を下げる芹菜さんの姿を見つけた。芹菜さんの表情は疲れていたけれど、どこか穏やかだった。あの飲み物のおかげで少し眠れたみたいだから、よかった。
ラルフも幾分ほっとした様子で芹菜さんを見守り、慣れない日本式のお通夜で粗相のないようにとお通夜の間中隅っこで静かに座っていた。
お通夜が滞りなく終わり散会になった後、芹菜さんの姿を探してどこかへ行ったラルフを待っていると、背後から声がかかった。
「須藤さん。ちょっといいかな」
振り向くと、倉持常務が立っていた。
まだ結婚式から1週間と少し、色々とお忙しいだろうに。
「祐樹、たぶん奥に居るから。様子見て来てやってくれる? あいつ多分寝てない」
小さくうなずいて斎場の廊下から裏手に回った。
常務の言葉通り、そこで斎場の人となにやら話しながら動き回っていた祐樹さんの顔には疲労が色濃くにじんでいた。
「祐樹さん」
タイミングを見計らって声を掛けると、祐樹さんは私の顔を見るなり口角をあげた。きっとこの人は、脊椎反射で脳を経由せずに笑うことができるのだ。
「茉莉花さんごめんね。渡航までもう数日なのに。姉貴のこと、ありがとう」
癖みたいなものなんだろうな。
人のことばかり心配するのが。
職業柄なのか、人柄なのか。
「何かお手伝いできることは?」
「もう十分だよ、本当に。あとは大体斎場の人がやってくれるしね。今夜は姉貴と俺で母親の傍についてることになったから、茉莉花さんは早くお家に帰ってゆっくり休んで。振り回して本当に申し訳ない」
そう言いながらも、祐樹さんは忙しそうに動き回っている。
いっそ、祐樹さんのやらなくちゃならない役回りを全部私が引き受けてしまえればいいのに。そうしたら祐樹さんはきっと、悲しむことに専念できるから。
そう思って何かできることはないかと辺りを見回した私の耳に、こわばった声が流れ込んできた。
「ここで何をしているんですか?」
紛れもなく目の前の人から放たれたその言葉は、先ほどまで聞いていたのと同一人物のものとは思えないほど冷たく、低かった。
「喪主を務めに」
背後から聞こえたその声に誘われるように、私は振り返った。
そこに立っていたのは壮年の男性だった。祐樹さんによく似た立ち姿をしていて、短く刈り込まれた髪の毛はほとんど真っ白だった。
二人の真ん中に立ってしまっている私はあわてて数歩わきにずれ、立ち去るべきかどうか迷ってまごついた。後から思えば、黙ってすぐにその場を去ればよかったのだ。そうできなかったのはたぶん、祐樹さんの顔が苦しげに歪んだから。
「お引き取りください」
完全な拒絶の言葉だった。
おそらくは、祐樹さんと芹菜さんのお父さんであるその人。三十年後に祐樹さんはこんな顔になるのだろうと、そう思うくらいによく似ていた。
「そういうわけにはいかないだろう。一応これでも風間の当主だ」
祐樹さんは口を半分くらいあけたまま、鼻でハッと息を吐き出した。
漏れ出したのは笑ったような音だったけれど、私の耳にはそれが悲鳴に聞こえた。
「姉貴の電話に連絡の一つも寄越さなかったあなたが、今更何をおっしゃっているんですか」
慇懃な言葉使いは、親に向けられたそれとは思えないよそよそしさだった。
「ちょうど出張で海外にいた。これでも日程を短縮して帰って来たんだ。とにかく、喪主はきちんと務めるつもりだ」
その瞬間、祐樹さんの顔色が変わった。
「ふざけんじゃねぇ、生きてるうちに来い!」
狭い空間に響き渡ったその声の大きさは、関係ない私の足まで竦むほど。
今自分の耳を通過したのは、本当に祐樹さんの声だろうか。
「だから、そうしようと思ったさ。少し間に合わなかったんだ」
男性の言葉は祐樹さんとは対照的にひどく落ち着いていた。
そのことが逆に祐樹さんのいら立ちを煽るのだろうということが、はたから見ていてもわかった。
「少し? 二十年の間違いだろう。死んで喜んでるやつに喪主なんかやらせねぇ。帰れ」
「祐樹」
「よかったな。やっと終わった。全部あんたのもんだ。何一つ失わずに欲しいもの全部手に入れたじゃねぇか」
「全部ではない」
「まだ何か欲しいもんあるのかよ。これでやっと結婚もできるんだし、もう十分だろう」
話し方は投げやりで、声は震えていた。
立ち去らなくちゃと思うのに、体が動かない。そのくせ耳だけは普段よりずっと敏感に音を拾い上げた。たとえばそう、祐樹さんが奥歯を噛みしめる音が聞こえるくらいには。
「祐樹もだろう」
「何がだよ」
「祐樹だってやっと結婚できるじゃないか」
ああ、いけない。
止めなければ、と思った。
だけど私の足は地面に根っこが生えたみたいに固まったままぴくりとも動いてくれなくて、私の代わりに祐樹さんを止めたのはそこに割って入った甲高い声だった。
「祐樹っ!!」
男性の襟首をつかんでいた祐樹さんの動きが凍りついた。
「……マイカ。なんで……」
マイカ、と呼ばれた女性は祐樹さんに駆け寄ってその左腕をつかんだ。
女性を目にした瞬間からすでに力の抜けていたその腕はあっさりと男性の襟から離れ、だらんと体のわきに垂れ下がる。
「人づてに聞いて」
それは祐樹さんの質問への答えだったのだろうけれど、祐樹さんの耳に届いたのかどうかは疑わしかった。
女性はゆっくりと体の向きを変え、壮年の男性に頭を下げながら言った。
「おじさま、覚えておられますか。ずっと以前にお会いしたことが。伊藤マイカです。このたびは本当に……」
「伊藤さん。すまないけど祐樹を頼むよ。私は斎場の人と話をしてくるから」
男性は穏やかな表情を崩すことなく、襟元を正しながら去って行った。
わたしはただそこに突っ立っていた。だけど一人だけ異空間にいるような、足元の地面が消えていくような、そんな気がした。
「祐樹」
静かな声が響く。
名前を呼んだだけなのに、二人の間には特別な関係があるのだとわかってしまう。
そしてもう、気づいていた。
芹菜さんとともに駆け付けた病院で、うわ言のように祐樹さんがつぶやいた名。
あれは私の名前ではなくて、この人の名前だったのだ。
行くな、と言った相手は私ではなかった。
「祐樹」
女性に促されて、祐樹さんはすぐ近くの植え込みの淵にそっと腰を下ろした。
「お母さんのこと、残念だったね」
女性は祐樹さんの目の前に立って静かに言った。
「……ああ」
そして次に何か言いかけた女性の声を、祐樹さんの低い声が遮った。
「ジン、元気か」
短い沈黙のあと、小さな声が答える。
「うん」
「そっか、よかった」
「祐樹……」
「マイカも」
「え?」
「マイカも元気で」
女性は答えなかった。
「ジンによろしく伝えてくれ」
その言葉が「さようなら」を意味することに気付かないわけはない。
祐樹さんは行かないでほしかったはずなのに。この女性に「行くな」と言いたかったはずなのに、その口で今、別れを告げている。きっと初めてではない別れを。
私が祐樹さんの代わりに「行かないで」と言いたくなった。
祐樹さんをこのまま一人にしないで。
女性がゆっくりと立ち上がった。
「祐樹も、体に気を付けて」
「ああ」
女性がくぐもった足音を立てて私の前を通りがかったとき、覚えのある甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「マイカ」
投げかけられたかすかな声に、女性の足音が止まる。
行くな、と、そう言うのだろうか。
自分がさっきそう望んだくせに、いざとなると言わないでほしい。
この説明のつかない気持ちが何を意味しているか、考えたくなかった。
わずかな沈黙の後に祐樹さんが言った。
「マイカに謝らなくちゃいけないことがあったんだ」
「なに?」
女性の目には涙があふれていた。
「小学生のときに全員リレーでさ。『もっと早く走れよ』って言ってごめん」
「そ……」
そんなこと、
声にならない声を上げて、女性は走るようにして去って行った。
ブランケットから漂った香りを纏う、マイカさん。
小柄で少しぽっちゃりとしていて、穏やかそうな女性。
いつだったか祐樹さんと話をしたときに言っていた、リレーの女の子。
その背中を見送ることなく俯いた祐樹さんは両手を組み合わせてそこに額をつけた。何かに耐えるように握りこまれた手がぶるぶると震えていて、それを見た私の足はようやく感覚を取り戻した。
私に言えることは何もない。
私にできることも何もない。
ただひとつ、わかったことがある。
祐樹さんが私に優しかったのも私の気持ちを誰より理解してくれたのも、そこに特別な感情があったからじゃない。
きっと、廉に裏切られて苦しむ私がお母さんと重なったのだ。祐樹さんが本当に守りたかったのは、お母さんだったのだ。私の話を聞いてくれたのは、それが彼の仕事だから。そうやってたくさんの患者さんの話を聞いて来たはずだから。
ラルフと一緒に電車に乗って家に帰りながら、私はぼんやりとそのことを考えていた。




