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風間に咲く花  作者: 奏多悠香
本編

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26 見つからない言葉

「父はね、私が中学生の頃に家を出たの」


 芹菜さんがぽつりと言った。


「もともと婿養子なのよ。風間は母の姓で、父が今社長を務めている会社は母方の祖父が作った会社なの。一人娘だった母が婿をとって、父は結婚の見返りに社長の座を得た」


 何かを話していないと平静を保っていられないのだろう。

 芹菜さんは窓の外を走る車のライトをその瞳に映し込んで、静かに語り続けた。


「それでも私たちが幼い頃はね、そこそこに仲のいい夫婦だったと思うのよ。お互いを尊重していたし、学校行事にも二人そろって来てくれた。そのバランスが崩れたのはね、父が浮気をしたせい」


 手のひらにじわりと汗がにじむ。


「母は父の浮気を許せなかった」


 それは――


「婿養子の立場で浮気なんて、バカよね。私は当時小学校の高学年だったけど、今でもよく覚えているの。祖父母は父をひどく責めた。まぁ仕方ないわね。そして母も父を責めた。当然よね。でも父は風間で居続ける必要があったのよ。すでに祖父は引退して、会社の経営は父が担っていたから」


 穏やかにほほえんでいるように見える芹菜さんの心の中がどれほどの涙を流しているのか、私には想像することしかできない。

 胸が痛い。

 本当に。


「それから家の中はぐちゃぐちゃだった。母は着飾って出かけるのがすごく好きな人だったのに、いつも泣いてばかりでぜんぜん出かけなくなった。身にかまわなくなって、髪もボサボサで。喚いたり怒鳴ったり、時には物に当たることもあったし、お酒におぼれたこともあった。たぶん、私は母とよく似てるの。だからわかるんだけどね、あの人は受け入れられなかったのよ。何不自由無く育って、愛情も物も、与えられて当然だったから。だから、自分がひどい形で裏切られたり傷つけられたりしたという事実を受け入れられなかった。それで心のバランスを崩したのね」


 壮絶な。

 それは壮絶な話で。


「父はそれでも数年間は母をなだめたりして一生懸命だったわ。祖父母と母に責め立てられ続けて、四面楚歌だったと思うのに。そこはある意味偉いと思う。まぁ自分が蒔いた種だけど。でも私が中学生のときに祖父母が相次いで亡くなったの。その頃から、父が家に帰る頻度が低くなっていった。そして、いつの間にか帰ってこないことが普通になったのよ」


 それじゃあ、芹菜さんと祐樹さんは……


「私も祐樹も誰にも言えなかったの。家がそんな状態だなんて。だって周囲はみんな幸せそうだったんだもの。もちろん、今になって思えばきっとどの家庭にもそれぞれ問題はあって、それをひとつひとつ乗り越えていったんだろうってわかるけど、当時は私も祐樹もまだ子どもだったから。そんな時にね、何も聞かずに私たちを暖かく見守ってくれた家族がいたの。それが真吾のおうち。倉持家よ。真吾と、真吾のイトコの貴俊が祐樹とすごく仲がよくて。だからきっと気づいていたのね、うちの異変に。そのころには母は家事なんて何一つやらなくなっていたから、わたしたちはいつもお惣菜なんかを買って食べていたんだけど。1つ作るのも2つ作るのも3つ作るのも手間なんて変わらないからと言って、私と祐樹の分のお弁当を作ってくれたり夕飯を食べさせてくれたりしたの。それもかなり頻繁にね。すごく嬉しかった。でも母は良い顔をしなくてね。うちの娘と息子を取らないでって倉持のおばさまに電話して怒鳴りつけたり、本当に参ったわよ。子ども心に恥ずかしくて」


 意外だった。

 こんなにも。

 私が母を拒んでいた理由なんて、この人たちからすれば滑稽に見えたのではないかと思うほど。


「だから祐樹は心療内科を選んだんだと思う」

「……心療内科?」

「ええ。話したこと、なかったかしら」


 聞いたことはなかったと思う。

 祐樹さんがお医者さんだと知って、何となく内科だとか外科だとかそんな感じを想像していたけど、心療内科だったんだ。


「母の心の病気を治したかったのかな、なんて。祐樹は高校生になるころには絶対に会社は継がないで医者になるって言ってた。きっと父への反発もあったと思うのよ。父は母を見捨てたわけだし。祐樹はそういうことを話さないから、本当のところはわからないけど」


 タクシーが滑るように止まり、私は言葉を見つけられないまま芹菜さんを病室まで送り届け、病室からほど近い待合室のベンチに座っていた。

 私が病院に居たって何ができるわけでもない。

 それに、ご家族のことにこれ以上踏み込むべきではないのかもしれない。

 祐樹さんは決してご家族のことを話したがらなかったのに、すでに私は十分すぎるほど聞いてしまっているような気がする。

 そんな風に思ったけれど、一方で何かの時にすぐに動ける人間が一人いるのは便利かもしれないという気もして、結局どうしたらよいか決められないまま明け方までまんじりともせずその場所に腰掛けていた。

 猛烈な眠気に襲われたのは、ちょうど窓の外からうっすらと光が差し込んできたくらいの時間帯だったろうか。

 壮行会でいつもよりたくさんお酒を飲んだせいもあってか、瞼が重く重くなってくる。あわてて目をこすってみたり伸びをしてみたりと何とか眠気を払おうともがいてはみたものの、結局私は睡魔につかまってしまって、たぶん小一時間寝入っていたのだと思う。

 目が覚めたら体に大判のブランケットが掛かっていた。

 そのブランケットには見覚えがあったし、嗅いだことのある甘い香りが漂ったので、すぐにそのブランケットを掛けてくれたのが誰だかわかり、私はあわてて跳ね起きた。


「目が覚めた?」


 後ろから穏やかな声がかかった。

 振り返ると、祐樹さんが両手に飲料缶を持って立っていた。


「ちょうどよかった。飲み物を買ってきたところなんだ。温かいココア。よかったらどうぞ」


 また下手な笑顔を浮かべて、手に持った飲み物を差し出してくれる。


「ありがとうございます……あの、お母さんは……」


 缶を受け取りながら尋ねると、祐樹さんはうなずいた。


「とりあえずは落ち着いたよ。今は姉貴がそばについてる」

「そうですか、よかった」


 安堵で涙がこぼれそうになった。


「ごめんね、茉莉花さん。疲れてるだろうに。姉貴のこと、ありがとう」


 祐樹さんはこれまで見たことがないくらい疲れ切った様子でそう言った。眼鏡の奥の目はすっかり落ち窪んで額には脂汗が浮いているし、ワイシャツの襟がよれて斜め上を向き、ネクタイは緩んで歪んだまま首からかろうじてぶら下がっているような状態だった。

 そのまま祐樹さんはベンチを回り込み、私の隣に腰を下ろした。

 そしてこちらを見ることなく言った。


「渡航の準備は順調?」

「あ、はい。母の家に住みますし、準備っていう準備もそんなになくて」

「そっか。あっちに行くのは4月の半ばって言ってたよね」

「はい」

「お父さん、寂しくなるだろうね」

「はい、あ、でもラルフもいますから」

「そっかそっか。ラルフが一緒に住んでるもんね。それなら安心だ」

「はい」


 そんな会話を続けながら、私は祐樹さんの表情をじっと観察していた。


「お母さんの家に住むってことはアーバインでしょう? いいなぁ、カリフォルニア。俺も行きたいな。久しぶりにホームステイのホストファミリーにも会いたいし」


 ほら、祐樹さんはよくしゃべる。

 辛い時に。


「なんだかんだで高校以来海外行けてないからなぁ。日本に縛り付けられてたから」


 その言葉の意味が何となくわかったような気がして、私は答えられずに祐樹さんの横顔を見つめた。切れ長の瞳にすっと通った鼻筋。顔立ちだけを取ればどこか冷たい印象だけど、いつだってその顔には穏やかな笑顔が浮かんでいた。少なくとも、私の知っている祐樹さんはそうだった。


「ああごめん、変なこと言って」


 穏やかな顔はすっかり崩れ、祐樹さんはまるでそこに太陽があるみたいに眩しそうな表情で天井を仰いだ。

 私は黙ったまま首を振った。

 そんなのは、いいのだ。

 どんなに変なことを言われようが、全然かまわない。

 気にするなと言われるなら気にしないし、忘れろと言われれば忘れるし。

 それより、祐樹さんのこういう表情を見ているのがつらい。

 無理矢理笑ったみたいな、不自然にしわの多いこの表情が。


「姉貴が……色々話したんだってね。重い話を聞かせてしまってごめん。茉莉花さんにとって節目の大切な日だったはずなのに」

「いいえ。私の方こそ、立ち入ったことを聞いてしまった気がして……」

「いや、全然いいんだ。ただ、聞いて愉快な話じゃないから。ごめん」

「そんなの、そんなことは。だって、私だって」


 私は幾度となく祐樹さんに話を聞いてもらった。

 愉快でない話をたくさん。

 芹菜さんにだって。

 一緒に暮らしている中で、どれだけ慰めてもらったことか。

 そういうのをうまく伝えたいのに、どうしてもぴったりな言葉が見つからない。

 見つけられないまま下唇を噛んでいたら、祐樹さんが座ったままゆっくりと前かがみになった。思わずと言った様子でその口から出た深いため息が、どうしようもなく苦しそうだった。


「なにもこんな日でなくてもね。せめてあと一日待ってくれれば」


 その言葉に私はハッとした。

 祐樹さんに言われるまですっかり忘れていた。

 そうだ。

 日付がすでに変わった土曜日。

 今日は、倉持常務と奥様の結婚式の日だ。

 とうに入籍を済ませているお二人だけど、招待する人の都合などもあって式が随分遅くなったのだと、常務ご本人が笑っていた。


「あの、祐樹さん……」


 どうするのだろう。


「出るつもりだよ。式も披露宴も。俺は二次会の幹事だし」

「あの、でも……」

「こんなときに、と俺も思うよ。姉貴にもさんざん言われた。でも一応母親は持ち直したし、仕事もあるからどのみち四六時中張りついてるわけにもいかない。何より、ほかの誰でもない真吾の結婚式だから」


 祐樹さんはそう言ってから、額にかかった前髪を手で後ろに流した。

 私はまた何も言えなかった。


 ――ほかの誰でもない、真吾の。


 芹菜さんの話を聞いた今、祐樹さんにとってその存在がどれほど大切なのか、わかるから。


「欠席ってなったらその理由も説明しなくちゃならないし、そしたらあいつは結婚式をぶっちぎってでも飛んで来かねない。あいつの家族もね」


 祐樹さんだってお母さんのそばにはついていてあげたいのだろう。

 だけど、常務の結婚式を台無しにしたくはないのだ。


「姉貴は二次会だけ参加する予定だったけど仕事を理由に欠席することになった。二次会なら人数の変動もそれほど問題にはならないしね。だから姉貴がついててくれる。大丈夫だ」


 祐樹さんはたぶんこの話を私にしたかったわけではないのだと思う。

 そうじゃなくてきっと、こうやって自分に言い聞かせているのだ。

 大丈夫だ、と。 

 だから私はただ黙ってうなずいた。

 どのくらい経っただろうか。

 沈黙の中で聞こえる祐樹さんの呼吸がゆっくりとしたものに変わるまでに。

 音をたてないようにゆっくりと首を回して祐樹さんの方を見ると、祐樹さんはさきほどの前傾姿勢のまま穏やかな寝息を立てていた。

 常務の披露宴で流すVTRや二次会の準備などでこのところ走り回っていると芹菜さんが言っていたから、その疲れもあったのだろう。そこにきてお母さんのことで一晩中起きていたのだから、疲労は限界に達しているはずだ。

 どうしようかな。

 私はブランケットにくるまったまましばらく考えていた。

 病院の外来診療の開始までまだ数時間はあるはず。

 それまではベンチで寝ていても誰にも迷惑はかからないだろうから、祐樹さんはここで少し休んだ方がいいのだろう。常務の結婚式が何時から始まるかわからないけれど、そんなに朝早くからということはないだろうし。

 祐樹さんが休んでいる間に私にできることは何かないだろうか。

 そう思った瞬間に自分のお腹がぐぅと音を立てたので、私の心は決まった。

 コンビニでみんなの朝ごはんを調達して来よう。

 こんなときこそちゃんと食べて、体だけは元気でいないと。

 そう思ってそっと立ち上がり、自分の体にかかっていたブランケットを祐樹さんの肩にかけたときだった。


「ま……ぃか……くな……行くな」


 腕をとられ、心臓が跳ね上がった。

 私が反射的に身を引いたのとほとんど同時に祐樹さんが顔を上げて目を開け、そして驚いた表情を見せた。

 私を見、私の腕をつかんでいる自分の手を見、そしてあわてたように手を離す。


「ごめんっ」


 珍しく焦った様子でそう言った後、祐樹さんは額に手を当てた。


「あの……朝ごはんを買いに行こうと思って」


 まだ痛いくらい跳ねる心臓の動きを誤魔化すように言うと、祐樹さんは充血した目を閉じた。


「俺今……なんか言った?」

「えっいいえ」


 私はとっさに嘘をついた。


「そっか」


 祐樹さんの透き通るような瞳が私を見つめていて、嘘をついたのはすっかりバレているような気がした。でも祐樹さんはそれ以上何も聞かなかった。


「何か食べたいものはありますか?」

「ああ、いいよ。コンビニなら俺行くよ」

「祐樹さんは少し寝てください。私はちょっと寝て元気になりましたから。こんなときくらいは甘えてください」


 よほど疲れていたのだろう。祐樹さんはそれ以上抵抗することなく「ごめん、ありがとう」と言った。その声に噛み殺しきれなかったらしい欠伸が混じっていて、心がどうしようもなく痛くなった。


「姉貴はおにぎりが好き。シャケの」


 再び眠りに落ちる直前のぼやけた声でそう言われ、なぜか涙がこぼれそうになった。

 眠っている私にわざわざ車から取って来たブランケットを掛けてくれて、一番初めに口に出すのは私を気遣う言葉。

 何よりも常務の結婚式のことを気にして。

 自分が食べたいものじゃなく、芹菜さんの好きなものを言う。

 病院の救急用出入り口から外に出て、コンビニを探して歩き出した。

 春とはいえ、朝はまだ冷え込む。

 肩をぶるりと震わせながら、人通りのほとんどない道に足音を響かせた。

 祐樹さんはあの時、何と言ったのだろう。


 ――ま……ぃか……くな……行くな


 祐樹さんの声が脳裏によみがえった。


 ……私の名前を、呼んだ……?


 きっと気のせいだと思いながらも心臓はどうしても言うことを聞かなくて、私は繰り返し繰り返し、深呼吸をした。

 二人のお母さんが亡くなったのは、それから1週間後のこと。

 季節外れの雪が降った、ひどく寒い日の朝だった。




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