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風間に咲く花  作者: 奏多悠香
本編

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25 がんばれ

 翌朝私はいつもどおりの時間に目覚め、いつも通りに会社へ行った。

 そしていつもどおりに仕事をした。

 なつかしいなぁ。

 瞼をぶよぶよに腫らして会社へ来たあの日。

 トイレで泣いたり、顔を洗ったり。


「課長、お話したいことがあります。いつか少しだけお時間をいただけますか」


 終業を待って課長にそう声を掛けると課長は意外そうな顔をした。


「なんだ、悩み事か」

「いいえ」

「そうか。どっちがいい、飯でも食いながら話すか、これから空き部屋で話をするか」

「これからお話しても? 長くはかかりませんから」

「おう」


 連れだって小さな会議室に行き、並んで椅子に腰かけた。

 課長はいつものように机に肘をついて、組んだ手の上に顎を載せる。


「で?」

「仕事をやめようと思います」


 すでに決めていたその台詞を口にすると、課長は一度大きく息を吸って、それからゆっくりと吐き出した。


「理由は?」

「一身上の都合です」

「そんな書類上の理由はいい。そうじゃなくて」


 課長の声は硬かった。


「アメリカに行こうと思います」


 随分と予想外な答えだったのだろう。

 課長の背がすっと伸びた。


「アメリカ?」

「はい」

「いつだ」

「時期はご相談して決めようと思っていましたが、一応三月末ならキリがいいのかなとは思っています」

「三月末ってあと一か月ちょいか。キリはいいけど、随分急だな」


 そう言ってから課長は机の上にのせていた肘をおろし、椅子の背もたれにどんと背を預けた。そして腕を組み、目を閉じる。


「引き留めても無駄か」


 続いた言葉に驚いた。

 一生懸命に仕事をしてきたけれど、私の仕事は決して私にしかできないような仕事じゃない。だから代わりなんていくらでもいると、そう思ってきた。

 引き留めるという言葉が課長から出るなんて。


「単調な仕事でも須藤くらい手を抜かずに一生懸命やれる人間はそう多くないからな。それに、単調な作業の繰り返しの中でちゃんと少しずつ効率のよい方法を見つけてきただろう? 俺はそういうところを、結構買っていたんだ」


 課長はコツコツ頑張っていることを評価してくれる人だった。だけどそれは、目覚ましい活躍を遂げることのできない私に向けられた、慰めのようなものだと思っていた。


「ありがとうございます」


 ほかに言葉が見つからなくて、ただお礼を言った。

 仕事を好きだと思ったことはない。嫌いだったということではなく、好きでも嫌いでもなかった。職場の人はみんな優しくて恵まれた環境だと思っていたし、仕事ぶりに対して十分すぎるくらいのお給料をもらっていたと思う。だから感謝はしていたけれど、私にとって仕事はお給料をもらうための手段で、それ以上でもそれ以下でもなかった。


「本当にありがとうございます」


 私を認めてくれて。

 課長はちいさくため息をついた。


「須藤は頑固だからな。もう決めているなら、引き留めても無理だよな」

「そう……ですね」


 課長にも頑固だと思われていたなんて。

 仕事ではそんなに出ていないかと思っていたけど。

 そう思って私は忍び笑いを漏らした。

 私は自分が思っているよりずっとわかりやすい人間だったのかもしれない。

 感情が表に出にくいなんて、自分で思っていただけで。


「んで? アメリカに行くっていうのは、おめでとうと言って送り出せばいいのか?」


 課長が口の片側だけを持ち上げて言った。


「おめでとう……?」

「結婚じゃないのか。相手の男がアメリカに赴任するとか」


 そっか、職場の人は誰も知らないんだった。


「長い間付き合っていた人とは1年以上前に別れましたし、今はお付き合いしている人はいません」

「あ、そうだったのか。なんかすまん」

「いいえ。もう吹っ切れていますから」


 本当の意味で吹っ切れたのはつい昨日のことだけど、でもその言葉はすんなりと口にできた。強がっているわけではなくて、本当に穏やかな気持ちで。


「で、なんでアメリカなんだ」

「向こうでやりたいことがあって」

「やりたいこと? 日本にいたらできないことか」

「日本でもできるかもしれませんが、向こうに母が居て、母の仕事が私の憧れの職業なので」

「そうかそうか。それで、おふくろさんのところで修行したい、と」

「はい」


 昨日家に帰ってから何気なく開いたメールは、私が資格試験に合格したという知らせに対する母からの返信だった。


〈こっちに来て私たちと一緒に働いてみない?〉


 あまりのタイミングにびっくりはしたけれど、不思議と頭は冷静だった。アメリカに行って母の下で勉強をする自分の姿が容易に想像できたから。

 そして、新しい一歩を踏み出す決断を下すのにこれほどふさわしい日は無いような気がした。

 だから私はたった一言、”Yes”と書いた。


「仕事もそうですけれど」


 課長が顔を上げた。


「人間的にも、まだまだ修行が足りないと思って」


 そう言うと課長は小さく微笑んだ。


「そうか。じゃあ、送り出す言葉は『がんばれ』がいいか」

「そうですね」

「おし、じゃあ、がんばれ。時期は三月末でいいよ。正式な書類、早いとこ出せよ。それと、壮行会やるから三月の予定早めに教えろ」


 送別会でなく、壮行会。

 本当にいい上司を持った。


「わかりました。ありがとうございます」


 ほーい、と軽く言った課長は立ち上がって、会議室のドアを開けてくれる。

 その背中を見ていたら急に去り難い気持ちに襲われて、ああ私は自分が思っていたよりはこの仕事が好きだったのかもしれないと、ぼんやりとそう思った。

 忙しい日々が過ぎるのは本当に早くて、渡航の準備やお世話になった人への挨拶など、ばたばたしていたらあっという間に三月も末になっていた。

 最後の出社日の仕事終わりには課長たちが壮行会を開いてくれて、思いもかけない人から「実はちょっと好きでした」と言われてちょっとって何だろうと笑ってしまったり、ひょっこりと顔を出した倉持常務から「がんばってね」と言ってもらったり。大切な思い出がひとつひとつ増えていった。

 深夜にやっとお開きになって家に帰り、芹菜さんを起こしてしまわないようにゆっくりと鍵を回して玄関を開けると、意外なことにまだ居間の電気がついていた。腕時計を確認すると、すでに時刻は午前一時を回っている。肌のためにと夜更かしをしない芹菜さんが珍しい、と思いながらドアを開けると芹菜さんの充血した目が私をとらえた。


「あ、茉莉花さん、おかえりなさい」

「芹菜さん……? どうされたんですか?」


 ただごとではない、芹菜さんの様子からそう感じ取った私の頭はすっかりアルコールを吹き飛ばして、すぐに芹菜さんに歩み寄った。


「ああ、平気なの、ちょっと今から出かけなくちゃならないけど」

「お出かけ、ですか?」


 行き先を聞かない方がいいのだろうか。

 そう思ったけれど、携帯を持つその細い手がぶるぶると震えているのを見て、私はすぐに芹菜さんの背中に手を回した。そしてそこをさすりながら問う。


「あの、私も行きましょうか?」


 芹菜さんからの答えはない。じっと携帯を見つめたまま、何かを待っているようだった。


「芹菜さん?」

「……え?」


 私の言葉がまるで聞こえなかったみたいに、芹菜さんは目をしばたいた。

 これは、私も行かなくちゃ。


「芹菜さん、私も一緒に行きます。外、まだ寒いですから。コートを」


 芹菜さんの部屋に入ってすぐに目に入ったコートを手に取り、それを芹菜さんの肩に掛けた。暖かそうな毛皮が首の周りにたっぷりとついたコートなのに、それを身に着けてもなお、彼女の唇は紫色だった。


「芹菜さん、貴重品はこのかばんの中に?」


 タクシー会社に電話をして配車を頼んでから、芹菜さんのカバンを持って部屋を出る。芹菜さんはほとんど言葉を発しないまま震えていて、何かただごとじゃないことだけが伝わってきた。


「行き先は?」


 芹菜さんがタクシーの運転手さんに行き先として指定したのは、祐樹さんがお勤めしている病院だった。


「母が、危篤だって」


 芹菜さんは小さな小さな声で言った。

 声が出なかった。

 どんな言葉を掛ければいいのかわからなくて。

 祐樹さんの病院。

 凜のお見舞いに行ったあの日、祐樹さんもお見舞いに来たのだと言っていた。

 もしかしてそれは、お母さんのことだったのだろうか。

 あの日の祐樹さんの表情を思い出して、胸がひどく傷んだ。


「ずっと具合はよくなかったんだけどね」


 芹菜さんはそう言って震える手で口元を抑えた。


「あ、芹菜さん、電話が」


 芹菜さんの携帯電話が着信を知らせて小さく震えている。


「はい、祐樹? うん、いまタクシーに乗ったところ。平気。ごめんね、ちょっと出るのが遅くなって。うん、大丈夫。茉莉花さんがちょうど、うん。あの人にはさっき電話したけど、出なかったの。うん……ああ、そうね。そっちにも掛けてみる」


 芹菜さんは電話を切るなりすぐにどこかへ電話を掛けた。

 耳に携帯電話を当てたまま、芹菜さんは口元を抑えてじっと待っている。電話の相手はすぐには出ないようだ。その沈黙がいたたまれなくて、私は窓の外を見た。

 どうか、どうか間に合って。

 タクシーがもっと早く走ってくれればいいのに。


「もしもし、芹菜です」


 芹菜さんがそう言ったので電話が通じたのかと思ったけれど、すぐにその口調から、相手が留守電だということに気付いた。


「祐樹から連絡をもらったの。彼女が危篤だそうです。このメッセージを聞いたらできるだけ早く連絡をくれますか? 私は今病院に向かっています」


 随分と事務的な。

 電話を切るなり芹菜さんは私に向かってふわりとほほ笑んだ。


「父なの。両親はもう随分長いこと別居してるけど、最期くらいは会えないものかしらね」


 事も無げにそう言った芹菜さんに、どんな言葉をかけてよいかだけでなく、どんな顔をすればよいかわからなくなった。こんなとき、気の利いた言葉の一つでも言えれば。

 でも、どんなに器用な言葉を言えたとしても、きっと彼女を楽にすることなんてできないのだろう。

 それだったら、言葉なんていらないのかもしれない。

 きっとそうだ。

 そう思って、私はただ芹菜さんの横にぴったりと座って、その肩に手を回した。

 よかった。

 人より少し大きな肩幅と、人より長い腕。

 芹菜さんを包み込むのに十分な自分の手が、今は少し誇らしかった。

 車の通りも少ない深夜の街を、タクシーはひたすら静かに走り抜けてゆく。

 がんばれ、タクシー。

 がんばれ、ふたりのお母さん。




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