24 月と星
今、廉は何て?
――俺の子じゃない
子って、かをりさんの?
私があの日病院に運んでそして生まれたその赤ん坊のことだろうか。
それ以外にありえないというのに、混乱した頭の中には次々と疑問符が浮かんでは消えた。
その子が廉の子どもじゃない?
一体どういうことなのだろう。それをなぜ私に言うのだろう。そして私は、それを聞いてどうなるのだろう。どうなってしまうのだろう。私の1年は。
聞かない方がいいんじゃないだろうか。その方が私は穏やかな気持ちでいられるんじゃないだろうか。
いや、違う――
力の抜けた足に心の中で喝を入れながら、私はゆっくりと顔をあげた。
ここで逃げ出したとしても、私はきっとこの言葉の意味を気にして後ろを振り返ってしまう。それなら、聞いてしまった方がいい。
母の時だって、向き合ってわかったことがたくさんあった。向き合わなければ、私はこの場所から動き出すことができない。力の抜けた足のままここにとどまることになってしまう。次の一歩を踏み出すためには。
私は黙ったまま廉を見つめ、それから近くのベンチに腰を落とした。
廉もほっとした様子で私の隣に座る。
肩が触れてしまわないように、ベンチの端と端、真ん中に空間を残して。
「……どういうこと?」
私の問いかけに、廉はゆっくりと口をひらいた。
廉の話はわかりにくかった。
廉自身が混乱しているのだろう。
時折頭をぐしゃぐしゃにしたり、空を仰いだり。
その空ではまん丸い月が私たちを見下ろしていて、ふいに”Lunatic”という英単語を思い出した。昔の人は、月が人を狂わせると信じていたという。それはもしかすると、本当なのかもしれない。
そんなことを考えているうちに私の頭はどんどん冷静になっていって、廉の話を聞き終わるころにはすっかり落ち着いていた。
「じゃあ、ずっと浮気をしていたわけではなかったんだね」
朝には親子連れがやって来てここでお弁当を食べたり、遊んだり。お昼にはサラリーマンが休憩にやって来て、夕方になるとカップルが語らう。
そんな場所にまるで似つかわしくない問いかけに、廉が小さくうなずいた。
廉とかをりさんは、職場の同僚だったのだという。
廉が仕事で大きな失敗をした日、仕事帰りに同僚と飲みに行って深酒をして、目が覚めたらかをりさんの家にいた。何があったのか、何もなかったのか、廉は何一つ覚えていなかった。
それからしばらく経って、かをりさんから妊娠を告げられた。
廉は悩み抜いた末に、結婚という選択肢をとった。
会社の同僚というかをりさんとの関係、男としての責任、養育費、さまざまなことが頭をよぎったのだと廉は言った。
絞り出すような、蚊の鳴くような声で。
「茉莉花に話そうって、何度も思った。でもどうしても、言えなかった。小さい頃から俺のあとをついて回る茉莉花がかわいくてたまらなかった。赤ちゃんのころから俺をずっと信じてくれてた茉莉花に軽蔑されるのが怖かったんだ。だからどうしても言い出せなかった。バカだよな、いずれ話さなくちゃいけないことなのに。どうせ軽蔑されるのに」
そして最近、高熱を出した子どもが病院で血液検査を受けることになり、そのときについでに血液型を調べてもらったのだという。
それが、メンデルの法則にしたがえば「ありえない」結果だった。
人間の場合にはその法則性がかならずしもあてはまるとは限らないのだと自分に言い聞かせながら家に戻り、かをりさんに血液型のことを話した。
かをりさんは震えた。
廉が問いただすまでもなく、かをりさんは自ら話し始めた。
父親かもしれない人は、もう一人いたのだと。
そしてその相手は、結婚をのぞめないひとだった。だから廉が父親だと信じたかったと。
「子供が生まれたときに、その顔がおれよりもその相手に似てると思って、それでかをりは……」
うすうす、わかっていたのだと。
私はそれ以上かをりさんの事情を聞かなかった。
私が知る必要のないことだと思ったから。
ただ、「廉はずっと浮気をしていて、私はバカみたいに廉を信じていて……そんな風だったのかと思っていたから、そうじゃなくてよかった」
そう言うと、廉はまたうなずいた。
陰で笑われていたのかな、とか、そんなことを思ったこともあったから。
そうではなかったのだ、ずっとだまされていたわけではなかったのだ、とわかってよかった。
よかった、そう、よかったのだ。
なのにどうしてかちっとも心が晴れなくて、私はどうしてだろう、と考えた。
そして、ようやく見つけた。
もやもやの原因を。
そうだ。
「どうして大阪に私を呼んだの? どうして身重のかをりさんをつれて吉田家に?」
廉に裏切られたとか、妊娠とか結婚とか、それだってショックじゃなかったわけではない。
みじめだったし、悲しかったし。
でも本当に苦しかったのは、全く理解できなかったことだ。
幼い頃からずっと一緒に育ってきて、お互いの考えが手に取るようにわかるはずだったのに。廉の考えていることがあの日を境に何一つわからなくなった。
なんで、どうして。
何度そんな風に思ったか。
進んで私を苦しめようとしているのかと思えてくるほど、わからなかった。
「それは……」
廉の表情から、次に続く言葉が分かった。
私を大阪に呼んだのも、吉田家に戻ってきたのも、かをりさんがそれを望んだから。
「かをりさんがそうしたいって言ったのはわかるよ。でも、廉には断るっていう選択肢が」
あったんじゃないの?
そう言おうとして、私はその選択が決して容易なものではないのだと気づいた。
いつだって私たちにはたくさんの選択肢が用意されているけれど、それらは決して平等なわけではない。困難なもの、容易なもの。容易な方に流されてしまうのは、私だけではないはずだ。
断ればかをりさんは泣いたかもしれないし、怒ったかもしれない。
そういうのを全部廉が引き受けるのは、廉にとって困難な選択肢。
結婚に至る経緯を知ったいまは、その気持ちが少しわかる気がした。
「板挟みだったんだね」
職場の同僚、男の責任、一夜の過ち
自分とはまるで関係ない世界みたいなキーワードがいくつも頭の中を流れていった。
だけどね、廉。
板挟みの苦しさはね、廉。
きっと、
「俺が背負うべきだったんだな」
廉が言った。
――たぶんね。
そう思ったけど、私はうなずかなかった。
「なのにそれを茉莉花に背負わせた」
「私だけじゃないよ。おじちゃん、おばちゃん、それに凛も」
この先ずっと夫婦として生活していくかをりさんと、私。かをりさんは妊娠していて、廉はその責任を感じていて。そんな状況の中でせまられた選択。
吉田のおじちゃんが言っていた「甘えてしまった」という、あれと同じことを、廉も考えたのかもしれない。
兄妹みたいだった私と、かをりさんと。
廉は結局、その一方の道を選んだのだ。
「俺は本当に……」
廉はそう言ったきり頭を抱えて震えていた。
「酔った上での過ちなんて珍しくない」と、そう笑っていたのは誰だっただろう。大学時代の友人だったろうか。
仕事の悩みを話していて飲みすぎることもあるだろう。
想定外の妊娠だって、巷ではそこかしこにあふれている。
そこに転がっているそれぞれの話は、どこにだってあり得そうな話なのに。
全部合わさると、信じられないような話が出来上がる。
もう一度月を見上げてから、私はすっとベンチから立ち上がった。
そして二歩、前に出た。
それから廉を振り返る。
肩を丸めた廉は地面を見つめていた。
「どうして吉田家の前で会ったとき、声を掛けたの?」
久しぶり、なんて。
まるで何事もなかったかのように。
廉の肩が一度持ち上がって、またぐっと下がった。
それから顔をあげた。
その目に月が映り込む。
「一瞬本当に錯覚したんだ。俺の家の前で、茉莉花がいて。何もかも元に戻ったような感覚に一瞬襲われた」
もとに、もどる?
「時間が巻き戻ったらいいのにって、何度思ったかわからない。あの日、茉莉花が目の前にいて、時間が巻き戻ったような気がして。全部が元に戻るような。ほとんど無意識に声を」
廉の顔はくしゃくしゃだった。
「巻き戻ったら、巻き戻ってくれたら、戻れるなら」
廉の口からその言葉が何度もこぼれた。
ああ、そうか。
何もなかったみたいに話しかけてきたんじゃなくて。
この人は、何もなかったことになってほしかったんだ。
時間が巻き戻ったら。
廉のその願いはかをりさんにも伝わってしまっていたんじゃないだろうか。
かをりさんは不安だったんだ、きっと。
お腹の子の父親がどちらか定かじゃない。
でも廉じゃないと困る。
捨てられたら困る。
なのに、隣にいる人はずっと、時間が巻き戻ることを望んでいて。
不安だったんだね。
だからきっと。
わざわざ私を大阪に呼び出したのだ。
わざわざ吉田家にやって来たのだ。
不安定に積み上げられた石の上に立っていることを、彼女が誰よりわかっていたから。積み上げた石を突き崩されることを、きっとずっと恐れて。
「かをりと子どもの話をして、俺はもうどうしたらいいかわからなくて。ちょうど仕事でこっちに来て、どうしようもなく茉莉花に会いたくなった」
会いたくなった、というあまりにも身勝手なその言葉に、私の心が一瞬奇妙に揺れた。そしてその揺れを最後に、私の心からは重いものが消えていた。
――バカ廉。
「私は嫌だよ」
気付いたら、そう呟いていた。
時間が巻き戻るなんて嫌だ。だってそこにはいないから。
芹菜さんも、祐樹さんも、ラルフも、母も。試験の合格証を前に喜ぶ私も、ポスターの中で硬い表情を浮かべる私も。巻き戻ったら全部なくなってしまう。
「私は巻き戻ってほしくない。この1年と数か月で大切なことをたくさん学んだから」
無駄ではなかった。
あの日大阪に行かなければ、私は芹菜さんと祐樹さんに出会うことはなかったし、母と会う気にもならなかったかもしれない。すべてが連なっていて、何一つ無駄じゃないんだ。
そんな風に思える私はきっと、幸せだったのだ。この1年。
さらに一歩ベンチから離れてから空を見上げると、月は笑っていた。
――まりかはオレが守る
まだ小学生のときに廉が言った言葉がふいに空から降ってきた。
「廉、忘れないで」
「え?」
「どうして廉が私を守りたいと思ってくれたのか。小さいころ、どうして私が寂しかったか。どうして泣いていたのか」
そしてまた一歩、ベンチから離れる。
ヒールで掘り返された土は、雨が降れば自然に元に戻るだろう。
たけど元に戻らないもののほうが、ずっと多い。
「廉」
振り返らずに声を掛けた。
この名をまた呼ぶ日はもう二度と、来ないかもしれない。
「さようなら」
その言葉を吐き出した瞬間、かすかに唇が震えた。
私の人生の記憶には、どこを探してもこの人がいる。
いや、いた。
涙がこぼれる前に私は公園を出た。
星空が、私の行く先に輝いていた。
***************
家に帰ると母からのメールが一通届いていて、私はそれに短い返事を書いた。
“Yes”




