22 赤い車
「おじゃましまーす」
倉持常務のハスキーな声と丸くて高い声のユニゾンが響いてから少し後のこと。
食材を冷蔵庫に詰め込んだりしていたせいで皆より少し遅れて迎えに出ると、常務と奥さまは靴を脱いでいるところだった。
「ああ、須藤さん。試験お疲れさま」
顔を上げた常務が笑いかけてくれる。
「こんばんは、倉持常務。ありがとうございます」
「ハルカ、こちらがうちの会社で働いてくれてる須藤さん。で、こっちが俺の奥さん」
「妻のハルカです。よろしくおねがいしまっす」
ぴょこんと頭を下げた常務の奥さまは、私の想像とは全然違うタイプの女性だった。目をキラキラさせ、すごく楽しそうに口を開けて笑う、そんな人。勝手に妖艶な美女を想像していた私は少し驚いて、だけどすぐに納得した。奥さまに向ける常務の目が本当に優しかったから。
「ねぇ真吾さん真吾さん」
そう言いながら靴を脱ぐ奥さまがさりげなく常務の肩につかまってバランスを取っている姿がとても微笑ましくて、私も笑顔になった。
「なんだ」
「アメリ! ねぇ、アメリ!」
奥さまが放った言葉の意味はわからなかったけれど、常務は「はいはい」と言って軽くそれを受け流し、靴を脱ぎ終わった奥さまの腰に手をそえて中に入るようにと促した。
「あ、おいハルカ、スリッパ」
「あ」
芹菜さんが玄関に用意しておいたスリッパの上を素通りした奥さまを呼び止める常務と、振り返って笑う奥さま。常務は楽しそうに奥さまの足元にしゃがみ、スリッパを履きやすい向きにそろえて差し出す。
「ありがとう」
奥さまは差し出されたスリッパにむぎゅむぎゅと足を押し込んでお礼を言った。
そこには遠慮も何もなくて、ただ純粋にうれしそうな表情で。
「どういたしまして」
そのやり取りがとっても幸せそうで、ああ、これが祐樹さんの言っていたベタ惚れか、と思いながら私はそっと芹菜さんを盗み見た。
芹菜さんは本当に幸せそうに微笑んでいた。
ずっと好きだったと言っていたから、もしかしたらほんの少し胸が痛んだりはするのかもしれないけれど、そういうのもすべて乗り越えたような、そんな表情だった。
よかった。きっともう心の整理はついているんだ。
今はラルフもいるしね。
芹菜さんの隣にはいつも通り弟が立っている。
「お前、相変わらずだなぁ。もう一年経つのに」
祐樹さんが呆れたような声を出した。
結婚して一年経つのにラブラブだなぁ、ということらしい。
同感、同感。
祐樹さんが常務を軽く肩で押し、それに応えて常務は「まぁ、今年の前半いろいろあったけどな」と小声で呟いた。
「真吾、まさか」
「浮気じゃねぇ」
「そうか、よかった」
なんだか不穏な会話が聞こえた気がして私が絶句していると、奥さまが祐樹さんに向かって笑いかけた。
「あ、風間さん、その話まだご存じなかったんですか? ひどいんですよ、真吾さん。私に出張って嘘ついて……」
「ちょ、ハルカ、ストップ」
常務があわてた様子で奥さまの口を塞ぎ、奥さまはもごもごとその手の中で何かを言っている。
倉持常務がこんな風に慌てたりするなんて。
社内ですれ違うときの様子なんて、常務のところだけ違う風が吹いてるんじゃないかと思うほど爽やかで、何事にも動じないオーラみたいなのを全身から放っているのに。
その人をこんなに焦らせる人は、きっと奥さまをおいてほかにいないのだろう。
「ハルカ、須藤さんはうちの社員なんだってば」
社員の前で余計なことを話すな、という意味だったらしい常務の言葉は、次に続いた奥さまの言葉の前に完全な敗北を期した。
「え? だからこそ見張っといてもらおうと思って。何か不都合でも?」
常務はたじろいだ。
「いや、ないけど」
「じゃあいいじゃない。ねえ? 須藤さん?」
うなずいていいものかわからなくて祐樹さんに救いを求めると、祐樹さんは私と奥さまを交互に見てから吹き出した。
「ハルカさん、さすがだな。真吾すっかり手綱握られちゃって」
「あ、でも最近友達から『戦略的放牧』がいいと聞いて、導入を検討中なんですよ」
奥さまがニコニコと笑う。
戦略的、放牧?
「草原の中で好きに動き回らせておくんです。でも、行動範囲は柵の中だけ」
「それを真吾にやるってことなの?」
芹菜さんはさっきからすごく楽しそうに奥さまを見ている。
「友達が教えてくれたので私もよくわからないんですけど、要は飲み会とかそういうのに寛容に、という意味らしくて。締め付け過ぎちゃうと逃げ出したくなっちゃうから、ある程度自由を保ちつつ……という」
「戦略的放牧、ね。覚えておくわ」
そう言って芹菜さんはラルフにウインクした。
ラルフはさすがに『戦略的放牧』という日本語の意味までは分からなかったらしく、肩をすくめて「わからない」という態度を見せる。
『男性をある程度自由にさせて、でも抑えるところだけは抑えておくっていう戦略ですって。私もその戦略を使った方がいいかしらね』
芹菜さんが説明すると、ラルフは眉根を寄せた。
『僕、信用されてない?』
『冗談よ』
芹菜さんはそう笑ってラルフの肩を優しくたたく。
その様子を見ながら、倉持常務がそっと奥さまに何か耳打ちをした。
とたんに奥さまの瞳が輝いたところを見ると、きっと芹菜さんとラルフの関係を聞いたのだろう。
「放牧でも畜舎飼いでも手綱でも何でもいいけど、何にしろ俺が全く信用されていないというこの現実が悲しいわ」
常務が言うと、芹菜さんが高い笑い声をあげた。
「あら、本当に信用してなかったらこんなこと言わないわよ。本当は信頼してるのよね? ハルカさん?」
「うーん、どうでしょうね。毎日愛を囁いてくれたらいいんですけどね」
「よく言うわ、ハルカは俺に愛を囁いたことなんてないくせに」
どやどやとリビングに移動する間も常務と奥さまのじゃれ合いは続き、それを彩る芹菜さんの笑い声と祐樹さんの暖かな笑顔に私の気持ちも自然と上向きになる。
祐樹さん、楽しそうでよかった。
祐樹さんは、帰り道での表情が嘘のように明るい笑顔を見せていた。
「あ、今お料理の準備しますね」
そう言いながら台所に立つと、常務が寄ってきた。
「これ、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
常務の手土産の中身はおいしそうなケーキだった。
「好みわかんないからテキトーに選んじゃったけど、須藤さん甘いもの平気だった?」
「あ、はい。大好きです」
そう言いながら、私は受け取ったケーキを冷蔵庫に入れた。
「それならよかった。あと俺手伝うよ。料理、ちょっとならできるから」
「あ、え、ごめんなさい。あの、でも、大丈夫で」
「『ごめんなさい』じゃなくて『ありがとう』ね。これ、切って軽くトーストすればいい? ブルスケッタにするんだよね?」
「あ、え、はい。えっとあの、サーモンとクリームチーズを上に」
常務が祐樹さんと同じことを口にしたので驚いた。
「いいねぇ。前菜にぴったり」
そう言いながらさっさとバケットを切る常務の手際の良さといったら。
サーモンをくるりと巻いて、見た目も綺麗に、バターを載せて軽くトーストしたフランスパンの上にのせてゆく。
「あの、祐樹さんにもよく言われます。ごめんじゃなくてありがとうって言うようにって」
常務は手元に視線を落としたままうなずいた。
「謝られるより好意を受け取ってもらった方が嬉しいんだよ」
「……ありがとうございます」
「うんうん」
常務の言葉を反芻しながら、私は買ってきたお惣菜を大皿に盛りつけた。
どうしてすぐに謝ってしまうんだろう。
ありがとうって、常務の奥様みたいに素直に言えるようになりたいな。
「これ、あっちに持って行くね」
常務がそう言って、お惣菜を盛り付けた大皿とブルスケッタのお皿を持って行く。
キッチンカウンターの向こう側では、取り皿を用意したりカトラリーを並べたりグラスを用意したりと、みんながあわただしく動き回っている。
私は急いで野菜を切り、専用の調理容器に入れて電子レンジにかけた。
その間に小鍋で温野菜のソースを作る。
温めたオリーブオイルににんにくの香りをつけ、そこに包丁でたたいたアンチョビを加え、仕上げに生クリームを回し入れるだけの簡単なソース。
ふつふつとソースが煮えたところで小さなお皿に注ぎ込み、レンジから取り出した野菜を盛ったお皿のふちにそっと置いて運んでいくと、常務の奥さまが感嘆の声を上げた。
「おいしそう!」
あとの料理は出来合いのものを買ってきてしまったので、私が作ったのはソースだけだったけれど、みんながおいしいおいしいと言って食べてくれるのでとても嬉しかった。
常務が持ってきてくれたシャンパンを飲み、ひとしきり食べて飲んだところでソファに移動し、「とっておきよ!」と言って芹菜さんがどこからともなく取り出してきたワインまで開けて、みんなが随分と出来上がってきたころ。
「須藤さんまだ二十六歳なの? だってよ、ハルカ」
常務は全く表情に出ていない割に酔っているらしく、普段より数段砕けた様子でそう言った。常務は今三十二歳で、奥さまは来月に二十八歳の誕生日を迎えるのだという。
「なんでそこで私に話を振るかなぁ」
「須藤さんの方が年下だってことだろ。全っ然見えねぇよな」
「悪かったぁねガキっぽくて。どうせちんちくりんですよ」
奥さまがいじけたようにそう言ったので、私は焦って声を上げた。
「あの、いえ、私が老けているんだと……」
「ハルカさん、真吾あんなこと言ってるけど、ハルカさんの無邪気なところが可愛いってこの間言ってたから」
祐樹さんが奥さまにさらりと暴露し、奥様の顔がにやりと緩んだのを受けて、常務はくそっと小さくつぶやきながらテリーヌをフォークで突き刺して口に放り込んだ。
そんな常務をおかしそうな顔で見つめ、祐樹さんが言う。
「結婚で人が変わるって本当なんだな」
「うるせぇ。お前も早く結婚しろ。死ぬほどネタにしてやるから」
常務がぎろりとにらみながら言うと、祐樹さんは軽く肩をすくめた。
「俺は結婚しないよ」
祐樹さんが言った。
まるで何てことなさげに、軽い声で。
当たり前のことを確認したみたいなその声音に、私は驚いて一瞬祐樹さんを見つめた。
「なんだ、お前まだナース祭りか。赤いポルシェは役立ってる?」
常務がからかうように言った。
「まぁな。おかげさまで」
祐樹さんはそう答えながらよっこらしょ、と立ち上がった。
「ハルカさん、お手洗いそこだよ」
「え? あ、ありがとうございます! ばれちゃいました?」
「うん、まぁ」
「すみませんねぇ。ちょっとお借りします」
そう言って奥さまはニコニコとトイレに吸い込まれていった。
祐樹さん、さすが。
常務の奥さまがトイレに行きたがっていたことになんて、全然気づかなかった。
「それと姉貴、悪いけど氷買ってきてくれる?」
「はーい」
こちらもすっかり出来上がっている芹菜さんが両手を挙げて立ち上がる。
「ラルフ、ついて行ってあげてくれる? 夜だし」
『うん』
ラルフも最初からそのつもりだったらしく、芹菜さんに寄り添うように立ち上がった。
ラルフはついこの間二十歳になったけれど、カリフォルニアでは二十一歳になるまでお酒を飲んではいけないということもあってかコーラで乾杯していたから、素面だ。
二人が玄関から出て行くのを見送ってほっと胸をなでおろす。
今日はやけにラルフの口数が少なくて、どうしたものかと思っていたのだ。
祐樹さんもそれに気づいていたのだろう。それで芹菜さんと二人にしてあげたのだと思う。
祐樹さんからの目配せに、目で「ありがとうございます」と返した。
返しながらその切れ長の目の奥にあるものを探りたくなってしまうのは、さっきの常務の言葉が頭に残っているからだろうか。
――ナース祭り
どういう意味なのだろう。
普通に考えれば、祐樹さんが看護師さんとお付き合いをしているということに聞こえる。それも、一人ではなさそうな。
でも祐樹さんはそんなタイプには全然見えないし、常務の言葉に対する反応も、全然楽しそうなものではなかった。
だけど、常務は祐樹さんのことをよく知っているはずで。
一体何が。
私が知らない何が、そこにあるのだろう。
胸の奥の方がじくじくと痛むのを誤魔化すためにシャンパンを飲み干した。
そんなことをしたって何の意味もないとわかっているのに。
喉の奥で弾ける泡をごくんと呑み込みながら大きく深呼吸をする。
私がショックを受けるようなことではない。
祐樹さんの恋愛がどんなものであっても、祐樹さんは祐樹さんで、私にとっての姿は何も変わらないのだから。
私には、関係のないことなのだから。
祐樹さんからそっと目を逸らしながら自分に言い聞かせていると、常務の奥さまがちょうどトイレから戻ってきた。
奥さまはトコトコとソファまで歩いてくると、さっきまで芹菜さんが座っていて今は空席になっている私の隣にぱふんっと腰を下ろした。
そして私の顔を覗き込むようにしながら、明るく言った。
「あの、アメリに似てるって、言われませんか!」
ラ行が怪しいところを見ると、どうやら奥さまも結構酔っているみたい。
「アメリ……?」
何のことだかわからなくて尋ねると、奥さまはにっこりと笑いながら頷いた。
「フランス映画の。ちょっとエキセントリックな感じだから万人受けする映画ではないんだけど……」
「その主演の女優さんに須藤さんが似てるって」
常務がそこで口をはさんだ。
「あ、そうなんですか」
「顔立ちがそっくりってわけではないんだけど、雰囲気がね。たしかに似てる」
ああ、それで。
奥さまがここに来た時に言っていたのはこのことだったのか、と納得しつつ『アメリ』という映画のことを調べようとスマホで検索を掛けていると、芹菜さんとラルフが戻ってきた。芹菜さんがどんな魔法をかけたのかわからないけれど、ラルフはすっかりいつもどおりだった。ラルフはたぶん、芹菜さんの元想い人がいるという状況にうまく対応できなかったのだろう。
まぁそうだよね。
こんなにかっこいい人だってわかってしまったら、やっぱり複雑な気持ちになるよね。
「あら、みんなで何を見ているの?」
スマホの小さな画面にかじりつくようにしてその映画のことを調べていた私たちに、芹菜さんが声を掛ける。
「須藤さんが『アメリ』っていう映画の女優に似てるってハルカが言い出してさ。今画像検索してたとこ」
「その映画知らないわ。どんな人なの?」
「最近だとココ・アヴァン・シャネルでシャネルの役やってたよ」
「あら! あの人! わかるわよ! シャネルの方は見たわよ!」
常務の返答に、芹菜さんが頓狂な声を上げた。
そしてしげしげと私を見つめる。
「たしかに似てるわ、茉莉花さん!」
『どれどれ、本当だ。似てるよ、マリカ』
すっかり自分のペースを取り戻したラルフも、私の手元のスマホを覗き込んで言う。
みんなが一斉に私のことを見るので、私は恥ずかしくなって頷いた。
顔が熱い。
絶対に今、耳まで赤くなっているに違いない。
「ねぇ、茉莉花さん」
芹菜さんの声があまりにもわくわくした様子で、嫌な予感がした。
「いいこと思いついたんだけど」
「……はい」
ゆっくりと顔を上げる。
「うちのお店の広告モデルやってみない?」
唐突の提案の意味が全くわからなくて、私はしばらく固まったまま動くことができなかった。




