21 姉と弟
あわただしかった八月が終わり、それからの日々はあっという間に過ぎて行った。
ときどき凜のお見舞いに行くほかは会社と家を往復して試験勉強をするというシンプルな生活だったけれど、その毎日はとても楽しかった。
芹菜さんに助言をするキャットの姿が本当に眩しくて、その憧れがモチベーションにつながったおかげで集中して取り組むことができたのもよかったのだと思う。
そして芹菜さんとの同居生活は穏やかに続き、時折遊びにやってくるラルフともたくさん話をした。ラルフはどうやら文化の壁というものにぶち当たったらしく、「KY」という言葉にひどく悩まされて落ち込んだ様子でやって来ては芹菜さんに励まされて帰って行った。
彼女もきっと、こうして傷ついていたんだな。
ラルフのそんな姿を見る度にアメリカに帰って行ったその人の顔を思い浮かべ、私は思った。
彼女とはその後もメールやSkypeなどでやり取りを続け、九月の私の誕生日には気合の入った手作りカードが届いた。
そうして季節が巡り、無事に一次試験を突破して迎えた十二月の二次試験の日。
論文とプレゼンテーションの試験を終えた私は、街をぶらぶらして久しぶりの買い物を楽しんだ。
これまでは洋服屋さんで店員さんに声を掛けられるのが苦手で、そっと服を手にとって鏡の前でさっと合わせてすぐに買うのが私の買い物方法だった。
カジュアルな服はフリーサイズの服が多くて、それでも困ることはあまりなかったから。
でも芹菜さんのお店で服を買った時に「試着は絶対にしなきゃだめよ!」と言われたことを思い出し、勇気を出して試着をしたり店員さんと話をしたりして買い物をしてみることにした。
そうして気付いたことは、店員さんは売るのが本当に上手だということ。
プロだから当たり前だ、と言われてしまいそうな気もするけれど、本当上手なのだ。試着してぼんやりと鏡の前に立っていると、「その服にはこれも合いますよ」なんて言いながら別の服やアクセサリーを持ってきてくれたりして、またそれがとても可愛くて。
試験が終わって開放的な気持ちになっていることもあってか、財布の紐が緩みきってしまって、気が付いたら私の手にはたくさんの紙袋がぶら下がっていた。
「クローゼットに収まるかなぁ」
そんな不安を抱えながら電車に乗り、家の最寄駅に着いたところでスマホが着信を知らせた。
発信元は芹菜さんだ。
「もしもし」
『あ、茉莉花さん? おつかれさま! 試験、もう終わったのよね?』
「あ、はい。お買い物をしていて、今駅に着いたところです」
『そうだったのね。もし茉莉花さんが疲れてなかったら試験の打ち上げなんてどうかなぁと思って電話したんだけど、どうかしら。すっごくおいしいレストランがあるんだけど』
「あ、はい」
私のために、打ち上げを?
すごく嬉しくて、でも同時に少しだけ後悔した。
試験のことが不安で昨晩なかなか寝付けなかったし、試験が終わってから街を歩き回って買い物をしていたせいで体がすっかり疲れていたのだ。
ああ、買い物は来週にしておけばよかった。
せっかく言ってくれているのに台無しにしたくはないし、でも……
そこまで考えたところで、芹菜さんの明るい声の後ろで何か低いぼそりとした声が聞こえた。
続いて芹菜さんの明るい声が問いかけてくる。
『でも、お買い物したんだったら荷物もたくさんあるだろうし、疲れてるわよね?』
その言葉に一瞬沈黙してから、私は正直に言った。
「あ、あの、はい。少しだけ……」
『そうよね、ごめんね気が付かなくて。打ち上げはまた今度にしましょうか。別に今日でなくてもいつでもできるものね』
芹菜さんの後ろにいるのはたぶん祐樹さんだな、と直感的に思った。
電話をしながら改札を抜け、正面の駅ビルをぼんやりと見つめる。
そしてふと、思いついた。
「あの……もしお家で打ち上げするのでもよければ、これからスーパーで色々と買って帰りましょうか? せっかくだし、私も打ち上げしたいので」
『え? 本当? 楽しそうね! でも茉莉花さん疲れてるでしょう? 買い物はいいわよ、私行くから』
「それくらいなら大丈夫です」
父と二人で暮らしていたころは、仕事帰りにスーパーで買い物をして帰るのが日課だったし。
『本当? あ、待って。今祐樹がそばにいるんだけど、荷物持ちに行ってくれるって』
「え? あの、大丈夫ですから!」
『あら、もう靴はいて出て行っちゃったわよ』
「あの、すみません。ありがとうございます」
芹菜さんのクスクスという笑い声が聞こえた。
『お礼は祐樹に言ってあげてね』
「はい」
やっぱり、私の勘は当たっていたみたい。
スーパーに入ってカートを押しながら何を買おうかとあれこれ考えていたら、ふと腕の荷物が軽くなった。
「茉莉花さん、持つよ、荷物」
祐樹さんが私の腕にぶら下がったたくさんの紙袋を持ち上げてくれていた。
「あの、いえ、これは私の買い物ですから、その」
スーパーでの買い物の荷物を持ってくれるだけで十分なのに、祐樹さんは私の洋服まで持とうとしてくれているらしい。
「あの、重いですから」
いつになく大量に買ったから。
「重いから持つんだよ」
祐樹さんはそう言って小さく笑い声を漏らし、私の腕から荷物を奪い取ってしまう。
「こういうときは?」
いたずらっこみたいな顔でそう言われると、私は引き下がるしかなかった。
「……ありがとうございます」
祐樹さんは満足そうにうなずいた。
「どういたしまして」
敵わないなぁ。
歳の功なのか、それとも女性慣れしているのか。
そう思って胸の奥に小さな痛みを覚えたけれど、私はそれに気づかないふりをした。
スーパーではめいめい食べたいものと飲みたいものを次々にカゴに入れ、お会計は結局祐樹さんが支払ってしまった。
「茉莉花さんお疲れ様会なのに茉莉花さんが支払っちゃおかしいでしょう」
そんな風に言われると、私はやっぱり引き下がらざるを得ないのだ。
しまったなぁ。祐樹さんが払ってくれるなら、調子に乗ってあんなに高いチーズなんて買うんじゃなかった。
普段の私だったら絶対に手を出さないものを、ついカゴに入れてしまったのだ。
私のそんな反省をよそに、たくさんの紙袋と重いビニール袋を両手いっぱいに抱えた祐樹さんはしっかりした足取りで歩いて行く。
あんなに重い荷物も、祐樹さんが持っていると軽そうに見えるのだから不思議だ。
私も何か持ちます、としつこく食い下がってようやく分け与えられたのはチーズの入った軽いビニール袋一つだった。
「祐樹さんは何かスポーツをされるんですか?」
今は分厚いコートを着ているせいでわからないけれど、祐樹さんはがっちりと肩幅が広くて筋肉質だったような気がする。
ううん、気がするっていうのは控えめな表現で、本当は夏に会ったときにその体格の良さに小さく感動していたんだけど、それは内緒。
「高校までは水泳やってた」
「そうなんですか」
水泳かぁ。
それならこの肩幅にも納得。
「茉莉花さんは?」
「私は運動が全然できなくて。ずっとインドア派です」
「そっか」
「中学も高校も、入学当初は身長が高いせいでバスケ部やバレー部からお誘いをいただくんですけど、数回の体育の授業を経ると誰一人として誘ってくれなくなるんです」
そう言うと祐樹さんは声を上げて笑った。
「小学生のときは、大縄跳びが一番苦手でした」
「大縄跳び?」
「はい。私が通っていた小学校ではちょうど今くらいの時期に大縄跳びの大会があったんです。クラスみんなで時間内に何回連続で跳べたかを競うんですけど」
「ああ、あるね、そういうの」
「私はいつも引っかかってしまって。まず回ってる縄に飛び込んでいくのも苦手で。いつもクラスメイトに怒られていました」
運動神経がよくて、クラスの中心的存在だった男の子たち。
今では顔も名前もはっきりとは思い出せないその子たちのことが、当時の私は怖くて仕方なかった。
きっと傷つけるつもりなんてなかったのだろうけど、子どもは時に残酷だから。
「やばい、俺どっちかっていうと怒ってる方の立場だったかも」
祐樹さんがぺろりと舌を出しながら言った。
「子供って一生懸命で、つい言っちゃうんですよね。自分が当たり前にできることを上手くできない人もいるんだってことをわかってないっていうか。できないのは努力が足りないからだって思って」
「そうだね」
「私は運動が苦手だったおかげで上手くできない人の気持ちが痛いほどよくわかったので、きっとあれはいい経験だったんだと思います。今となっては、ですけど」
当時は縄に怯え、クラスメイトに怯え、時間が早く過ぎることだけを祈っていた。
あの頃から、私は男の子が怖かった。
みんなが廉みたいに優しいわけじゃないのだとわかってとても怖くなったのだ。
「今度会ったら謝っとかなきゃな」
祐樹さんがぽつりと言った。
「え?」
「小学生のときに運動会でクラスの全員リレーっていうのがあってさ。すんごい足遅い女の子に『もっと早く走れよ』って言ったことを今思い出したんだ」
そう言って祐樹さんは眩しそうな表情をした。
目を少し細めて柔らかく笑うその目尻がかすかに光っているような気がして、私はそっと目を伏せた。
なぜだろう。
昔のことを懐かしんでいるというよりも、もっとずっと切なそうなこの表情は。
それは八月に病院で会った時の祐樹さんと同じ表情に見えた。
「……同窓会で会ったらぜひ謝ってあげてください」
きっと気づかないふりをした方がいいのだと判断して、私はそう言った。
「了解」
祐樹さんはそう言って笑う。
だけどちっとも笑えていなくて、その偽物の笑顔は私の心をひどくかき混ぜた。
祐樹さんと一緒にいるときに流れる静かで穏やかな時間は好きだけど、こんな静けさは違う。
胸が締め付けられるような、そんな静寂の中を黙々と歩いているうちに家について、ドアを開けると芹菜さんとラルフが出迎えてくれた。
『マリカおかえり!』
「茉莉花さん、お疲れ様」
二人の明るい笑顔に、それまでの沈黙がウソみたいに気持ちがふわりと持ち上がる。
隣を見ると、祐樹さんの顔にも楽しそうな笑みが浮かんでいた。よかった、この笑顔はきっと本物だ。
芹菜さんとラルフの持つ屈託のない明るさは周囲を巻き込む強さも持っていて、私はいつも二人から元気をもらう。
それはまるで太陽と月のように。
芹菜さんと祐樹さん。
ラルフと私。
二組の姉と弟の不思議な関係。
ずっと続くといいな。
心の中で願いながら買ってきた食べ物を一旦テーブルに置き、コートやマフラーを掛けるために一旦自分の部屋に行ってから居間に戻ると、祐樹さんが携帯を片手に芹菜さんと何やら話をしていた。
「どうする?」
「呼んじゃえば?」
「いや、でもせっかくの打ち上げだし……」
会話の内容からすると、誰かが来るのだろうか。
「どうかしたんですか?」
私が声を掛けると祐樹さんが振り向いた。
「真吾から電話で」
「倉持常務ですか? あ、もしかしてお誘いの電話ですか?」
「うん、そうそう。断っても全然問題ないんだけど……」
「どうせなら大人数でわいわいするのも楽しいかもって」
と芹菜さんが続く。
「せっかくの打ち上げに会社の人なんか来たらやりにくいよね?」
祐樹さんに問われ、私はふるふると首を振った。
「私なら構いませんよ。ぜひご一緒したいです」
それは本心だった。
1年前の私だったら、気が張るからと憂鬱に思っていただろうけど。
最近こんな風に少しだけ積極的になれる自分が嫌いじゃない。
「真吾の奥さんもいるけど平気?」
「はい」
『ラルフは? 知らない人が来ても平気?』
『もちろん僕は平気だよ!』
このところ日本語力が向上して、私たちの会話の大部分を聞き取れていたらしいラルフはすぐに頷いた。ラルフは誰とでも仲良くなれるから平気そう。
「じゃあ呼ぶか」
そう言って祐樹さんが電話の向こうの倉持常務と話をして、二人がやって来たのはその30分ほど後のことだった。




