20 爪の痕
辛かったよ。
廉のこと、本当に。
裏切られたって思ったし、どうしてって思った。
廉のことも、凜のことも、おじちゃんおばちゃんのことも大好きだったのに。
なのに、大っ嫌いだと思った。
昔から辛いことがあったら凜や廉に聞いてもらってたから、ひとりでどうしていいか全然わからなかった。
どうやったら自分の気持ちが楽になるのかわからなくて、怒ってみたり悲しんでみたり、憎んでみたり、色々したの。
でも、どうしようもなかった。
苦しくなるだけで、ちっとも楽にはならなかった。
だけどね、時間が少しずつ気持ちをいやしてくれた。
弟がね、日本に来たの。
それで色々あわただしくしてるうちに、そのことを考える時間も減って。
新しいお友達もできて。
お母さんともね。会って。
実は今日、会ってきたんだけど。
そうやって、私の世界も少しずつ変わってる。
「だから凜、今はね、私は胸を張って言えるの。私はきっと平気になるって」
今はまだ胸が痛むこともあるけど。
でも、このままずっと暗いトンネルから抜け出せないわけではないって、そう確信している。
ゆっくりでも前に進み続ければ、かならず出口がある。
母が再び日本を訪れるのに二十数年を要したのと同じように、きっと長い長い時間がかかるけれど。
でも、きっとできる。
そう思うだけで心は随分楽になった。
「だからね、凜も」
点滴に繋がれて弱弱しくしていないで。
凜は何度も何度も頷いた。
「退院したらさ、一緒に凜が好きなケーキ食べに行こう」
言葉にならないでただただうなずく凜を見ながら、凜を守りたくなった。それは長い間忘れていた感覚だった。
誰かを守りたくなるのは、きっと自分の心に余裕がある証拠なのだと思う。
この子は私の妹で、親友で。
いつだって互いを支え合ってきた。
その関係が全部消えてなくなるわけじゃない。
「茉莉花、その服キレイ」
凜が弱弱しく微笑んだので初めて、私は自分の服装を思い出して慌てた。
「あ、ごめん。お見舞いに来るような服じゃなかったね」
色といいデザインといい、ひどく場違いなワンピースを着ている。
「ううん、そんなこと思ってないよ。ただ、茉莉花がそういう服を着てるの、初めて見たから」
「この服のことも、他にも、話したいことがたくさんあるの」
「私もたくさんある」
「だから早く元気になってね」
凜が頷いたのを確認して、私はそっと立ち上がった。
私たちはきっと大丈夫。
またここから少しずつ取り戻していけばいいんだ。
入ってきたときよりもずっと軽くなった心を抱え、私は静かに病室を出た。
なるべく音をたてないようにそっとドアを閉めて廊下を歩きだす。硬質な床に足音が響かないようにと気をつけるけど、履きなれない高いヒールがそれを阻むし、派手な服を着ているし。早く病院を出なくちゃと焦る気持ちばかりが募って、気が付いたら猫背で膝を折ったままコソ泥みたいな姿勢で小走りをしていた。
だからその声がかかったとき、私の頭の中は恥ずかしさでいっぱいだった。
「茉莉花さん?」
もう振り向かなくてもわかっている、この声の主。
「祐樹さん」
「こんなところで会うなんて思わなかったな」
それは私も同じだった。
今日はよく人と会う日だなぁなんて思いながら、ああそっか、と思い直す。
裕樹さんはお医者さんだった。
「もしかして祐樹さんのお勤め先って……」
「うん、この病院だよ。病棟は違うけどね。今日は非番で、ちょっとお見舞いに来たんだ」
祐樹さんはコットンシャツにチノパンというリラックスした服装でそこに立っていた。
「茉莉花さんは?」
「私もお見舞いに」
「そっか」
場所が場所だけに、そして互いがお見舞いのためにここにいると言うのもあって、なんとなく笑顔を向けるのが憚られた。
「いま帰り?」
「あ、はい」
「俺、車で来てるから、よかったら乗って行かない?」
「え? いいんですか?」
「うん。送ってくよ」
「ご迷惑じゃないですか?」
「全く」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
そうして歩き出してすぐに自分の足音が気になって、でも祐樹さんが隣にいるのにコソ泥走りをするわけにもいかず、先程の姿を見られたのだと言う恥ずかしさが舞い戻って来て、私の心の中はすっかりパニックだった。
「その服を着てるってことは、今日お母さんに会ってきたの?」
「あ、はい。あの、そのあと友人が入院してるって聞いて慌ててこの格好のまま来てしまって」
「そっかそっか」
非常識だと思われちゃったかな。
そう思ったけど、祐樹さんはちっとも変な顔をしなかった。
その代わり、少し首を傾げて私の全身を見て微笑む。
「やっぱりその服よく似合ってるね」
「あ、ありがとうございます」
「何か姉貴、盛り上がっちゃっててごめんね。嫌だったら断っていいから。姉貴は服大好きで、俺も昔っから着せ替え人形にされてきたんだ。めんどくさいでしょ」
「いえ、私からお願いしたんです」
「そう? それならいいけど」
「母に会うのに、大人っぽい服が欲しくて」
「そうだったんだ。その服も似合ってるけど、俺は茉莉花さんの普段の服装もステキだと思うけどね」
――え?
「シンプルでカジュアルな服ってスタイルいい人が着ると映えるなぁって思ってた」
ああ、そうだった。
祐樹さんはこんな風にサラリと褒め言葉が出てくる人で。
だからこれは決して特別な言葉なんかじゃないはずなのに。
でも、嬉しくて少しだけドキドキした。
そっか。
普段の服装もそんなに悪くないのか。
「少なくとも俺は遊園地にピンヒールとスカートで来る女の子よりもスニーカーで来る子の方が好きだからね」
いたずらっ子みたいな表情で芹菜さんのことをネタにする祐樹さんの言葉に笑いながら、連れだって駐車場を歩いて行く。
「俺の車、当ててみる?」
駐車場につくと、たくさん並んだ車を前に祐樹さんがそう言った。
え。
え。
「あの、ヒントを」
「んー、たぶん俺っぽくない、かな」
祐樹さんっぽくない?
祐樹さんっぽいっていうのは……
私は祐樹さんの服装を眺めた。
シンプル。
ってことは、車もシンプルかな?
うーん……
「あ、あの車、祐樹さんっぽいです」
シンプルなシルバーのSUV車を指さすと、祐樹さんはおかしそうに笑う。
「あれ、俺たしか『俺っぽくないやつ』って言ったような気がするけど」
あ、そうだった。
祐樹さんっぽくないの、祐樹さんっぽくないの。
「着いちゃった。これだよ」
そう言って祐樹さんが指さした車はすんごくかっこいいスポーツカーだった。
ドアが二つしかなくて、赤くてツヤツヤで。
でもそんな車に、祐樹さんは苦笑いしながら乗り込む。
「この車、真吾の押し売りにあったやつなんだ。ごめんね、派手で。本当に俺っぽくないでしょ」
押し売り? どういうことだろう。
ちっともわからなくてクスリと笑うと、祐樹さんはすっと肩をすくめた。
革のシートに腰を落とし、恐る恐るドアを閉める。
車にはあんまり詳しくないけど、高そうなのに壊してしまったら大変。
「元の持ち主は倉持常務だったってことですか?」
シートベルトを引っ張りながら尋ねてみた。
「そうだよ」
祐樹さんはエンジンを掛けながら答えてくれた。
「長いこと学生やってた俺よりも真吾のほうが一足先に社会人になって、この車を買って乗り回してたんだ。でもどうやら数年で飽きたらしくて、俺が就職した時に『就職祝いに安く譲ってやろう』とか言って買わされたんだ」
たしかに、このツヤツヤの車は祐樹さんよりも倉持常務に似合いそう。
それにしても、高そうな車なのに。
社会人になったばかりでこの車を買っちゃうなんて、さすが倉持常務。
「何が就職祝いだよって思いつつ、この車種には破格の値段を提示されてつい買っちゃった俺も俺だけどね。今は真吾は黒のハイブリッドカーに乗っててさ。『お前もそろそろ落ち着けよ』とか言ってくるんだ。人がこんな派手な車に乗ってるのは誰のせいだと思ってるんだっていう」
楽しそうに話す祐樹さんの目尻にくしゃっと皺が寄る。
信号待ちで停まったあと走り出すたびにブオンという振動が車から直に伝わってくるのも、車高が低いせいで普段車から見る世界よりも地面に近いのも、経験したことのない感覚だった。
違和感はそのせいかな?
祐樹さんのおしゃべりに相槌を打ちながらしばらく考えていて、そして私はハッとした。
ちがう。
違和感はたぶん、車のせいじゃない。
祐樹さんが自分からこんなにたくさん話すのは、初めてなんだ。
祐樹さんは明るくて楽しい人だけど、自分からいろんなことを話すというよりも芹菜さんやラルフ、私の話をうまく引き出してくれるタイプの人だった。
でも。
お見舞いに来た帰り道。
もしかして祐樹さんのこれは、空元気なんじゃないだろうか。
そう思ったらなんだか気になってしまって、前を見つめて運転する祐樹さんの横顔を横目でこっそりと観察していたら唐突に言われた。
「あ、ごめん。気付かなくて。ブランケット要る? スカート気になるなら使って」
祐樹さんはそう言うと座席の後ろにのせてあったらしいブランケットを取り出して渡してくれた。
「あ、あの、ありがとうございます」
私がそわそわしていたせいで、勘違いをさせてしまったみたい。
ブランケットを受け取った時にふわりと甘やかな香りが漂って、余計に落ち着かない気にさせられた。
「あの、でもそうじゃなくて……」
「ん?」
「あの、大丈夫ですか?」
祐樹さんみたいにうまくは聞けないから、私はありきたりな言葉で問いかけた。
「え?」
「その、気のせいならいいんです。でも、いつもとちょっと違った気がして」
そう言ってから一瞬訪れた沈黙に、「偉そうにそんなことを言うほど知らないくせに」って思われたかな、と心配になってうつむいた。
隣でフーッと静かに息を吐く音がした。
「ごめん。俺そんなにわかりやすかった?」
「あの、そういうわけじゃ。なんとなく、そうなのかなと」
「そっか、ごめんね。気を遣わせちゃって」
「そんなことないです。そうじゃなくて、いつもいつも助けていただいてるので、私でよかったらいつでもって……」
「そっか、ありがとう」
祐樹さんはそう言ってから一呼吸を置いて、「お見舞いってやっぱり気が滅入るよね」とつぶやいた。
「そうですね」
「茉莉花さんは平気なの?」
「はい。大丈夫です」
「そっか」
「心配ではありますけど」
「そうだよね。病院なんて、用事ない方がいいもんね」
私はこくりと頷いた。
「本当に、平気?」
祐樹さんにもう一度問われ、私は驚いて祐樹さんの方を見た。
「俺もいつでも話聞くよ」
「あの、どうして」
誰のお見舞いに来たかも言っていないのに、どうして何度も聞くのだろう。
「いつもと違う気がしたからって言いたいところだけど、俺の場合はもう少し単純なんだ。種明かしをしちゃうとね」
そう言って祐樹さんは私の方を見ながら、トントン、と自分の二の腕を叩いてみせた。
え? 二の腕?
あわてて自分の二の腕を確認して、私は驚いて声を上げた。
「え? なにこれ」
ポツポツと小さな赤い痣のようなものがある。
いつの間に?
なんで?
もっとよく見ようと反対の手で二の腕をつかんで、そして気付いた。
「あ……」
指の位置と、痣の位置が同じ。
「無意識な癖だと思うけど、茉莉花さん、左手で右手の二の腕をぎゅってつかむことがあるんだ。たぶん辛い時。防御の姿勢なんだと思う。で、痣が見えたから、何かあったのかなぁと思って。それだけだよ」
それだけ?
自分でも気づいていなかったような些細な変化に気付いてくれるのに?
「あの、ありがとうございます。ちょっとだけ動揺して。でももう大丈夫なんです」
「そっか。それならよかった」
エンジン音がブオオンと低い音を立てて私の気持ちをざわつかせた。
おかしいな、祐樹さんの話を聞こうとしていたのに。
いつの間にか私の話にすり替わっていた。
裕樹さんは話したくないことなのかな。
そう思ったらそれ以上聞いちゃいけない気がして、私は黙り込んだ。
一日で色々な人に会って色々なことがあったせいもあるのだろうけど、車を降りてお礼を言った時の祐樹さんの表情が忘れられなくて、その晩はなかなか寝付くことができなかった。




