19 凛
「凜が入院?」
聞き返すと、池谷くんは口元を引き結んだまま頷いた。
「いまちょうど見舞いからの帰りで」
そう言って気まずそうに目を泳がせる。
私が知る限り凜はとても健康体だった。小さい時から風邪ひとつひかず、体があまり強くなくてしょっちゅう熱を出していた私にお見舞いと称していろいろなちょっかいを仕掛けてきていた。そんな凜が入院だなんて。
私はすぐに池谷くんに病院名だけを聞いてタクシーに飛び乗った。
お金を払い、おつりを受け取ってタクシーを飛び出すと、エントランスに駆け込んだ。
受付に聞けば病室がわかるだろうか。
そう思って受付の方に一歩を踏み出した私に、横から声がかかった。
「茉莉花ちゃん」
「……おじちゃん」
吉田のおじちゃん。
そこには、廉と凜のお父さんが追い詰められたような顔をして立っていた。
「ひさしぶりだね」
そう言った次の瞬間にはおじちゃんの顔がくしゃりと歪み、つられるように私も口元を震わせる。
話すのは本当に久しぶりだ。
去年の秋以来だろうか。
それ以前は、3日と置かずに話をしていたのに。
口下手な父とは対照的に吉田のおじちゃんはいつも明るくて豪快に笑う人だった。「茉莉花ちゃんには二人お父さんがいるんだぞ!」と言って、幼い頃から本当に娘のようにかわいがってくれたのだ。
「おじちゃん、あの……凜……」
「さっき池谷くんから連絡をもらったよ」
どうやらおじちゃんは、私が病院に到着するのを待っていてくれたらしい。
「入口がいくつもあるからどこで待っていればいいかわからなくて。会えてよかった」
おじちゃんはそこで言葉を切って歩き出した。
凜の病室まで案内してくれるのだろう。
「茉莉花ちゃん、廉のこと、本当にすまない」
おじちゃんは歩きながらそう言った。
よかった。
向き合った状態でこれを言われたら、私はどんな顔をすればいいかわからなくて困っただろうから。
「本当になんて言ったらいいのか。あの日…病院までかをりさんを運んでくれたんだってね」
「お礼なんて……」
「お礼じゃない、違うよ。本当に、ごめんね。本当に、ひどいことを」
おじちゃんの言葉はそれ以上続かなかった。
かをりさんを運んでくれてありがとう、ではなく、そんなことになってしまってごめん。
お礼じゃなくて、お詫び。
ああ、その方がずっと受け入れやすい。
前を歩くおじちゃんの背中を見つめながらそう思って、そんな自分の気持ちに驚いた。
もしかして、私はずっと謝ってほしかったのだろうか。
いや、そうじゃない。
許せないとか謝ってほしいとか、そういうのとは少し違う。
そうじゃなくてきっと私は、平然とできない自分を受け入れてほしかった。
廉が何もなかったかのように話しかけてくるから、何が普通かわからなくなったのだ。
大人の対応をとるべきなの? まるで何事もなかったかのように振る舞うべきなの? そうすれば、すべてが丸く収まるの? それが、普通なの?
だけどおじちゃんの背中を見ていたら、そうじゃないのだとわかった。
平然とできない私は、決しておかしくなんてない。
おじちゃん、こんなに白髪あったかな。
久しぶりに会ったせいか、黒い髪に交じる幾筋もの白がやけに目についた。
「凜、大丈夫なの?」
沈黙がいたたまれなくて、その背中にそっと話しかけた。
「うん、大丈夫だよ。療養入院っていうのか、そういうのだから…」
「療養……?」
「ふつうに食事が摂れるようになるまでね」
「食事……とれないの?」
それって……
「いまは摂食障害って言うそうだね。凜がそう診断されるまで知らなかったけど」
おじちゃんの声は静かだけど、いつもと全然違っていた。
くぐもって苦しそうに響く。
凜が摂食障害?
おじちゃんに続いてエレベーターに乗り込んだ私は信じられない思いに包まれていた。
「どうして……」
エレベーターの中で向き合ったおじちゃんは、ぐっと目を閉じた。
瞼が震えていて、短いまつげの先がすっかり瞼に覆い隠されている。
「廉の……あの一件に誰より怒ったのは凜だったからね」
おじさんが小さな声で言う。
「何度も家族で話し合った。最初は母さんも勘当だって騒いで。でも落ち着いてくるとね、勘当したところでどうしようもないっていう話になったんだ。時間が巻き戻るわけじゃなく、その……」
「うん」
私は頷いた。
そうだよね、という意味で。
どんなに廉を責めてもかをりさんの妊娠がなくなるわけじゃない。
赤ちゃんは生まれてきて、廉は父親になる。
「廉がこっちへ挨拶に帰って来るって言ったときも、みんなで色々と話し合った」
「うん」
「やめさせようって。どうしてもって言うなら僕らが会いに行けばいいって。でも、かをりさんがそう望んでるんだとか言われると、結局僕らはそれほど強い態度には出られなかったんだ。よその娘さんを妊娠させてしまったのはうちのバカ息子なんだっていう負い目もあったから」
そっか。
おじちゃんもおばちゃんも、まじめで優しい人たちだから。
きっと、拒めなかったのだ。生まれてくる子を否定するようなことを、できなかったのだ。
「でもたぶん、それだけじゃない」
廉によく似た細い目に涙が浮かんでいるのが見えた。
「たぶん、茉莉花ちゃんに甘えていたんだと思う。僕らもね」
どういうことだろう。
私が黙っていると、おじちゃんはもう一度「ごめんよ」とつぶやいた。
「茉莉花ちゃんのことを家族だと思ってるから廉の行動を許せなかったけど、同時に、家族だからこそ甘えてしまったんだ。まったくの他人であるかをりさんと茉莉花ちゃん、その……」
私は小さくうなずいた。
子供が喧嘩したとき、多くの親は自分の子を叱る。
それと同じこと。
身内だからこそ、どこかで甘えてしまう。
私がどうしてかラルフには言いたいことを言えるのと同じように。
その感覚はいやというほど理解できるけど、おじちゃんの言葉をどう受け止めていいのかはわからなかった。
「そのころからかな。だんだん、凜の食欲が落ちて」
「そっか」
「それでね。赤ん坊が生まれたって聞いて病院に行ったとき、ついに爆発したんだ。病院に運んでくれたのは茉莉花ちゃんだって聞くなり凜は病院から駆け出して行って戻ってこなかった。探し回ってやっと見つけた時には、うずくまって泣き叫んでた」
「凛が……?」
凜が泣き叫ぶなんて想像できなかった。
凜が生まれた時から笑っている顔も怒っている顔も泣いている顔もたくさん見てきた。でも泣き叫ぶ姿だけはどうしても思い描くことができない。
「なんでそんな酷いことをって。『私はもう茉莉花に会えない。どんな顔をして会ったらいいのかわからない』って。何度も何度も。それほど大きくない産科だったからね。駐車場で茉莉花ちゃんちの車を見つけたんだって。『茉莉花はどうやって家に帰ったんだろう』って言いながらわんわん泣いてた。それ以来、本当に体が食べ物を受け付けなくなってしまって。それまでもどうやら、食べた後に吐いたりしていたみたいだけど。全然気づいてやれなかった」
私は襲い来る頭痛を何とかしようとこめかみを押さえた。
廉とかをりさんを病院に送った日の夜、凜からは無事の出産を知らせる短いメールが届いていた。
てっきり、凜は祝福しているのだと思っていた。
多少複雑な感情はあっても、喜んでいるのだと。
だって、凜の甥っ子か姪っ子が生まれたのだから。
私のそんな表情を読み取ったのだろう。
おじちゃんは小さくつぶやいた。
「赤ん坊をね、どう扱っていいかわからなくてね。病院には行ったものの、結局、赤ん坊を抱くことはできなかった。母さんも、凜も、僕も。どうしても触れられなかったんだ。ガラスの外側から新生児室を見ているだけで、胸が痛くて。廉もそれを察してか、大阪に戻ってからは一度も連絡をしてきていない」
私は小さなカバンからスマホを取り出し、あの日の凜のメールを探した。
『無事生まれたよ』
たった一文の短い文章の中に、凜はどれほどの思いを込めたのだろう。
いいのに。
罪悪感を感じる必要なんてないのに。
あれだけ仲のよかった家族がバラバラになるなんて。
私はそんなことを望んでいるわけではないのに。
それなのに心のどこか隅っこの方でほんの少しだけ安心している自分がいて、私は何も言えなかった。
私だけが苦しんでいたわけではないということを喜ぶべきなのか、それとも苦しむべきなのか。
よくわからなかった。
高いヒールを履いた足元がぐらぐらするのを感じながら、これだけは言っておこうと思った。
「おじちゃん」
「え?」
「罪悪感なんて感じないで。おじちゃんたちは悪くないよ。凜だって」
私が言うと、おじちゃんは小さく頭を振った。
「ちがうよ。罪悪感じゃない。凜は廉の妹として茉莉花ちゃんに罪悪感を覚えているわけじゃないと思う。傷ついたんだよ。凜にとって茉莉花ちゃんはお姉ちゃんみたいな存在だった。なんでも話せる親友だった。家族だった。その家族を傷つけられて、凜自身が傷ついてるんだ。きっとね」
そう言っておじちゃんはまたうつむいた。
「病室、ここだよ。まだ起きてると思う」
「わかった。おじちゃん、ありがとう」
おじちゃんは何度かうなずいて、それから去って行った。
二人で話ができるようにと気を使ってくれたのだろう。
胸の痛みを覚えながら、それでも私は背筋を伸ばしてその背中を見送った。
しっかりしなくちゃ。
せめて姿勢だけでも。
スーッと引き戸を開けると、病院特有の香りが鼻先をかすめた。
「凜」
小さく声を掛けながら中をのぞき、ゆっくりと病室に足を踏み入れて戸を閉めた。
コツン、コツン。
踵の音を響かせてベッドに近寄ると、ベッドの上のその人は声を上げることができないほど驚いているようだった。
「……どうして……」
掠れた声に問われ、私はベッドのわきに置いてあった椅子にそっと腰を下ろす。
「偶然街中で池谷くんに会ったの。それで」
凜はああ、と言いながら目を閉じた。
きっと、私には知らせないつもりだったのだろう。
「凜、ごはん、食べられなかったの? 私のせい?」
そう問うと、凜はぶんぶんと首を振った。
その動作で首が折れてはしまわないかと心配になるくらい、すっかりやせ細っている。掛布団からわずかに覗く腕は青白く筋張っていて、それが中学高校とテニス部で活躍していた凜の腕だなんて到底信じられなかった。
「茉莉花のせいなわけないよ。ちがうよ。逆だよ。私たちのせいで、茉莉花、引っ越して……」
「ちがうよ、凜のせいじゃない」
そう言ってから、凜の表情を見て思った。
たぶんこんなことを言ってもこの子の気持ちはちっとも晴れない。
大丈夫だよ、とか。
気にしないで、とか。
全然平気、とか。
そんなのは何の気休めにもならない。
だって、私たちはお互いを知りすぎているから。
「あのね、凜、聞いて」
深呼吸をした。
向き合うにはまず、伝えないと。
私がこれまでずっと怠ってきたことを、しなくては。




