1 決別
頭上で息を呑む気配がして、私は顔を上げた。
三か月ぶりに会う元恋人と、その腕に絡まるように抱きついた小柄な女性。
二人の姿に心臓を鷲掴みにされたような気持ちになりつつも、深呼吸をしてからゆっくりと立ち上がった。
「初めまして」
廉の隣にいる女性に向かって頭を下げながら言った。
女性は私の容姿を見て特に驚いた様子もなかったから、おそらく写真か何かで私を見たことがあったのだろう。
「初めまして。吉田かをりです」
吉田。
そっか、もう入籍したんだ。
不思議な感慨のようなものが生まれて、消える。
「須藤です」
吉田になり損なった、須藤。
頭の中にそんな自虐的な言葉が浮かんで、あわててそれを塗りつぶした。
「茉莉花さんでしょう? レンちゃんからお話、聞いてます」
「そうでしたか」
……レンちゃん。
親しみのこもった呼称は、ふたりの「夫婦」という間柄からすればごくごく普通のものだけど、私にはちっともしっくり来なくて、妙に浮いて聞こえた。
廉は一体、私の何を話したのだろう。
一言一言に過剰に反応しても仕方ないとわかっているけど、彼女の言葉ひとつひとつに体のどこかが痛むのだ。
「お二人は中学時代から付き合ってたんですってね? すごいわねぇ」
ロビーのすぐ隣にあるレストランで食事を初めて第一声。にこやかに放たれた言葉が深々と胸に突き刺さった。
かをりさんの言う通り、私と廉はもう十年以上付き合ってきた。
出会ったのは、私がまだベビーカーの中にいた頃。
いわゆる幼なじみだった私たちの関係は、いつだって穏やかで温かかった。派手な喧嘩をしたこともなく、浮気をしたこともない。
そんなの、考えたことも、疑ったこともなかった。
周囲も自分も、当然このまま結婚するのだと思っていた。
「……中学からって言うと、十年くらい?」
「はい」
「茉莉花さんに来てもらったのはね、きちんとお別れをしてほしいからなの。私たち、始まり方が少し特殊だったでしょう? だから不安で。東京に遠恋中の彼女がいるって知ってたから、妊娠が分かった時も随分悩んだの。でもせっかく授かった命だから生みたいと思って。父親のいない子にしたくはないし。片親っていうのはちょっと、ね」
その言葉に廉の顔色がすっと変わったけど、私は黙殺した。
「結婚するって決まっても、ちゃんと茉莉花さんと別れたかどうかなんて、わからないじゃない? 確かめる術はないし。それで、きちんと確かめたくて来てもらったの。それに、謝りたかったし。あの……茉莉花さん、ごめんなさいね? レンちゃんを取ったみたいになってしまって。そんなつもりはなかったの。でも私も二十九だし、将来のこととかも考えなくちゃと思ってた時に子供を授かったから……これも運命なのかなって思って」
運命。そんな言葉で片づけられてしまうのか。
謝罪の言葉なんて聞きたくはない。
会いたくなんてない。
そのことに、この人は気づいていないのだろうか。
片親はちょっと、と言ったその場所で目の前に座る人物には、もうずっと昔から父親しかいないことを、知っているのだろうか。
思考が状況に追い付かず、どういう反応をするのが正しいのか全くもってわからなかった。
深く息を吸った。肺を満たした空気の重さはいつもと変わらないはずなのに、胃を圧迫するように重かった。
「今後、吉田くんとは会いませんし、連絡も取らないとお約束します」
ゆっくりと言った。
それを自分にも、言い聞かせるように。
「吉田くん」なんて、生まれて初めて呼んだ。
でも、ここで彼を廉と呼ぶのは何か違う気がしたのだ。
「あら、そう? 別にね、連絡を取るなって言ってるわけじゃないのよ? 幼馴染みって大切な存在なんだろうと思うし」
言葉に反し、声に交じった興奮。
せめてここでは押し殺してくれないものか。そんなことを望むのは、身勝手だろうか。
私は黙ってクラッチから小さな輪っかを取り出し、テーブルにのせた。
今は別の輪っかが彼らの左手にはまっている。片割れを失った指輪を持ち続けるつもりはない。
「これをお返しします」
「もう、レンちゃんに対して未練はない?」
「ええ。大丈夫です」
「よかったわ! 妊娠中に元カノからの嫌がらせなんて来たら耐えられないと思って!」
彼女が明るく言い放った言葉に、目の前が真っ暗になった。
誰もが小声でやりとりをする高級なレストランの一角。個室もあるはずなのに、なぜ廉は普通のテーブル席をリザーブしたのだろう。こういう話をするのだとわかっていたはずなのに。
私たち3人の関係は、彼女の声の張り具合のせいでもう店中の人に知られてしまっているだろう。
動揺を噛み殺すためにお料理を口に入れてみたけれど、それが何なのか全然わからなかった。ただ、高級な料理はとろけるようになくなって、噛み締めるには柔すぎた。
早く食べよう。食べ終わろう。そして帰ろう。
ああ、だけど、手が震えて。
これ以上みじめな思いをしたくないから、食事のマナーくらいはきちんとしたいのに。
スプーンがお皿に当たる小さな音が響いて、いたたまれなくなったその時。
「茉莉花さんって、ハーフ?」
呼ばれた自分の名前に意識を戻した。
母がイタリア人とスペイン系アメリカ人のハーフなので、厳密に言えばハーフではないのかもしれない。でも、一応母の国籍はアメリカだったから、アメリカ人と日本人のハーフと言えば、そうなるのかな。
ぼんやりとそんなことを考えながらうなずいた。
「そっか、それで外人顔なのね。いいわね、ハーフだと。目が大きいし、かわいくなるし。英語も話せるの?」
ええ、まぁ、と頷く。
ハーフがみんな英語を話せるわけではないし、ハーフがみんな目が大きいわけではない。でもこの手のことはあまりにも言われ慣れていて、心のどこにも引っかからずに流れていく。
「私も自分の子供はハーフがいいなぁなんて思ってたんだけど、なかなかうまくはいかないわね。レンちゃんは純日本人って感じの顔だし」
うまくはいかない、か。
廉、彼女の第一希望じゃないみたいよ。
私の第一希望は廉だったのに。
うまくいかないのは、私の人生だ。
「うっ」
不穏な声がして彼女を見やると、えづくような仕草をして口元を抑えていた。
「かをり?」
ずっと黙っていた廉が彼女の背に手を当て、優しい仕草でそこを撫でた。
目の奥が爆発するかと思った。
黄色いもやが視界を覆う。
それでも私は、たぶん眉ひとつ動かさなかった。このときほど、自分の性格を有り難いと思ったことはない。感情を表に出すのが苦手な、この性格を。
「ちょっとごめんなさい……」
彼女は立ち上がってよろよろと歩き出した。
つわり……なのだろうか。
私の周囲にはまだ子供を産んだ友人はいないので、妊娠中の体の変調については一般的な知識しかなかった。
口元を抑える場面は、妊娠の兆候を示すシーンとしてドラマや本でよく登場するが、まさか自分がそれを目にする日が来るとは。それも、最悪の形で。自分がずっと心を預けてきた男性の子供を妊娠している女性のつわり現場になど、誰が遭遇したいものか。
襲い来る頭痛にじっと耐えていると、彼女の姿からレストランから消えてすぐに、廉が「茉莉花」と言った。いつもと変わらない、優しい呼び方で。
その声が耳に飛び込んできた瞬間に、私の心は決まった。
――ここには、いられない。
「廉、彼女の傍に行ってあげたら?」
「いや、でも……」
「私にはもう、廉と話すことはないから」
廉はなぜかひどく傷ついたような顔をした後、ふいと顔をそむけて立ち上がり、彼女の背を追いかけて行った。
どうして廉がそんな顔を?
傷ついたのは、廉じゃないはずなのに。
私は椅子の背にもたせかけてあったクラッチを持ち、中から白くて四角いものを取り出した。色鮮やかな水引のついた祝儀袋だ。ただの派手な封筒なのに2000円もした。これを百均のもので済ませなかったのは私の矜持だ。
席を立ち、ボーイさんに声を掛ける。
「これを彼らにお渡しいただけますか」
ボーイさんはただ黙って頷いた。
さきほどまでの会話がこの人に聞こえていなかったはずはない。
返す言葉が見つからなかったのだろう。
私だって自分で自分にかける言葉がみつからず、自分の感情の置き場所がわからずにいるくらいだから。
「それから、用事が出来たのでお先に失礼しますと伝えてください」
ボーイさんが再び頷いた。
立ち去ろう。
この場から。
過去から。
彼らの前から。
永遠に。