18 背筋を伸ばして
ヘーゼルの瞳。
笑うと垂れる目。
高い鼻に、大きな口。
彼女の表情はラルフによく似ている。
私がそう言うと彼女はにっこりと笑って、そして言った。
『ラルフはね、マリカと私がそっくりだって笑うの』
『そっか』
『でも、マリカはお父さんにもよく似てる。仕草とか、話し方とか』
『そうかな』
口下手なところは確かに父譲りなのだろうとは思っていたけれど、仕草が似ていると言われたのは初めてだった。
『あと、猫背なところも』
そう言われて私はあわてて背筋を伸ばした。
小さいころから周囲より身長が高かったせいで、肩を縮める癖がついてしまったのだ。同じように長身の父も、幼いころからの癖でつい猫背になってしまうと言っていた。
『お父さんに初めて会った日に、猫背だねって言ったんでしょう?』
父が母のことを語ってくれることはほとんどなかったけれど、酔っぱらったときに一度だけ、父と母が出会った時のことを教えてくれた。
仕事で海外に行ったときに、ちょうど旅行に来ていた母と同じホテルに泊まっていて、そこで出会ったのだと。そして出会ったその日に、父は母にほれ込んでしまったのだと言っていた。「屈託のない笑顔でズケズケと言いたいこと言ってくるところがね。なんだか新鮮で」そう言って父は笑っていた。
『離婚の理由、お父さんから聞いたよ』
私がそう言うと、彼女は急にくしゃりと顔をゆがめ、笑顔とも泣き顔ともつかない表情をした。
『私ね、マリカのお父さんのことすごく好きだったの』
その言葉に、なぜか私はすんなりとうなずくことができた。彼女の表情からそれが嘘ではないと伝わってくるせいだろうか。
あの日母のことを話してくれた父の表情はどこか切なげで、でもとても優しかった。父も彼女を本当に大切に思っていたのだということがわかるくらいに。
『辛く……なかった?』
別れるのは。
最後の一語は心の中で消えていったのに、それでも鼻の奥がツンとした。
『辛かった。後悔もした。何度も、何度も。今の夫と出会って結婚してラルフが生まれて……幸せだけど、それでもね』
うなずくだけで精いっぱいだった。
人の気持ちも運命も、ものすごく難しい。
『だからマリカに会えて、本当にうれしい』
『うん、私も』
私も、うれしい。
お互いを大切に想い合う二人の間に生まれた自分が、とても幸せな人間に思えたから。
愛情をもつことと、家族になること、それを続けていくことは、きっと同義じゃないのだろう。そこにはきっと、たくさんの努力が必要で。世の中に当たり前のようにあふれている「家族」は、どれも当たり前じゃない奇跡なのだ。
『お父さん、元気だよ』
私がそう言うと彼女は頷いた。
『知ってる』
知ってる?
『ときどきね、連絡を取っているから』
『え?』
そんなの初耳で、驚いてしまった。
『ラルフがマリカのおうちでお世話になることが決まってから、ときどきね。だって、息子のことをお願いしているのに、連絡ひとつ取らないだなんておかしいでしょう?』
『そうだったんだ』
お父さん、そんなこと一言も言わないから。
頑なに母を拒んでいた私には言えなかったのだろうけど。
『ラルフのこと、ありがとう。日本がとても楽しいって、いつも言っているの』
彼女がそう言ったので私は思わずくすりと笑った。
『どうしたの?』
バラしてもいいのだろうか。
『日本が楽しいのは、大学が楽しいのか、それとも……素敵な女性がそばにいるからか……』
そう言うと、彼女は目を輝かせて身を乗り出した。
あ、ほら。
こういう表情がラルフにそっくり。
『ラルフにはガールフレンドがいるの?』
ばらしちゃまずかったかな。
そう思ったけど、私はまぁいいや、とすぐに思い直した。
この間意地っ張り扱いされた仕返しにこれくらいばらしても、バチは当たらないと思うなぁ。
『うん』
『どんな人?』
『綺麗な人だよ。明るくて楽しくて、大人で』
『大人? もしかして、年上なの?』
『うん。私よりも年上』
『ラルフは歳の割に幼いのに、大丈夫なの?』
『だからいいのかも』
芹菜さんが大人だから、ラルフの手綱を握っている感じでちょうどいいのだとうと勝手に思っていた。
それに芹菜さんは時々とても無邪気な表情を見せるから。それこそ、まるでラルフと同じくらいの年齢に見えるくらいに。私はそんな芹菜さんを見ながら、なるほどこれがギャップというものか、と妙に納得していた。
無邪気で明るくて、でもしっかりと自分の足で立っている大人。
『それでそれで? マリカは、その人と知り合いなの?』
彼女は芹菜さんに興味津々だった。
それもそうか、やっぱり、気になるよね。息子の彼女。
『うん。もともと私の知り合いで、そこからラルフと……って感じだから。洋服のお店を経営していてね、このワンピース、見立ててくれたのはその人なの』
ワンショルダーのワンピースをつまんでちょっと誇らしい気持ちになりながらそう言って、すぐに「しまった」と思った。
彼女がおもむろに立ち上がったから。
『マリカ、私、行ってみたい』
え?
『その人のお店! ラルフのガールフレンドに会ってみたい!』
『いや、でも、突然行ったらたぶんびっくり……』
『大丈夫、それならこっそり行くから!』
こんなにそっくりの顔をして、こっそりも何も。
思いついたら即突っ走るその行動力も顔も弟にそっくりの彼女を何とか押しとどめ『とりあえず芹菜さんに電話で都合を聞いてみてからね』と言い聞かせる。
突然彼氏のお母さんがお店にやって来るなんて、普通は嫌なものだろう。
ところが芹菜さんの返事は「あら、私はもちろん構わないわよ。お会いできるのを楽しみにお待ちしていますって伝えてね」だった。
あれよあれよと言う間にというのは、こういうのを言うのかな。
彼女とともにタクシーに乗り込みながら、私は頭を懸命に整理していた。
おかしいなぁ。
二十数年ぶりの再会。
さっきまでもっとしんみりとした感じだったのに。
いつの間にか、こんなことに。
でも、しんみりしたままだときっと息苦しくなったから、いいのかもしれない。
タクシーの後部座席に並んで座り、隣で一生懸命日本語の挨拶の練習をしている彼女を尻目に、私は流れる街並みをぼんやりと見つめた。
彼女の手に握られた怪しげな小さな本には、日本語の簡単な会話例が載っているらしかった。「はじめまーして。ラルフのハハです」
母、という音がHaHaと聞こえて、その陽気な感じに思わず笑みがこぼれる。
芹菜さんは英語ペラペラだからそんな本いらないよって、教えてあげるべきかな。
彼女はぶつくさと練習を続け、私はそれを見ているのが楽しくて、結局彼女に芹菜さんの英語力についての情報を与えることなくタクシーはお店の前に到着した。祐樹さんがよく楽しそうにラルフや芹菜さんを観察している気持ちが少しだけわかるような気がした。
二人でタクシーを降り、お店の前にある3段の階段をあがってドアを押しあけると、すうっと冷気に包まれた。
冷房の効いた店内からすぐに人が現れる。
「いらっしゃいませ。あ、須藤様」
迎えてくれたのはあの日と同じ向井さんだった。
すぐに奥から芹菜さんも姿を現した。
いつもと変わらない穏やかな笑顔で、緊張をしている様子もなく笑いかけてくれる。
「芹菜さん、ラルフの母です」『キャット、こちら芹菜さん』
キャット、という呼びかたはまだ慣れなくて、なんだか変な感じ。
私が双方を紹介すると、彼女は目をかっと見開いて「はじめまーして。私の名前はカトリーナ・ブルックスです」と言いながら手を差し出した。芹菜さんよりも彼女の方がずっと緊張しているみたい。会いたいって言ったのは自分なのに。
そんな彼女のガチガチの挨拶に芹菜さんが流ちょうな英語で応じる。
『はじめまして。芹菜です。マリカさんにもラルフにも、いつもとてもお世話になっています』
右側から流れてきた恨めし気な視線をさらりと受け流し、私は笑いをこらえて下唇を噛んだ。
どうやら極度の緊張は日本語をうまく話せるかどうかという心配からくるものだったらしく、芹菜さんが英語を話せると知って相当安心したらしい。
『セリナさん、素敵なお店ですね』
英語が通じるとわかって自分を取り戻した様子の彼女は店中を見渡してそう言った。
『壁のアラベスクなんか特に』
この間ワンピースを買いに来た時に私が思ったのと同じことを、彼女が口にする。
DNAって不思議。
同じ場所で、同じことを思うなんて。
***************
それからの時間の刺激的だったことといったら。
彼女と別れた帰り道、私は一人で街中を歩きながら一人口角を上げた。
今日あったいろんなことが頭の中を流れていく。
お仕事中の芹菜さんの邪魔をしないようにと彼女と二人でお店の服をあれこれ見ながら二人で買い物をしたのがとても楽しかったこと。
『娘と一緒に買い物するの、夢だったのよ』という彼女の言葉に、それは私のセリフだよと思ったこと。
試着室に詰め込まれてあれこれと着替えながら、つくづく自分の体形にはインポートものが合うのだと気付かされたこと。
お店のレイアウトやディスプレイの方法を向井さんと話し合う芹菜さんに、彼女が一つだけ小さなアドバイスをしたこと。
『立体感を出すといいのかもしれない』
『立体感、ですか?』
『そう。高低差とかをうまく使うと、視線をぎゅっと引き寄せられると思うの』
『立体感……』
言われてみれば、確かにお洋服が並んでいる空間は平たんで、それほど立体感はない。
壁などには美しくコーディネートされた洋服が飾られていたけれど、よくも悪くも普通のブティックだった。
『たとえば……ココ・シャネルが座ってたみたいな階段を置くとか』
『階段?』
『と言ってもダミーのね。鏡張りの階段っていうのはちょっと手に入れるの大変だろうし、この内装ならアイアンワークの黒い螺旋階段なんて素敵かもしれない。中央にどんと置いて、その手すりに服をかけたり、段に靴を並べたりしてディスプレイするの。階段の周りには花やハットボックスを置くと時代感が出ていいかも。そして、目玉の商品を着せたマネキンを一体、階段に座らせるなんてどう? ココっぽくなるでしょう?』
ココ・シャネルというのは、あの有名なシャネルのことだろうか。
その手のことに疎い私には全然わからなかったけれど、芹菜さんには伝わったらしかった。
彼女の話に大きくうなずきながらお店を見渡して「ここに階段を……そしてこっちに……」と言っている芹菜さんの姿は、生き生きとしていて、そしてかっこよかった。
それに、彼女も。
好きなことを仕事にしている人というのは、こんなにもかっこいいのだ。
並んで立つ二人の背中を見ながら、自分の中でむくむくとやる気がわいてくるのを感じた。
いつかきっと。
あの二人と肩を並べてみたい。
そんな決意を新たに家路を急いでいた私が彼に気づいたのは、そして人ごみの中で彼も私に気づいたのは、偶然だったのだろうか。
「茉莉花さん」
「……池谷くん」
驚いて息を吸い込んだ拍子に彼女の移り香のジャスミンがふわりと香り、私は背筋をぐっと伸ばす。
その人物は随分と驚いた様子で私を見つめ、それからふっと地面に視線を落とした。
二人の間を足早に人が通り過ぎていく。
道の真ん中で立ち止まっているせいで、通り過ぎる時に迷惑そうな声を上げていく人もいる。普段だったらそんなことが気になって仕方なくて、すぐに肩を丸めて道の端っこに寄る私だけど、今は地面に根を張ったように脚が動かなかった。
池谷くんとはそれほど親しいというわけではない。数回、一緒に食事をしたことがあるだけの仲だ。それも、二人ではなく凜と三人で。
彼の気まずそうな様子を見るに、事情はすべて凜から聞いて知っているのだろう。池谷くんは凜の彼氏だから。
「あの、それじゃあ……」
私だって同じくらい気まずかった。
だから立ち去ろうと思ってそう声をかけたら、池谷君はハッとしたように顔を上げた。
「あの……!」
すがるようなその表情に、一瞬私はたじろいでしまった。
「凜、今、入院してるんです」
昼間とはまた違った、モヤリとした熱気が体を包み込んで、背中を一筋の汗が伝い落ちた。




