17 はじめまして
『マリカ?』
そう問われ、私はうなずいた。
そして目の前に立つ女性を見つめる。自分と同じヘーゼルの瞳と茶色の髪の毛。身長も、ほとんど同じくらいだろうか。
彼女はゆっくりと歩み寄ってきて、そして一瞬ためらうような様子を見せた。
『ハグしても、いい?』
震える声で問いかけられ、私は答えずに彼女を見つめた。
そして、一歩。
最後の距離は自分で詰めて、自分とよく似たその人をそっと抱きしめる。
ふわりと漂った香りに、鼻の奥がつんとした。
ジャスミン。
どうしてこの人は、この香りを選んだのだろう。
幼いころに父から聞いた、私の名前の由来。
父と彼女が初めて出会った国の国花。
『来てくれてありがとう』
彼女の言葉にうなずいてそっと離れると、その目がかすかに潤んで見えた。
『マリカ、ごめんね』
言われるだろうと思っていた言葉だったのに、どう反応すればいいかわからなかった。
首を縦に振るでも、横に振るでもなく。私はただヘーゼルの瞳を見つめ返した。
気にしてないよ、とは言えないし。許さない、と言うつもりもない。
『マリカに話したいことがたくさんあるの』
私だって。
私だって、ずっと話したかったことがたくさんあった。小さいころ、何度思ったか。
ホテルの中のカフェに入り、小さな丸テーブルをはさんで向い合せに腰かけて彼女の言葉を待った。
続く沈黙に落ち着かない気持ちにさせられる。
かといって目をそらしてカフェの内装を観察しようという気にもならなかった。
周囲にはたくさんの人がいるのに、その話し声や雑音は何も聞こえてこなかった。
鼓膜が振動するのを忘れたかのように、不思議な静寂に包まれる。
静寂を破ったのは私のよりも少し高い声だった。
『マリカ、元気だった?』
ほかに言葉が見つからなかったのだろう。わたしも、言葉が見つからないから。だから彼女の気持ちは痛いほどわかるのだ。それなのに、その言葉に私は泣きそうになった。
――いったい。
いつから、いつの話をしているのだろう。
幼いころから、今までのこと?
それなら、元気なときも、元気でないときもあった。
そのどちらも、私のそばに彼女はいなかった。
『わからない』
自分が意図した以上に固い声が出てしまい、はっとして彼女を見つめた。
――彼女。
私が元気なときも、元気でないときも、
健康なときも、熱を出したときも。
笑っているときも、泣いているときも。
彼女はそばにいなかった。
そばにいなかったその人を「母」と思うのは、想像以上に難しい。
『そう』
寂しそうに微笑まれ、胸がちくりと痛んだ。
別に拒絶したいわけではない。
傷つけたいわけでもない。
自分でも意外に思うほど、怒りは湧いてこなかった。
ただ、一足飛びに飛び越えるには、あまりにも大きな隔たりがそこにあった。
太平洋。
深くて、大きくて。
二十年以上もの間、私と彼女を隔てていたもの。
丸テーブルはこんなにも小さいのに、
私と彼女の間には太平洋がある。
小さい頃、地球儀を回しながら思った。
――あめりか、とおい。
その国はあまりにも遠くて。
地球儀の上で小さな手を目いっぱいに広げても、ちっとも届かないくらいに遠かった。
あれから長い長い時間が経った。
小さな女の子が大人になるくらいの長い時間。
今ならきっと、届くだろう。手を広げれば、親指に日本、小指に西海岸。きっとちゃんと、届くはず。
私はゆっくりと背筋を伸ばした。
みんなが褒めてくれたワンピースが、この人の目にはどう映ったのだろう。
ふいに、言葉が浮かんだ。
何よりもこの場にふさわしい、一つの言葉。
『はじめまして』
私はそう言ってテーブルの上に右手を差し出した。
『須藤茉莉花です』
彼女はハトが豆鉄砲を食らったような顔でその右手を見つめ、それからゆっくりと私の手を握った。
数秒、見つめ合う。
それから彼女は一度ぎゅっと目をつぶり、穏やかな声で言った。
『はじめまして、カトリーナ・ブルックスです。みんなキャットって呼ぶから、そう呼んでね』
私はうなずいた。
この人を今すぐに母と呼ぶことはできない。
でも、目の前に座る人と、今から新しい関係を築いていくことはきっとできるのだろう。
『キャット。たくさんの手紙をありがとう。返事を書かなくてごめんなさい。つい最近、読んだから』
『そう』
『プレゼントも』
『ええ。』
一瞬、彼女の視線が私の手首に流れたのがわかった。
その手首にブレスレットはない。
ドレスが派手だからほかはシンプルにとか、今の季節は汗をかくからアクセサリーにもよくないとか、そんな理由をたくさん並べたてて置いてきたのだ。
そこにこめられた思いの強さがわかるからこそ、それをこの身に受け止めるのが怖かった。
『マリカ。あなたのことを教えてくれる?』
彼女が言った。
『私の、何を?』
『仕事のこととか、友達のこと、趣味、それに……』
『自己紹介みたいだね』
わたしはふっと笑いながら言った。
でもそうか、きっとこれでいいのだ。
はじめまして、なのだから。
仕事はね、商社の事務職なの。
年齢は……知っているだろうけど……二十五歳。
もうすぐで二十六歳になるの。
趣味は特にないけど、昔から本を読むのが好きだった。
友達は……それほど多いわけではないけど、たまに会っても昔に戻ったみたいに楽しい時間を一緒に過ごせる大切な人が何人かいるの。
うん、私もそう思う。そういう友達は大切だよね。
それから、最近資格を取ろうと思って勉強してるの。
テキスト片手に勉強するのは大学以来だけど、自分の好きなことだから結構楽しんでる。
彼女は身を乗り出して、退屈なわたしの話に相槌を打つ。
その表情はラルフにもよく似ていて、何だか不思議な気持ちになった。
『あなたは?』
私が聞き返すと、彼女はゆっくりと話し始めた。
今はカリフォルニアに夫と夫の息子と一緒に暮らしていて。夫の息子って言っても、小さい頃から一緒にいるからもう息子だと思ってるけど。
つい最近彼が結婚したから、家族がにぎやかになったの。
彼はね、マリカの3歳年上、28歳なの。
お嫁さんはマリカと同い年。
夫はビジネスパートナーでもあって、二人で小さな会社を経営しているの。
――会社?
そう。
インテリアの企画とかデザインとか、いろいろ。夫は建築家なの。
夫が設計した家の内装を私が担当することも多くて、結構いいコンビなのよ。
――インテリア?
ええ、そうなの。
アメリカに戻ったあとに、インテリアのコーディネートとかデザインをする会社に勤めてね。夫とはそこで出会って。
10年前に独立して、二人で会社を立ち上げたの。
――インテリア。
ええ。意外だった?
『どうして……』
どうして、インテリアなのだろう。
彼女がアメリカに戻った後の職業など、私は全く知らなかったのに。
『私が取ろうとしてる資格は、インテリアコーディネーターの資格なの』
これには彼女も驚いた表情を見せた。
『インテリアに興味があるの?』
『すごく、すごく好きなの』
『そう』
彼女はほころぶように笑った。
その笑顔が、小さいときに擦り切れるほど何度も見た写真と同じで、私は不覚にも涙をこらえきれなかった。
あの写真では、彼女の腕の中で赤ん坊の私が眠っていた。
そのときの私にとって、この世界のどこよりも安心できる場所だったはずの、その腕の中で。
『私に、似たのかな』
彼女がぽつりとそういった。
『そうかもしれない』
きっと、そうだ。
彼女が差し出してくれたハンカチで涙をぬぐいながら、私は日本語で小さくありがとう、と言った。
「どういたしまして」
たどたどしい日本語が返ってきて、また涙が出る。
ハンカチから、本当にほのかに、ジャスミンが香った。




