16 芹菜さんとワンピース
仕事を終えて家に帰り、勉強がひと段落したところで私は大きく伸びをした。
ここに住み始めた当初は芹菜さんの生活を侵食するのが申し訳なくてほとんどの時間を部屋の中で過ごしていたけれど、芹菜さんが「居間を使っていいのよ!」といつも言ってくれるので、最近では居間に置かれたテーブルで勉強をすることも多かった。
――気分転換に掃除しようかな。
芹菜さんはお友達とお食事に行くのだとかで、遅くなると聞いていた。
テーブルの上に積まれたテキストを重ね、角をそろえようとして手を止める。テーブルが素敵すぎて、テキストをトントンするのが憚られたのだ。
雑然と積みあがった本を適当に手で整えてから、それを持っていったん部屋に置きに戻った。そして充電式のコンパクトな掃除機を持ち出し、居間から順番にかけてゆく。コードレスでパワーがあまりないけれど、夜に掃除をするには音も小さくてちょうどいい。
――それにしても。
掃除をしていると、いつもながらに思う。
この家にある家具はどれも重厚感があっておしゃれなものばかり。
きっと高級なんだろうなぁ。
重厚感のある木のテーブルに、革張りのソファに。
どれも普通の家庭ではなかなか見かけないものばかり。
四人家族でも暮らせそうなこのおうちは3LDKで、居間と続き間で和室があり、ほかに洋室が二つ。そのうちの一つを私が使わせてもらっている。
もともとは芹菜さんのお父さんの所有らしく、「私も家賃払ってないから、いいのよ」というので家賃すら払っていないのだ。ならばせめて、と家事を買って出ることにしたけれど、外食が多く、洋服のほとんどをクリーニングに出すのだという芹菜さんのために私ができることはほとんどなくて、結局こうして掃除をするくらいのことしか出来ていなかった。
廊下まで掃除機をかけ終わって、トイレットペーパーを三角形に折りたたんだところで芹菜さんが帰ってきた。
「ただいまー! あ、茉莉花さん、またお掃除してくれたの? なんだか申し訳ないわね。ありがとう」
「いいえ。これくらいしかできませんから」
小さいころから、忙しい父に代わって家事は私が担当していた。だから家事は全く苦にならないし、それどころか、何もしないでいると落ち着かないくらいだった。
それからもう一息勉強をして、お風呂に入ってから居間に向かった。
二人でソファに座ってコーヒーを飲みながらテレビを見つめる。つけてはいるものの、画面を見つめているだけで特にその番組をじっくりとみるわけでもなく、そこから流れる情報をぼんやりと受け取りながら過ごすこの時間が、私はとても好きだった。
そして今日は、いつもにも増して番組の内容が全く頭に入ってこなかった。
芹菜さんに話したいことがあって、どう切り出したものかと悩んでいたのだ。
ここ数日、言おう言おうと思って言いそびれていたけれど、今日こそは。
飲みかけのマグカップを握りしめ、私はゆっくりと声をかけた。
「芹菜さん、あの……」
「なぁに?」
芹菜さんが首をかしげた。
「お忙しくなかったらでいいのですが……」
「うん」
「もしよかったら、今度、お買い物に……」
「買い物?」
「そうなんです。月末に母に会うときに…たぶんホテルで会うことになると思うんですけど。私、ふだんはカジュアルな服ばかりで。きちんとした服っていうとスーツとかそういう感じなので……」
「そっか、じゃあ服を買いに行くのね!」
「はい」
「私でよければ喜んで付き合うわよ!」
よかった。
私はほっと胸をなでおろした。
ただ買い物に誘うだけなのにこんなに緊張するなんて。
友達とご飯を食べるのも、廉と出かけるのも、私から誘うことはほとんどなかった。いつも誘ってもらって、それに喜んでついて行って。
だからこれは、私にとって一歩なのだ。ありんこ並みだと言われても、私にとっては大きな一歩。
「どんな服がいいとか、考えてる?」
私がふるふると首を振ると、芹菜さんはんーっと考え込むような仕草を見せた。
「茉莉花さん背も高いし、どんな服でも似合いそうだけど…どんなのがいいかしらね。ホテルでお食事だと、ワンピースとか……」
「……あの! あの、私……」
「うん」
「あの、芹菜さんが、着てるみたいな、大人っぽい服が」
言いながら、のどの奥で「んぐっ」という変な音がした。
私にはそれだけ言うので精一杯で、いつもおしゃれな服を着ている芹菜さんにちょっと憧れていたなんて、恥ずかしくて言えなかった。
「あら」
お仕事柄というのもあるのだろうけれど、芹菜さんの服はいつだってとても素敵だった。シックな色遣いの服もあれば鮮やかなものもあって、でも基本はシンプルで。ストールとかアクセサリーとかバッグとか、そういう小物まできっちりと計算されているのだ。
芹菜さんはふんわりとほほ笑んだ。
「やだ、なんかすごく嬉しいわ」そういってから、いたずらっぽく片目を細める。「じゃあ、うちのお店に来てみる?」
「え?」
「ゆっくり選べるし、私がふだん着てるのは大概うちのお店にも置いてる服だから。それなら、茉莉花さんのお仕事帰りに寄ってもらえればいいし。いつでも大丈夫よ。明日でも、明後日でも」
「いいんですか?」
「もちろん」
その言葉に甘えて翌日訪れた芹菜さんのお店は、天井が高くて開放感のある明るい空間だった。白と黒を基調とした内装で、壁紙にはアラベスク模様があしらわれている。
「こんばんは、あの……」
お店に入ってすぐに寄ってきてくれた女性の店員さんに芹菜さんの居場所を聞こうと声をかけたら「もしかして須藤様ですか?」とすぐに返ってきた。うなずくと、店員さんはにっこりと笑う。
「窺っています。こちらにどうぞ」
芹菜さんが言っておいてくれたのかな。
店員さんの後ろにくっついて店内を奥に進み、店員さんが“Staff Only” と書かれた白いドアをトントン、と叩くと、中から「はーい」という声が返ってきた。
「オーナー、お客様です」
コツコツ、と音がしてドアが開き、芹菜さんがひょっこりと顔を出す。
そっか、芹菜さん、オーナーって呼ばれてるんだ。かっこいい。
「いらっしゃい、茉莉花さん」
「あ、はい」
はい、って言った後で、あれ、「いらっしゃい」って言われたら何て返すのが正しいんだろうと思った。「来ました」でもなく、「こんにちは」、でもなく…
「茉莉花さん、好きな色はある?」
芹菜さんの声に思考を引き戻されて好きな色を考えてみるけど、すぐには思い浮かばない。
「ええっと……」
黒は好きだけど、この季節に黒ってちょっと暑苦しいかなぁとか、
茶色も好きだけど、やっぱり暑苦しいかなぁとか、
グレーだと汗をかいた時に悲惨だなぁとか、
白っていうのも着るには勇気のいる色だしなぁとか、
そんなことをぐるぐると考えた末に出てきたのは、「紺」だった。
結局暑苦しい色じゃない、と自分で思いながら言うと、芹菜さんはウンウンとうなずいた。
「紺ね、了解。そうねぇ、紺だと……今の季節なら、明るい色のジャケットを羽織ってもいいかもしれないわね」そういってから店員さんに向き直り、きびきびと指示をだす。「向井さん。コンパニーア・イタリアーナのワンピースと……あと、ステファネルの新作と、それからミリーの紺色のワンピースと……あとは……ダイアンのラップワンピース持ってきてくれる?」
向井さん、と呼ばれた店員さんが芹菜さんに「はい」と言い、私に「ちょっと失礼しますね」と言ってささっと歩み去って行った。
うわぁ、かっこいい。
社会人3年目、部下のいない私には、芹菜さんの姿はとってもまぶしく映った。
5年後くらいには、私もこんな風にきびきびと働けるようになるだろうか。
ううん、そうじゃない。
「なれるかな」、じゃなくて、「なりたい」。
「茉莉花さん、荷物重いでしょう? そこのソファに置いといていいわよ」
「えっあの、大丈夫です」
「いいのいいの、遠慮しないで。お客様なんだから」
「あ、はい、じゃあ」
テキストが入っているので確かにずっしりしているけれど、高級そうなソファに重いカバンを置くのは何となく気が引けて、ソファの脇にそっと置いた。
「素敵なお店ですね」
そういうと、芹菜さんはお花みたいに笑う。
「ありがとう。まだ移転したばかりで落ち着かないんだけどね。ディスプレイにもうちょっと個性を出したいけど、難しいのよね。いつか茉莉花さんがインテリアデザイナーになったらうちのお店の内装もデザインしてもらおうかしら」
「はい、是非」
どれほど先になるのかわからないけど、いつかそんな日が来たらいいなぁ。
とりあえずは、コーディネーターの資格を取ることからだけど。
そう思って気合を入れなおしたところで、服を抱えた店員さんが戻ってきた。
「合いそうなジャケットもいくつか持ってきてみました」
「あら、いいじゃない。茉莉花さん、この中でどれか気になるのありそう?」
どれか、というか。
どれも素敵。
だけど、全然わからない。
こんなにおしゃれなワンピースなんて、着たことないから。
一度だけ廉とかをりさんに会った日に着た黒いワンピースは、あれ以来見てすらいない。
「ピンと来るの、なさそう?」
芹菜さんが心配そうに声をかけてくれたので、私はあわてて首を振った。
「そうじゃなくて、どれも素敵で……」
「そう、よかった。もし疲れてなかったら、試着してみない? こうやって見るのと、着て見るのだとまた全然印象が違うから」
「はい」
試着スペースに案内され、三面を鏡に囲まれて恥ずかしくなりながら着替えをする。
自分の後ろ姿をじっくり見る機会なんてなかなかないので、背中にこれまで知らなかったホクロを発見して驚いた。
「どう?」
カーテンの外から問いかけられ、あわてて裾を整えてカーテンを開けると、芹菜さんと向井さんが揃って立っていた。
4つの目にじっと見つめられて、照れてしまう。
「あら、いいじゃない」
芹菜さんのその言葉通り、ワンピースはとても素敵だった。
体にもぴったり。
「やっぱり茉莉花さんスタイルいいから、インポートものでもぴったりね」
というかむしろ、インポートものの方が体に合うのだろう。
芹菜さんに促されてくるりと回りながら、鏡に映った自分の姿を見て思った。
背が高くて、肩幅も広いから。
「いいなぁ」
後ろから聞こえた声に驚いて振り返った。
「あ、ごめんなさい。心の声が出ちゃいました」
ペロッと下を出して、店員さんが笑う。
「私背が低くて、なかなか似合う服がないんですよ」
「私もそうよ。うらやましいわよね」
「あ、オーナーもですか」
「ええ」
店員さんと芹菜さんのやり取りに恐縮しながら、私は鏡の中の自分を見つめていた。
少し緑がかったヘーゼルの瞳。
彫の深い顔。
メイクの仕方も似合う服も、周囲の友達とは全然違っていた。
「すごく、嫌だったんです」
ぽつりと言うと、芹菜さんと向井さんが背後で驚きの声を上げた。
「やっぱり、みんなと同じがいいじゃないですか」
芹菜さんと向井さんは顔を見合わせ、同時に首を振る。
「私は何とか目立とうと思って苦労してたわよ」
「私もですよ。奇抜な服着たりして」
「そうそう、高校生の頃の私服なんて、何考えてんだろうって感じよ。当時はまだ今ほどカラコンが流行ってなかったから、周囲にぎょっとされたりして。髪もすごく明るく染めてたし」
「私は逆に、黒く染めてました」
それほど人数の多くない中学校で、浮くのが嫌だったから。
芹菜さんと向井さんは驚いて言葉を失っていた。
そして二人そろって鏡越しに私を見つめるので、ジワリと背中に汗がにじんで焦る。
これ、売り物の服なのに。早く着替えなくちゃ。
そう思ったところで向井さんが声を出した。
「私が須藤様の容姿に生まれていたら、調子に乗って性格が悪くなりそうなくらいなのに……」
「あら、今でも十分悪いわよ」
「ちょっと、オーナー」
「うそうそ」
「ひどいですよ」
二人のやり取りがおかしくてクスリと笑うと、芹菜さんが私をじっと見つめた。
「不思議なものね。私からすれば、茉莉花さんはうらやましいものをたくさん持ってるのに。そんなものかしらね」
なんだ、そうなのか。
そんなふうに思うのは私だけじゃないのか。
「そういえば、言われたことがあるわ」
「え?」
「胸が大きくていいですねって。でも、私にとってはずっとコンプレックスだったのよ。服も選ぶしね」
「そうなんですか」
「大人になるにつれてうらやましがられることも増えて、ああそんなに悪いことばっかりじゃないのかなって思えるようになったけど。きっとそれと同じね」
私はうなずいた。
入口のドアが開いた音がして、向井さんが「あ、私行きます」と言って入口の方へ向かった後も、私は鏡の前にぼんやりと立っていた。
そっか。
ワンピースにぴったりとおさまった肩幅は、たしかにそんなに悪くないように思えた。
「オーナー、お客様です」
向井さんの後ろについて姿を現したのは祐樹さんだった。
「祐樹、遅かったわね」
「ごめん。最後の患者さんがちょっと長引いて」
祐樹さんがさらりと言うと、向井さんは芹菜さんを肘でつっついた。
「オーナー、彼氏さんですか?」
「あら、ちがうわよ。弟よ」
芹菜さんはそう言ってこっそり私にウインクした。
芹菜さんの彼氏は、ラルフだから。
初めてそれを聞いたときは驚いたけど、そういえば遊園地に行った時から、彼らはとっても気が合う二人組だったのだ。
「はじめまして、向井です」
「はじめまして、風間です。茉莉花さん、こんばんは」
「こんばんは、祐樹さん」
「あのね、どうせだったら男性の意見も聞いてみようと思って祐樹を呼び出したのよ」
「俺に女性の服のことを聞かれても全然わからないんだけどね」
そういって苦笑しつつも、祐樹さんは少し首を後ろに引くようにして私の姿を見て「すごく似合ってる」と言ってくれる。
「あら、まだこれ、一着目よ。こんなもんじゃないわよ」
何がこんなもんじゃないのかよくわからなかったけど、芹菜さんに渡される服に次々に着替えてはカーテンを開け、その度に三人三様の褒め言葉をくれるので、途中からなんだか楽しくなった。
「あの、お店、大丈夫なんですか」
たぶん10着目くらいの服を着たところで、ほかのお客さんは大丈夫なのだろうかと思って聞いてみると、芹菜さんが肩をすくめた。
「全然大丈夫よ。もう閉店時間過ぎてるから、さっきクローズしたの」
「えっ? あの、ごめんなさいっ!」
「ああ、違うのよ。最初からそのつもりだったの。その方がゆっくりできるし」
「あの、でも、お片付けとか。向井さんとか……」
「私は好きで残ってるんですよ! なんかモデルさんの着替え見てるみたいで楽しいですから」
「向井さんはね、ファッションデザイナーの卵なのよ。だから、服を見るのが大好きなの」
「あと、きれいなお姉さんも大好物です」
よだれをぬぐう仕草をしながらそんなことを言うので、思わず笑ってしまった。
きれいなお姉さんだなんて。
「どれも素敵だけど、全部似合うからこそ、むしろ決め手を欠くわね」
もう何着目かわからなくなったところで、芹菜さんが眉間にしわを寄せて言った。その隣で向井さんも難しい顔をして私を眺め、祐樹さんは楽しそうにそんな二人を観察している。
「あの、オーナー」
向井さんが顎に手を当てて言った。
「なぁに?」
「全然紺色じゃないですけど、あのワンピース……」
「ああ、あれ……」
そう言ってから二人は顔を見合わせ、大きくうなずいた。
「茉莉花さんなら……!」
「私、とって来ます!」
そう言って向井さんはStaff Onlyのドアの向こうに姿を消した。
「あのね、すごく素敵なワンピースがあるの。買い付けに行ったときに一目で気に入ったんだけど、なかなか良い巡りあわせがなくて」
戻ってきた向井さんの手にしっかりと握られていたのは、真っ赤なワンピースだった。地模様が入っていてとても素敵。
だけど、赤。
それはあの日、私がつけていた口紅と同じ、ジャスミンレッド。
私に、似合うだろうか。
「着てみて、茉莉花さん!」
押し込まれるようにして試着室に入り、着替えてみて驚いた。
思ったよりずっと似合っている。
ドキドキしながらカーテンを開けると、芹菜さんが息をのんだ。
向井さんは笑い、祐樹さんもうなずく。
「茉莉花さん、素敵! どう? そう思わない?」
「あの、はい」
思ったより、というよりも、本当に。
タイトなシルエットの膝丈ドレス。
不思議と窮屈な感じはなくて、体にぴったり。
「ワンショルダーのドレスって着こなすのが難しいのよ。それにこの色も。服の主張が強すぎて顔がぼやけちゃうから。でも茉莉花さんにはぴったりね。サイズも、色も、かたちも。似合う人に巡り合えてよかった」
芹菜さんがそんな風に言ってくれるので、私は一層うれしくなった。
「一気に華やぐね」
そんな祐樹さんの言葉も。
そして向井さんの「いいですねぇ……これ、いいですねぇ……!」という感嘆の声も。
どれもが少しずつ力をくれて、鏡に映った私はぴんと背を伸ばして立っている。
肩幅や身長を気にして過ごすうちにすっかり猫背になってしまったふだんの私からは信じられないくらい、誇らしげで。
そんな自分の後ろに立っている三人を見てから、どうして今日芹菜さんがこの場所に祐樹さんを呼んだのか、わかった気がした。
きっと「おだて要員」だ。
それがわかっても、おだてられた私はすっかりその気になっている。
私はもう一度鏡に映った自分の姿を見てから振り返り、芹菜さんに微笑んだ。
「これにします」
そして迎えた八月末、私はそのワンピースを着て、待ち合わせ場所のホテルに向かった。
高鳴る鼓動も、履きなれないハイヒールも、タイトなワンピースも。
あの日と同じ。
なのに、全然違う。
『マリカ……』
声をかけられ、私はゆっくりと顔を上げた。




