15 母と父と
翌日、父から一通のメールが届いた。
〈茉莉花
ラルフから少し話を聞いたよ。
今日の仕事帰りに、久しぶりにふたりで夕飯を食べないか。
父より〉
父からメールが届くことなんて稀だったし、二人で外食をするのも久しぶりだったけれど、その席で話題にのぼるであろうことを思うとそれほど明るい気持ちにはなれなかった。
仕事帰りに深呼吸をして待ち合わせ場所の駅に向かうと、父はすでにそこに立っていた。私には気づいていない様子で、時計を見たり携帯を見たりというせわしない動作を繰り返す。
お父さん、何か緊張してる。
かくいう私も、さっきからもう何度深呼吸をしたかわからない。
――やっぱり親子だなぁ。
父の様子が何となく微笑ましくて、少しだけ心が軽くなった。
「勉強は進んでいる?」
連れだって入ったレストランで父は開口一番そう言った。
いきなり本題に入る心の準備は、父もまだできていないみたい。
「うん、まぁまぁ、かな。順調と言うほどでもなく、全然できていないと言うわけでもなく」
そう言うと、父はそうか、と言ってからゆっくりと目を逸らし、運ばれてきた料理を食べることに取り掛かった。
ほどなくして私の注文したソーセージも届き、マスタードを付けてかじりついた。
かたい皮がぷつんと破れ、中からじわり、熱い肉汁が漏れる。口の中に広がるスパイスはピリリと辛く、肉の味を引き締めてくれる。
食べながら父の言葉を待ったけど、注文した料理を食べ終わる頃になってもまだ、父は話し出そうとしなかった。
こういうときに時間がかかるのは私も同じだから、父の気持ちが手に取るようにわかった。切り出しかたも、伝えかたも、きっとまだ父は見つけられずにいるのだろう。
私は父の準備ができるまでレストランの内装を観察して過ごすことにした。
店内の照明は全体に暗く、年代を感じさせる木材と白い壁を組み合わせた落ち着いた空間で、高い天井でシーリングファンが優雅に回っている。そして窓の外には、大きなプランターに植えられた赤い花が咲き誇っていた。
――力強いなぁ。
花を見ながらそんな風に思ったところでようやく、父が覚悟を決めたように息を吸った。
「あのね、茉莉花」
私はすっと背筋を伸ばし、父の方を向く。
「いつかちゃんと話をしなくちゃと思っていたんだ。本当は茉莉花が結婚して、母親になったら話そうと思っていたんだけどね。お母さんとお父さんのことを」
私は小さくうなずいた。
父の黒い目が私をじっと見つめている。
「ごめんね、茉莉花」
父の口から最初に飛び出したのは、謝罪の言葉だった。
「え?」
どうしてお父さんが謝るのだろう。
「お父さんは悪くないよ」
だって、出て行ったのはお母さんなのだから。
「僕らの結婚生活がうまくいかなかったのは、僕ら二人の責任だからね。茉莉花が寂しい思いをしたのは、お父さんのせいでもある」
ううん、と言いながら私は軽く首を振った。
男手ひとつで私を育てるのに父がどれほど苦労したか知っているから。
離れたところで暮らす祖父母を頼るわけにもいかず、吉田家にお世話になりっぱなしというのも申し訳ないと、父はできる限りのことをしてくれた。
そんな父に対しては、感謝の気持ちしかない。
「アメリカで生まれ育った彼女が日本語も苦手なまま日本で暮らし始めることの大変さを、僕は甘く見ていた。子育ての仕方だって、やっぱり違うからね。そうやってお母さんは少しずつ苦しんでたんだよ。慣れない環境で、初めての子育てで」
そう言ってから父は私の顔を見て、「ああ、そういう意味ではないよ」と付け足した。
「茉莉花を育てるのに苦しんでいたって言いたかったわけじゃない。茉莉花は小さい頃から手のかからない子だったし。ただ、子供を育てるっていうのはものすごく大きな責任をともなうからね。誰もがプレッシャーだとかそんなことを感じるんだよ。苦しみはそのせいだ。茉莉花のせいじゃなく」
「そっか」
「そのことに、お父さんは気づいてあげられなかった。お母さんは茉莉花とお父さんを捨てたんじゃない。日本での暮らしを捨てたんだよ」
「それって…」
「同じように思えるけど、全然違うだろう? あの時お父さんは、ここでの暮らしが限界だと言って泣き出したお母さんに、アメリカに一緒に行こうとは言ってあげられなかった。仕事のことや茉莉花のこと、色々と思って。でも、もし言っていたら…僕らは今でも一緒にアメリカで暮らしていたかもしれない。そうしたら、茉莉花はお母さんを失うことはなかったんだよ。茉莉花、だから、すまない」
「ううん」
母は、日本での暮らしを捨てた。
私を捨てたわけじゃなく。
その違いがどれほど大きいものなのか、実のところよくわからなかった。
だけど、ほんの少しだけ胸のつっかえが小さくなった気がした。
「……お父さんも、思う?」
「え?」
「お母さんに会った方がいいと思う?」
私が尋ねると、父はゆるく微笑んだ。
「……どうかな。茉莉花の好きなようにするといいよ」
「意地を、はりすぎかな?」
「ラルフから言われたことを気にしてるんだね」
「うん、たぶん」
それに、自分が妙に頑固だという自覚はあったから。
「ラルフとは昨日の晩に話したんだけど、言い過ぎたって言ってたよ。茉莉花の気持ちを全然考えてなかったって」
私は頷く。
父のメールより少し前にラルフからは謝罪のメールが届いていて、そこにも同じようなことが長々と綴られていた。日本語だと気持ちをきちんと伝えきれないかもしれないからと時折英文の混じるそのメールはとても読みにくく、実のところかなり閉口したけれど、ラルフの気持ちは確かに伝わった。
「うん。もうラルフのことはそんなに怒ってないんだけど、ただ……」
「うん」
「突然で」
「そうだね」
「今すぐには」
「そうだろうね。お母さんだって、茉莉花が自分に会いたがらないだろうってわかってるはずだよ」
「そうなの?」
そう言うと、父は一瞬苦笑いを浮かべた。
「まぁ、カードに返事が一通も届かない時点でわかるだろう」
私も苦笑を返す。
「そうだよね」
読んだことすらないカード。
開けたことのないプレゼント。
それを突っ返すほど憎んでいるわけではなく。
かといって、それを喜べるほど単純でもなく。
「難しいね」
「そうだね」
そう言って父がすまなそうな顔をするので、私もなんだか申し訳なくなった。
「誰かが悪いっていうのとは、きっと違うんだよね」
母だってきっと悩んで。
父も苦しんで。
私も、寂しくて。
「ラルフだって、きっと」
私が言うと、父は小さくため息をついた。
「伝え方を間違ったとは思うけどね。ただ、ラルフはラルフで小さい時からお母さんとずっと一緒に過ごしてきたわけだから。お母さんの気持ちをつい慮ってしまうのは仕方がないのかもしれないね」
「そうだよね」
同じことも、立場が違えば感じ方はそれぞれで。
だからこそ、難しいのだ。
「お父さんは、嫌じゃない?」
「何が?」
「私がお母さんにもし会うとしたら」
これは、本当はずっと気になっていたこと。
父が母のことをどう思っているか、ずっとずっと前から知りたかった。ただ、その話をどうやって切り出せばいいのかわからなかっただけで。
父方の祖父母はあからさまに母を嫌っていた。
だから結婚に反対したのに、言わんこっちゃないって。
成長するにつれ母に似ていく私を見て、「お母さんに似てきたね」とも言った。
それを結び付ける気なんて祖父母には全くなかったのだと思う。
その証拠に、いつ会いに行っても彼らは優しかった。
田舎で農家をしているせいで会いに来ることができない代わりにと、お米や野菜を送って来てくれることもあった。
だけど私はつい、つなげてしまったのだ。
祖父母は母が嫌い。
私は母に似ている。
嫌な公式が出来上がって、鏡を見ながら幼心に憂鬱な気持ちになったものだ。
「嫌じゃないよ。茉莉花がそれを望むなら」
「ほんとうに?」
「ほんとうだよ。それに……」
そう言ってから父は何か一瞬迷うような様子を見せた。
どうしたの? という意味を込めて首を傾げると、父は一度大きく肩で息をした。
「茉莉花がいい子に育ったからね。ちょっと自慢してやりたいくらいだよ」
予想外の言葉にうっかり涙が出そうになった。口下手な父が、まさかそんなことを言い出すなんて。
「手紙を読んでみようかなぁ」
私は小さな声で言いながら水の入ったグラスの外側の水滴を掌でそっと拭った。
冷たい感触が気持ちいい。
濡れた手をおしぼりで拭ってから顔を上げると、父が微笑んでいた。
「あ、でも何か癪だから、ラルフには内緒ね」
その言葉に、父は声を上げて笑い、力強くうなずいた。
そしてその週末、私は久しぶりに実家に戻ってクローゼットを開け、そこに押し込まれていた段ボールを引きずり出した。
中には色とりどりの封筒たちと、小さな箱。
たくさんの封筒の中から一番最近のものを取り出して封を切ると、嗅ぎ慣れない不思議な香りが一瞬ふわりと漂った。
――茉莉花、お元気ですか。
手紙を開いて驚いた。てっきり英語で書かれているものだとばかり思っていたそれが、日本語で綴られていたから。
へったくそな漢字。
何かを見ながら一生懸命書いたみたいな。
バランスがおかしくて、なんだかとてもコミカルで。
あまり日本語は得意じゃなかったという母だから、きっとこのカードのために一生懸命漢字を覚えたのだろう。
時間は早いね、
あなたはどんな風に大きくなった?
あなたはべっぴんさんになった?
あなたはパパ似てかわいくなった?
このカード、ママがDIY!
かわいい?
最近cardmakingがすき、
あなたは何が好きですか?
パパはとても不器用な男だった。茉莉花も?
2月終わり、茉莉花の弟日本行きます、
ミナトクにある学校で、1年間留学生。
もしかしたら、会うかな?
どうかお元気でお過ごしくださいね。
Mom.
変な日本語。
一文一文に、おもわずクスクスと笑ってしまった。
時折挟み込まれるやけに丁寧な文章は、どこかから探してきた例文でも書き写したのだろうか。
「お父さん、不器用な男だって言われてるよ」
ひらひらと手紙を見せると、父はそれを受け取って読みながら笑った。
たしかに、私と同じ口下手で、器用ではなさそうだけど。
「ああこれはたぶん、手先の話だよ。不器用な男って言うと、なんだか別の意味に聞こえるけどね」
「え?」
「その前にカード作りの話してるだろう? そこから、手先が不器用って話につながってる」
「なるほど」
さすが父。一度は自分の奥さんだった人のことだから、このめちゃくちゃな文章でも何が言いたいかわかるらしい。
それから半日ほどを費やして手紙をすべて読み切った。
手紙の内容はどれもさほど変わらないけれど、時をさかのぼるほどに日本語が下手になっていくのが面白くて、退屈せずに最後まで読むことができた。
内容が変わらなかったのは、プレゼントも同じ。
その意味が、一番最初の手紙に綴られていた。
「毎年ひとつずつ、大人になったら全部で一つ」
箱の中にはひとつずつ、華奢なチャームが入っていた。
毎年ひとつずつ増やしていって、大人になるころにブレスレットチャームとして使うもよし、ペンダントトップとして単体で使うもよし。
そんな風に思って、これを贈ってくれていたらしい。
手紙を読んでも、寂しかった時間が埋まるわけじゃない。
だけど、きまぐれではなくて、私が大人になるまで毎年プレゼントを贈り続けようと最初から決めていたということが、そしてそれを今までずっと続けてくれたのだというその気持ちが、とても嬉しかった。
「このデザイン、好きだなぁ」
小さな小さな石が控え目に光るチャームを光にすかし、一人で呟いた。
母は、どんな気持ちでこれを選んだのだろう。
私の好みなんてわかるはずもないのに。
ふいに、知りたくなった。
「会ってみようかなぁ」
五日後、ぽろりとこぼした私の言葉にラルフは飛び上がって喜んだ。




