14 母と廉と
パクン。
もぐもぐ。
ごくん。
ポリポリ。
ごくん。
サクサク。
ごくん。
カリカリ。
ごっくん。
『ふぅ』
ため息交じりの声に、私はただでさえうつむいている顔をさらに下に向けた。
『そろそろ、いいかしら』
呆れたような声。
私はうつむいたまま、自分の手元のお箸を見つめた。
芹菜さんに腹を立てているわけじゃないから、その言葉に反応しないのは申し訳ないような気がして、でもここで自分が折れるのは癪で、どうしようかと迷っていると芹菜さんがもう一度言った。
『そろそろいい? 何があったのか聞いても』
芹菜さんの言葉に応じるように、低いため息が聞こえた。
『マリカが意地をはってるだけだよ』
その言葉に私は顔を上げた。
目の前には自分と同じ色の目をした弟が座っている。
ラルフと芹菜さんが付き合い始めてからと言うもの、ラルフは何かと理由をつけては芹菜さんの家であるこの場所に遊びに来ていた。
今日も、仕事を終えて帰るとラルフがいて、二人で芹菜さんの帰りを待っていたのだ。
『意地なんか張ってない』
『張ってるじゃないか』
『張ってないったら』
終わりの見えない言い合いに、芹菜さんがやれやれといった様子でお箸を置いた。
「茉莉花さんがこんなに怒るなんて、ラルフ、あなた一体何をしたの?」
発端は、芹菜さんが帰ってくるほんの少し前のこと。
『マリカ、月末にマムがこっちに来ることになったんだ。マムはマリカに会いたがってるんだけど、会ってみない?』
ラルフから唐突に言われ、私はゆっくりとテキストから顔を上げた。
すでに季節は真夏を迎え、試験はだんだん近づいている。通勤時間やお昼休みも勉強にあてて何とか仕事と両立しようと頑張ってはいるけれど、もともとあまり要領がよくないせいか、決して順調とはいえない状況だった。
『マリカ? 聞こえてる? 返事は?』
――お母さんが日本に? そして私に、会いたがっている?
そんなはずはない。
だって、私を置いて彼女は去ったのだ。
私と父親を残して自分の国へ帰ってしまった。
『今月末なんだけど』
忙しいのに。勉強だってしなくちゃいけないし、それに。
今でも恨んでいるかと言われればそういうわけではない。
でも。
いまさら会いたくもない。
だって、会ってどうするというのだろう。
謝られるのだろうか。
「あなたたちを捨ててごめんなさい」って?
そんなことで、去って行ったことを帳消しにしてほしくはない。
『ううん、会わない』
私が答えると、ラルフはむっとした様子で腕組みをした。
『どうして? マムは会いたがってるんだよ』
どうして? って。
会うのが当然だとでも言いたげなその様子に、無性に腹が立った。
蒸し暑いし、勉強は進まないし。
『だって、そんな今さら』
『マリカ。いつまでマムを拒む気? マムはカードだってプレゼントだって毎年……』
ラルフの語調が強くなってきたところで、私も負けじと言い返した。
『ラルフには関係ないでしょ』
途端にラルフのヘーゼルの瞳が不機嫌に揺れた。嫌になるほど自分と同じ色の瞳。そしてきっとこれは、母から譲り受けたもの。
そこで芹菜さんが帰ってきたので、その話はいったんやめにして夕食を食べることになったのだ。だけどラルフも私も不機嫌で一言も話そうとせずに黙々と箸を口に運び続けたため、しびれを切らした芹菜さんがついに口を開いた。
『マリカがマムに会わないって言うから』
ラルフがぼそりと言い、芹菜さんは肩で大きく息をした。
『ラルフ』
芹菜さんはたしなめるようにそう言って、私の顔を心配そうにのぞきこんだ。芹菜さんの穏やかな目で見られると、何だか自分がすごく子供っぽいことをしている気がしてきて、私はなおもうつむく。
『ラルフには関係ないでしょ』
私がもう一度その言葉を繰り返すと、ラルフはぶんぶんと首を振った。
『マムは僕のマムでもあるんだから、関係なくないよ!』
その言葉がぐさりと胸のどこかに突き刺さった。
もう随分と、考えるのをやめていたこと。
――僕のマムでもある。
私の母は、ラルフの母でもある。
本当にそうだろうか。
私に母なんていたのだろうか。
幼いころ、どれほど願っても会えなかった人。
最初から彼女は、ラルフだけの母だったのではないだろうか。
『ラルフにはわかんないよ』
八月に入り、うだるような暑さが続いている。そのせいもあるのだろうか。体の内側からこみあげてくる不愉快な熱は、頭を通過するより先に口から飛び出してゆく。
『お母さんもお父さんも、お兄さんだって。当たり前にいたラルフには、私の気持ちなんてわかるわけない』
家族写真の背景が灰色だって、普通の人は知っているだろうか。
家族が少ないと、背景がやたらと目につくのだ。
父と二人きりの家族写真は、いつだって灰色だった。
お父さんとお母さんがいて、兄弟がいて。
そんな家族写真の中でにこにこと笑っていたこの弟には、きっとわからない。
『でも、マリカが会いたくないって言ったらマムはきっと傷つくよ』
ラルフの言葉に、思わず笑ってしまった。
『傷つく? 会うのを断られたくらいで傷つくなんて。自分は子供を捨てたのに』
捨てた。
その言葉を口にした瞬間、視界がゆるゆると揺れた。
『でも、マムは毎年マリカにカードを送り続けたじゃないか!』
『カードくらいで帳消しになると思う? 今更会いたいなんて言われたくらいで、消えると思う? 小さい頃、どれだけ寂しかったと思うの』
学校の参観日、誰も来てくれないのがどれだけ悲しかったか。
吉田のおばちゃんが廉と凜の教室を回る合間を縫って覗きに来てくれたのが、どれだけ嬉しくて、どれだけ切なかったか。
バレンタインにお母さんに手伝ってもらってチョコレートを作ったという友達の話が、どれだけうらやましかったか。一緒に服を買いに行って喧嘩をしたという話さえ、私には眩しくて仕方なかった。
『帳消しになるなんて思ってないよ』
低く唸るような声で言ったラルフは、私が言い返そうとした言葉を遮ってまくしたてるように続けた。
『だからマムは毎年送り続けたんだよ。いつかマリカの心に届いたらいいなって信じてね。マムはいつも言ってたよ。後悔してるって。マリカを連れて帰ってくるべきだったって。マリカを友達から引き離すことになるし、日本とアメリカじゃ環境が違うからかわいそうだと思ったんだって。だからマリカを置いて一人でアメリカに戻ったけど、バカなことをしたって。毎年クリスマスとマリカの誕生日が近づくと、マムは大騒ぎするんだ。今年のカードはどんなのがいいかなぁって。マリカは今いくつだから、もう少し大人っぽいのがいいかとか、可愛いのがいいかとか。若い子の好みがわからないからって兄さんや僕のガールフレンドまで駆り出されて、カードを探すんだよ。だから僕も兄さんも父さんも、マリカの誕生日を正確に知ってる。クリスマスだって、僕らそっちのけなんだから。母親らしいことをしてやれなかった分、マリカの事に心を砕くんだって。それこそ僕らが嫉妬するほどにね!』
『そんな……』
いきなりそんなことを言われても。
だって、だって。
『マムは間違ったし、マリカを傷つけたかもしれない。でも、それから20数年間、マムはずっとマリカに問いかけて来たんだ。マリカはどんな辛い思いをしていないか、ちゃんとご飯を食べてるか、どんな女の子になったのか、好きな人はいるのか。それを無視し続けて、マムとの関係を修復する努力を怠って一人ぼっちになったのはマリカの方だろう!』
ああ。
私は不意に気が付いた。
――帳消しになるなんて思わないで。
この思いはきっと、同じだ。
廉に対して抱いたものと同じ。
あの日廉に必要以上のご祝儀を包んで飛行機代も食事代もすべて返したのも、廉の謝罪の言葉を遮ったのも、この気持ちが原因だ。
それくらいで、帳消しになるなんて思わないで。
謝罪の言葉や飛行機代くらいで帳消しにするつもりなんて無いんだから。
その気持ちを叩きつけたくて、私は拒んだんだ。
意地を張ってばかり。
だから気持ちが残るのだ。
吐きだせないまま心の中に。
ラルフの前でわんわん泣いたあの日、私は思った。
――私が一体何をしたって言うの。
ちがう。
私はきっと、何もしなかったんだ。
母のプレゼントを開けず、カードも読まず。
それを拒んだり突き返したりするわけではなく、ただ、何もしなかった。
ずっと私はそうやって、与えられるものを受け取るだけだった。
廉との関係も、きっとずっとそうだったのだ。
与えられたものを受け取るばかりで、自分から何かを強く欲することもしなかった。
だから、こうなったのだ。
もしかして。
『もしかして、私が悪かったのかな』
私がそう言ったとたん、ラルフがはっと息を呑んだ。
「茉莉花さん」
すっと芹菜さんが横に来て、私の背中を優しく撫でてくれる。
「茉莉花さん。ちがうちがう、違うわよ」
違うのだろうか。
もう、よくわからなくなってしまった。
『ラルフ、今日は帰って』
芹菜さんの言葉にラルフはしょんぼりと頷いて、それからぼそりと『ごめん、マリカ』と言った。
『マリカを責めるつもりじゃなかったんだ。だけどマムがマリカのことを大切に思ってるのは本当だよ』
私は頷き返すので精いっぱいで、言葉が出てこなかった。
ラルフに腹を立てていたはずだったのに、今自分の頭の中をぐるぐると巡っているのはそんなこととは全く違うことだった。
『ごめん』
もう一度言ってから、ラルフは珍しく肩を落として帰って行った。
「茉莉花さん。ちがう。茉莉花さんが悪いなんて、そんなわけない」
どこか遠くの方で繰り返される優しい言葉を聞きながら、私の頭の中ではさっき勉強したばかりの家の図面がゆらゆらと揺れていた。




