11 むくんだ顔
翌朝目を覚ますと、顔がひどくむくんでいた。泣きながら眠ったせいだろうか。
昔から、凜がよく「夜に泣いたら次の日顔がむくんで目が開かない」と言っていたけど、私はそれを実感したことはなかった。彫が深いせいか、少しくらいむくんでも二重の幅が広がるくらいでそれほど顔に変化はなかったのだ。
だけど今は、凜の気持ちがよくわかる。
まさかこんなに腫れるなんて。下まぶたも腫れているせいで、目が普段の半分ほどしか開いていない。おまけに痛々しい赤色になっているし、触ると少し熱を持っていた。
ネットで知った、蒸しタオルと冷タオルを交互にあてる作戦を実践して何とか人に見せられる程度の顔にまで回復させ、いつものように会社に向かった。
『マリカ、今日は休んでもいいんじゃない? 僕授業2コマしかないからすぐに帰って来るし。今日は家でゆっくりしたら?』
ラルフはそう言ってくれたけど、一人で家にいるよりも手を動かしている方がきっと楽だと思ったのだ。
同僚たちは私の顔を見るなり皆一様に驚いた表情をみせたけど、あまりにもひどい顔だったせいか誰も事情を聞いてはこなかった。
「須藤、昨日頼んだ件どうなってる?」
みんなと一緒にお昼を食べる元気が出なかったのでデスクに座ったまま作業をしていたら課長からそう問われ、のろのろとパソコンのモニターから顔を上げた。
――昨日?
私の表情からその疑問を読み取ったらしい課長の顔が一気に険しくなった。
「昨日頼んだ書類、今日の午前中にやっとくって言ってただろう?」
課長が眉根を寄せたまま、まっすぐに私の顔を見つめている。
「あっ……」
私はあわてて姿勢を正した。姿勢なんて正したってどうなるものでもないのに。
「忘れてたのか。しっかりしろよ」
怒っている風ではない、どこか諭すような課長の口調にかえって涙が出そうになった。
「ごめんなさい」
「今回はまだ時間的に余裕あるからいいよ。いつまでにできる」
「あの、すぐにやります。二時間下さい」
「はいよ」
それから私はすさまじい勢いで手と足を動かして何とか書類を完成させ、きっちり二時間後に課長に手渡した。
それから一人、トイレに向かう。
狭い個室の中で、私はいつかと同じように天井を見上げた。
相変わらずの、木目調。
――私は何をやってるんだろう。
私は決してテキパキしている方でもないし、次々と新しいことを進めて行けるようなバリバリ系の人でもない。だからその分、与えられた仕事はコツコツと誠実にこなすように心がけていた。そして課長はその姿勢を評価してくれていたのだ。「目覚ましい活躍をする人間も必要だが、コツコツと地味な仕事を積み上げて行ける人間もまた不可欠だ」と言って。それなのに、期待に背くようなことを。
――だけど、昨日あんなことがあって。
顔をくしゃくしゃにした。
そうしないと、喉の奥から込み上げてくる変な声が漏れてしまいそうだったから。
あんなことがなければ、仕事を忘れたりなんかしなかったのに。
自分の中に弱い言い訳が浮かんできたのを、慌てて打ち消した。
それとこれとは別問題。
仕事とは切り離さなきゃ。
トイレの個室で百面相をしながら五分ほど過ごした後、気合いを入れるために手洗い場で顔をごしごしと洗った。幸い今日はほとんどすっぴんだから、化粧が崩れる心配もない。
ところが顔を洗った後に、ハンカチをデスクに置いて来たことに気づいてまた落ち込んだ。びちょびちょの顔をどうにかしなくてはと服の袖で顔をぬぐい、何とか水気を取り払ってから仕事に戻った。
妙に濡れた前髪や睫毛のせいで、きっと同僚たちには泣いたことがばれてしまっていたと思う。でも彼らは相変わらず何も聞こうとはせず、その代わり、私に振られる仕事の量が普段に比べて格段に少ないような感じだけはあった。
課長からはそれ以上注意されることもなく、帰りには励ますように「お疲れさん、ナイスリカバリー」と言ってくれた。そして、別の先輩は黙ってチョコを一粒机の上に置いてくれた。
彼らの静かな気づかいがとても嬉しかったのに、優しさが心にしみてまた涙が出そうになったので、「ありがとうございます」と小声で言いながら情けない笑みを浮かべるので精いっぱいだった。
重い鞄を肩にかけ、のろのろと歩いてビルを出ると、むわっとした熱気に包まれた。
熱い。
屋内と屋外のひどい温度差にくらりとしながら、噴き出してきた汗をハンカチでぬぐった。
「茉莉花さん」
声を掛けられて振り返ると、そこに祐樹さんが立っていた。
「祐樹さん……」
祐樹さんは肩をすくめた。
「こんなやりとり、ここで、前にもしたね」
祐樹さんと偶然に再会したとき。
だけどあの時と違って、今日は顔を隠すマフラーがない。
おまけに、日中も時折襲い来る涙をどうにかこうにか押し込めていた私の顔は夜になってもまだ腫れぼったかった。
「常務とお約束……ですか?」
汗を拭くフリをしてさりげなく腫れた目元を隠しながら言うと、祐樹さんは首を振った。
「ううん。今日は茉莉花さんに会いに来たんだ」
「……え? あ、もしかしてラルフから何かお聞きに……?」
祐樹さんは眉根を寄せ、すっと目を細めた。
「それは……何かあったってこと?」
「え? だって……」
知ってるから、会いに来てくれたんじゃないの?
「ラルフからは何も聞いてないよ」
じゃあ、どうして……
私が戸惑っていると、祐樹さんは自分の額についた汗を手で拭いながら言った。
「茉莉花さん。このあと用事ある? 新たな一歩のお祝いにご飯って言ってたの、まだ行けてなかったから」
ああ、もしかして、それで来てくれたのだろうか。わざわざ、そんなちっぽけな一歩を祝うために。
優しいなぁ、祐樹さんは。本当に。
つい、その優しさに甘えたくなってしまう。
だけど、今夜はやらなくちゃいけないことが。
私の一瞬の逡巡を読み取ったのだろう、祐樹さんが顔を覗き込むようにして言った。
「都合悪い? それならまた日を改めるけど」
気の重いその用事より、祐樹さんとの食事に行った方が絶対に楽しいのに。
でも……
何と答えたらいいかわからずにカバンの肩ひもをぎゅっと握りながら祐樹さんの目を見つめた。
切れ長の目。廉と違って、どちらかというとその形はすっと目尻にかけて持ち上がっている。なのにどうしてか、穏やかで優しげな。
その目が私の言葉を待っているのだと悟って、私はゆっくりと言った。
「あの、車を取りに行かなくちゃいけなくて」
「車?」
「はい」
「どこに?」
「あの……」
「聞かない方がいい?」
私が迷っていると、祐樹さんは首を傾げた。
祐樹さんは決して無理に聞き出したりはしないから、話さないという選択肢もある。聞いて楽しいような話じゃないし、祐樹さんだってお仕事帰りで疲れているだろうに、こんな話を聞かせてもいいのだろうか。
だけど私は、話してしまいたくなった。
「……病院なんです」
「病院?」
「あの、廉と奥さん……かをりさんを昨日、産婦人科まで送って……」
「え?」
祐樹さんの切れ長の目がすっと細くなった。
「廉の実家がすぐ近所なので、偶然会って。そのときにかをりさんが破水を……」
「それで茉莉花さんが病院まで車を出したってこと?」
「あの、はい。だけどうっかり車を病院に置いたまま電車で帰ってしまって……」
言いながら、それを「うっかり」と呼んでいいのか、よくわからなくなった。車を忘れて帰るなんて聞いたこともない。
祐樹さんは何も言わなかった。
「その……だから車を取りに行かなくちゃと思ってたんですけど、でも、別に今日じゃなくても。明日は土曜ですから、明日でもいいんです」
ただ、できれば父が今夜出張から戻る前に車を元通りにしておきたかったのだ。
余計な心配を掛けたくなかったから。
「……車を取りに行くの、ついて行こうか?」
少しだけ眉根を寄せたまま、祐樹さんが言った。
「え?」
「その病院、俺も一緒に行こうか?」
「あのでも、ご迷惑じゃ……」
「迷惑だったら言わないよ」
縁なしの眼鏡の奥で、わずかに茶色がかった瞳がこちらをまっすぐに見つめている。自分の心の中の、最も汚い部分まで見透かされてしまいそうな気がして、その視線を避けるように足元に視線を落とした。
いつ会っても、祐樹さんは綺麗な靴を履いている。
スーツの時はきちんと磨かれた革靴を。
私服の時は、カジュアルでありながら清潔な紐靴を。
今日はスーツだから、革靴だ。
きっと高級な靴なのだろう。パリッと堅そうな革がツヤツヤと黒く光っていて、なんだか祐樹さんみたいだと思った。
ゆっくりと、その靴が近づいてきた。
一歩、二歩。
そして、数歩先で止まる。
必要以上に近づいては来ないその心地よい距離感を、この人は意図して作り出しているのだろうか。
そう思ったとたんに革靴がじんわりと滲んで揺れ、私は小さくうなずいた。
その拍子に涙の粒が地面に落ちる。
昨晩生まれたということは、かをりさんも赤ちゃんもまだ入院しているはず。
駐車場に行くだけだから遭遇する可能性はそれほど高くはないけれど、一人で行くのはひどくこわかったのだ。
廉にもかをりさんにも、吉田のおじちゃんおばちゃんにも凜にも、会いたくなかった。会って普通に会話をするなんて、そんなの絶対に無理だ。
祝福の言葉なんて、かけられるはずもない。
きっと泣いてしまう。哀しいからでも悔しいからでもなくて、手に余る感情の揺れに耐えられなくて。
だってわたしは、ちっともおめでとうなんて思ってない。そのいのちの誕生を喜ぶことなんてできない。
ひとりの人間として、吉田家の古くからの知人として、祝福すべきだと頭ではわかっている。だけど、心がついてきてくれないのだ。昨日から、頭と心がバラバラで、持て余した感情に自分でも戸惑っていた。
そしてどうしてだか、そういう気持ちを全部、祐樹さんには知られてしまうのだ。
「……っありがとうございます」
そんなありきたりな言葉しか見つからなかった。
顔を上げてきちんと目を見てお礼を言わなくちゃいけないとわかっていたけど、簡単なはずのその動きが、今はとても難しかった。昨日から泣き通しでひどい顔だし、トイレで顔を洗ったあと保湿していないせいで皮膚がつっぱっているし、目には情けないほど涙が溜まっているし。
だから俯いたまま靴の先っぽに向かって何度も何度も同じ言葉を告げたら、背中にそっと大きな手が触れた。汗ばむ季節だというのに、そこから伝わる体温は驚くほど心地よかった。
その温かな手に促され、タクシーに乗り込んで病院に向かう。
祐樹さんの提案で、病院から自宅までは運転代行を頼むことになった。
私の運転免許証には無事故無違反を誇る金色の帯が誇らしげにくっついているけど、それはめったに運転をしないからで、決して運転が上手だからじゃない。それなのに、時折自分の意志とは無関係に滲んでくる涙と戦いながら運転するのは危険だと判断したのだ。
「車を置いて帰るなんて、ぼんやりしすぎですよね、私」
祐樹さんとともに車の後部座席に乗り込み、腫れた瞼を押し上げるようにして笑った私の細い視界に、祐樹さんの真剣な目が割り込んだ。
「いや、よかったよ」
「え?」
「昨日一人で家まで車を運転しなくてよかったよ。気持ちがキツいときに運転なんて危ないよ。車を置いて帰ったのは賢い選択だと思う」
ただそれだけなのに。
一つ一つの言葉は、別に飾り立てられているわけでも、わかりやすく甘いわけでもない。
それなのに、祐樹さんの言葉にはいつも静かな重みと説得力と、ほんの少しの強引さがあるのだ。祐樹さんが「正しい」と言ったら、本当に正しいと思えてしまうような、そんな強さが。
自分のぼんやりが、本当に賢い選択だったような気持にさせられる。
わかってもらう心地よさと、
知られてしまう恥ずかしさと。
祐樹さんの与えてくれる複雑な感情に戸惑いながら、私は黙って窓の外を眺めていた。ぼんやりと窓に映る自分の顔の向こうに、街の灯りがきらきらと輝いている。ガラスを隔てたこちら側と向こう側。喧騒も輝きも何もかもが遠く感じられて、窓からこちらを見つめ返す自分の顔は今にも泣き出しそうだった。
窓の外は徐々に静かになり、駅前のにぎやかな通りをぬけて自宅のある通りに差し掛かったところで、心臓がひとつ大きく跳ね上がった。
ひゅっと、喉が鳴る。
突然のことに驚いて、胸元を押さえた。
――これは一体……?
鼓動を落ち着けようと背を丸めるようにして浅く息を吐いた私の目に、家の明かりが飛び込んできた。
吉田家。
窓から洩れるオレンジ色の灯。
それはどこまでもあたたかく、おだやかに輝いている。もうみんな揃っているのだろうか。皆でかをりさんと赤ちゃんに会いに行って、帰って来たのかもしれない。
私には、関係のないこと。
私は、蚊帳の外に居る。
蚊帳どころではない、家の外だ。
蚊帳よりずっとずっと分厚い壁が、彼らと私の間を隔てている。
不意にひどい息苦しさを覚えて、あわてて肩で息をした。
苦しい。
息ができない。
吸わなきゃ。
それなのに、息を吸えば吸うほど息苦しくなって、両手で口を塞いだ。
混乱して、どうすればいいのかわからなくなって。
焦るほどに息苦しさはひどくなって生理的な涙が視界を遮る。
ふと、背中に体温を感じた。
「茉莉花さん、息、ゆっくり吐いて」
落ち着いた声に言われ、私は息を吐くことに集中した。
促すように、大きな手がゆっくりと背中をさすってくれる。
「大丈夫。そう、吐いて。ゆっくり」
この声に大丈夫と言われると、本当に大丈夫なのだろうと思える。
「ふーって、そう」
隣から何度もかけられる声をたよりに息を吐き続けていたら、いつの間にか息苦しさは消えていた。
「着いたみたいだね」
私の呼吸が落ち着いたことを確認して、祐樹さんは穏やかに言った。
車はすでに自宅の前に停まっていた。
運転代行の業者さんに代金を支払い、彼らが立ち去ってから私は家の前で祐樹さんにお礼を言った。
「祐樹さん、ごめんなさい。ありがとうございました」
深々と頭を下げる。
「いえいえ。呼吸はもう平気?」
「あの、はい。ちょっとびっくりして……」
「大丈夫。珍しい事じゃないよ。過呼吸、初めてだった?」
「あ、はい」
あれが過呼吸というものなのか。
「俺は部活で走らされて過呼吸になってる奴をいっぱい見て来たし、今も職業柄よく見るから。対処法は心得てるんだ。呼吸が苦しくなったら吐くことに集中してみて。そうしたら楽になるから。焦ると余計に苦しくなるからね、吐くことだけを考えて」
「はい。わかりました」
私の返事を聞いて祐樹さんは数度頷き、それから何か言いたげに下唇を噛んだ。
何だろう。
じっと待っていると、やがて祐樹さんがゆっくりと口を開いた。
「茉莉花さん」
「はい」
「一つ提案があるんだけど」
「なんでしょうか」
「引っ越さない?」




