9 心臓が痛い
六月のある日、元気のよい声が鼓膜を突き抜けた。
『次はあれ!』
ラルフが力強く指差した先を見て、私は絶句した。
高くそびえる建物から漏れ聞こえる甲高い悲鳴が体にまとわりついてくる。
『うわぁ、楽しそうねぇ!』
ラルフの言葉に芹菜さんのわくわくした声が答え、私は異を唱えるタイミングを完全に失していた。
――これに、乗るの……?
あたたかな日差しが降り注ぐこの日、私たちは四人で東京近郊の巨大なテーマパークに来ていた。ラルフが『日本にいる間に一度は行きたい!』と言い出し、引きずられるようにしてやって来たのだ。
カリフォルニアに親玉があるじゃないのと言ったけれど、アトラクションの内容が違っているとか何とか言ってうまく丸め込まれてしまった。
しかも、てっきり二人で行くのかと思ったらラルフはちゃっかりと祐樹さんと芹菜さんにも声を掛けていた。
「祐樹さん、お仕事大丈夫ですか? ごめんなさい、付き合わせてしまって」
はしゃぐラルフと芹菜さんを見ながら隣にいた祐樹さんにそう言うと、祐樹さんはにっこりと笑った。
「俺はもともと水曜は非番なんだ。時間外勤務の少ない科だしね。姉貴は経営者だから融通きくし」
「そうなんですか」
「うん。茉莉花さんこそ、お休みとるの大変だったんじゃない?」
「私は有休を全然消化できていないので、ちょうどよかったんです」
「そっか」
そう言って祐樹さんは盛り上がる二人に目をやった。
「しっかし、すっかり意気投合しちゃってるよね」
芹菜さんとラルフは朝からずっと二人で地図をのぞきこみ、どういう順でアトラクションに乗るかを相談したり、何味のポップコーンを食べたいか真剣に議論したりしている。
物怖じだとか遠慮だとかを知らないラルフの性格のなせる技なのか、年齢が一回りも離れているとは思えないほど仲良しだ。
そして、そんなラルフが次に乗ると言い出したのが、目の前にある不気味な雰囲気を放つ巨大な建物型のアトラクションなのだ。断続的に響き渡る悲鳴のすさまじさに、私はさきほどから回れ右をして逃げ出したくてたまらない。乗ったことがないので詳細は知らないけれど、漏れ聞こえてくる悲鳴の感じを聞く限り、いわゆる絶叫系なのだろう。それも、ジェットコースターというよりも垂直落下の気配が濃厚な。
『待ち時間もちょうどいいし、乗ろうよ! これに乗ってからお昼ごはん食べて、あの優先入場券とってあるアトラクションに行けば時間がぴったりだよ!』
この遊園地では、時間指定の優先入場券をあらかじめ取っておくことができ、ラルフと芹菜さんはこれを駆使して一つでも多くのアトラクションを制覇しようと意気込んでいたのだ。
ラルフを相手になら自分の思っていることをストレートに言えるようになったとはいえ、この雰囲気では……
ものすごく楽しそうにしている二人を見て、いまさら絶叫系は苦手ですとも言い出せず、ラルフと芹菜さんのテンションに押されるようにして列に並んだ。
古びたホテルをイメージしたらしいその建物は細部まで作りこまれていて、セットとして置かれている調度品もとても素敵だった。
『何これ! カリフォルニアにあるのとストーリーが全然違うよ! マリカ! 訳して!』と騒ぐラルフに丁寧にアトラクションのストーリーを説明したり、建物内部の細かい装飾に見とれていたりしたせいか、五十分ほど並んでいたはずなのに、その時間はちっとも苦痛ではなかった。
苦痛は、その先に待っていた。
もはやどれが誰のものかもわからない悲鳴や絶叫が響く中、私は声をあげることすらできずにシートベルトにしがみついき、ただただ早く終わってくれることだけを祈った。
目を開けることなんて出来るはずもなくて、途中から自分が上がっているのか落ちているのかもわからないまま、気付いたらラルフに抱えられるようにして出口に向かって歩いていた。
心臓が、痛い。
「茉莉花さん、大丈夫?」
祐樹さんが私の顔を覗きこんでいるのがわかるけど、微笑む気力が出なくて力なく頷いた。
『マリカ! 見て! 写真!』
ラルフが嬉しそうに指さした先にはいつの間にか撮られていたらしいアトラクション内の写真が掲示されていて、そこに自分の青白い顔を見つけて思わず笑ってしまった。
ひっどい顔をしてる。
目を閉じているだけじゃなく、顔に力が入りすぎて顔のパーツが全部中央に寄っている。高校生の頃に変顔をしてプリクラを撮るのが流行ったけど、あの頃一生懸命顔に力を入れて作っていた変顔よりもよほどひどい顔がモニターに映し出されていた。
そしてこの弟ときたら、嬉々としてそれを買うのだ。
『うわぁマリカ、ひどいカオ!』
そういうラルフはどうなのよ、と思って少し意地悪な気持ちで写真を覗きこんでみたけど、完敗だった。ラルフはちっとも怖がっているように見えない。叫び声を上げているらしく口は開いているけど、両手を上げて余裕綽々って感じ。芹菜さんはいつも通り色っぽい笑みを浮かべてピースサインをしていて、履歴書にだって使えそうなほど爽やかな表情をしていた。そして私の隣に座った祐樹さんは、愉快そうな表情で私の変顔を見つめていた。
この顔を隣で見てたらそりゃあ笑っちゃうよね。
もう一度自分のひどい顔を見て、私はこっそりため息をついた。
どうして祐樹さんと一緒にいるときに限って、こういうかっこ悪いところばっかり見せちゃうんだろう。泣いたりハンカチがボロボロだったり。
今日だって、たくさん歩くからと足元はスニーカーだ。靴との兼ね合いで服もいつも以上にカジュアルになって、Tシャツにジーパンというあっさりした姿。
みっともなく泣くことなんて本当はめったにないし、可愛いハンカチだって持ってるし、服だってもう少し女の子っぽいのも持ってるのに。
対する芹菜さんは鮮やかなオレンジ色のワンピースに合わせた白いピンヒールを颯爽と履きこなしていて、「遊園地にスカートとヒールで来る女はウザいって言われるけど、別にいいのよ。ヒールじゃないと気合いが入らないし、私はこれで全力疾走できるんだから」と言って笑っていた。
芹菜さんはいつだって自信にあふれていてブレなくて、素敵なのだ。
園内のレストランでお昼ごはんを食べ、優先入場券を取ってあったアトラクションに向かう。
「あのう、次に乗るのって、どんなアトラクションかご存知ですか?」
祐樹さんにこっそりと尋ねると、祐樹さんがざっくりと説明してくれた。
「急上昇、急旋回、急降下って感じかなぁ」
「……とってもわかりやすい説明、どうもありがとうございます」
ああ、気が遠くなりそう。
せっかくお昼ご飯を食べてさっき食らったダメージ分を何とか回復したところだったのに。
ものすごく楽しそうな様子の二人組の背中を見ながら、さっき食べた昼食が逆流して出て来はしないかと自分の未来を憂いていたら、祐樹さんからふいに声がかかった。
「茉莉花さん、やめとく?」
「え?」
「苦手でしょ? こういう乗り物」
「あの、でも、乗れないっていうほどでは……」
「でも飯食ったばっかりだし、できれば遠慮したいよね。俺も実はあんまり好きじゃないんだ」
「せっかくの券が……」
「あの二人はすっかり盛り上がってるから行ってもらうとして、俺と茉莉花さんの分はもう一回あの二人に使ってもらうもよし、誰かに譲るもよし。あ、譲るのはダメなんだったかな」
でも、前を歩く二人をがっかりさせないかなぁ……
「あの二人は勝手に楽しんでくれるから大丈夫でしょ」
そう言って祐樹さんは二人の背中に呼びかけた。
『ラルフ、姉貴。俺たちこれ乗らずに待ってるから、二人で行って来て』
『あら、祐樹、どうしたの』
『俺あんまり好きじゃないからさ』
『でも、私たちが乗ってる間どうするの?』
『姉貴たち終わったら連絡してよ。テキトーにその辺ふらついてるから』
祐樹さんの言葉通り、二人は特に気にする様子もなく、残念がることもなくあっさりと同意してくれた。
二人の反応にほっとしながら、どこを目指すでもなく祐樹さんと一緒に歩き出した。
「祐樹さん、絶叫系好きじゃないなんて、嘘ですよね? ごめんなさい。付き合わせてしまって」
「本当だよ」
「でも、さっきの写真、笑っていらっしゃったし……」
アトラクションが楽しくて、というよりも私の顔がおかしくて、という感じだったけど。
「ああ、絶叫系が嫌いってわけではないよ。絶叫系自体は全然平気なんだけど、ここのアトラクションがね」
「え?」
のんびりと歩きながら祐樹さんは苦笑した。
肩をすくめるあの笑い方で。
「前に付き合ってた人が、ここが大好きでね。年間パスポートも持ってるくらいの大ファンだったの。で、俺も年パス買わされて、デートといえばここ。一時間とかそういう隙間の時間でも暇さえあれば来てたんだ。だからすっかり乗り慣れちゃって、全然怖くないんだよね。中の演出も何度も何度も見たし。こういう場所はたまに来て、『あぁまだまだ物足りない』って思いながら帰るのが一番幸せなんだなってつくづく思った」
当たり前のようにかつて付き合っていた人の話をする祐樹さんの笑顔に、なぜか少しだけ胸の奥がうずいた。
「あ、じゃあ、ラルフと芹菜さんが見てた地図なんてなくても全然……」
「そうだねぇ。俺、ここの地図描ける自信あるくらいだよ。でも、しょっちゅう来てるとあんまり効率のいい乗り方とか考えないんだ。だから走って優先入場券をゲットしたのは初めてだよ。それに二人とも地図見るのすごく楽しそうだったから」
何となく、芹菜さんがお姉さんっていうよりも祐樹さんがお兄さんみたいな関係だなぁとぼんやりと思った。それからまた脳裏にチラついたあの兄妹の姿をうんざりしながら押しのける。
祐樹さんは歩きながらぐっと伸びをした。
「さて、どうしようか。何か軽めのアトラクション乗ってもいいし、ぶらぶらしてもいいし。見たいところとか、ある?」
「特には……あ、祐樹さんのお勧めは……」
「俺のオススメかぁ」祐樹さんは一瞬考え込むように首を傾け、「こっち」と言って歩き出した。
広大な遊園地の敷地の隅っこに、イタリアの街並みを模したらしい小さな路地があった。
「ここ穴場なんだ。あんまり人がいなくて」
「わぁ……」
私は思わず歓声をあげた。だってそこには、私の好きな世界が広がっていたから。
「前にイタリアンを食べに行った時に、店の外装とか内装とかをすごく楽しそうに見てたから。こういうの好きなのかなぁと思ってたんだ」
「はい。街並みとか調度品とか、そういうのすごく好きで。見ているだけでわくわくするんです。ちょっと変わった外観だと、中はどんな構造になってるんだろうって想像するだけで楽しくて。このドアノブもすごくかわいい。ああ、作り物なのが残念です。入れたらいいのに」
そう言ってから、興奮して一人でペラペラと話してしまったことに気づいて少し恥ずかしくなった。
「あの、変わってるって、よく言われます。友達とお洒落なレストランに行っても、いつもきょろきょろして内装ばかり見ているから」
変な人だと思われたかなぁと心配になって、あわてて先回りするようにそう言った。そういうのは、誰かから言われる前に自分から言ってしまった方が楽になるから。
だけど祐樹さんは軽く目を閉じて首を振り、「そんな風に思ってないよ。いいことじゃない、自分の好きなものがちゃんとあって」と言ってくれた。
「……そうですか?」
「うん。”You are unique.”ってさ、すごい褒め言葉なんだよ。ほかの人と違ってるのは良い事だよ。誇りを持っていいと思う」
一瞬言葉に詰まってしまった。
縁なし眼鏡の奥の、うっすらと茶色がかった瞳が私の目をまっすぐに見つめていたから。
「あ、あの、ありがとうございます」
やっとのことでそう言って、思わず目を逸らしてしまった。
ああ、もしかして今感じ悪かったかなぁ。
違うのに。
すごく嬉しかったのに。
あわてて視線を戻すと、祐樹さんは道端の建物の窓を覗きこんでいた。シンプルな薄いブルーのシャツの背中に少しだけ汗がにじんでいて、服の上からでも体格のよさが伝わってくる。
祐樹さん、絵になるなぁ。
街並みに違和感なく溶け込んでいるのを見て、一瞬まるで本当に外国にいるような気持ちになった。
本当にイタリアにいるみたい。
ぼんやりと見惚れていると祐樹さんが振り返ったので、私はまた慌てて目を逸らした。
じっと見てたの、気付かれたかな。
「茉莉花さんが立ってると、何か本当にベネチアにいるみたいな気分になるな」
祐樹さんがぽつりとそう言った。
「……え?」
私も今、同じことを。
「風景にすっかり溶け込んでてさ」
「あ、外人顔だから……」
「いや、そういうことじゃないよ。たぶんラルフがここに立ってても溶け込まないと思うしね。何だろうなぁ。顔立ちとかそういうことじゃなくて、雰囲気かなぁ。自然体な感じが」
たぶん祐樹さんは本当に何気なくそう言ったのだけど、その言葉はとても嬉しかった。
祐樹さんも芹菜さんも、私がハーフだってことを何も特別だと思ってない。
それは新鮮な感覚だった。
私はいつだって、「ハーフの須藤さん」だったから。
大人になるにつれそれほど気にすることはなくなったけど、それでも私にはいつだってそのことが付き纏っていた。
彼らはその感覚から私を解放してくれるのだ。
だから、一緒にいるのが心地よいのかもしれない。
そんなことを考えながらふと道の脇に設置されたベンチに目を留めて、吸い寄せられるようにそれに近づいた。
アイアンワークの素敵なベンチが隅っこにひっそりと置かれていた。派手じゃないけど重厚感があって、それでいて可愛らしい。
もっとよく見ようと傍にしゃがみ込んだところで、後ろから声がかかった。
「本当に好きなんだね。ここには何回も来てるけど、そのベンチに注目したのは初めてだよ」
私は振り返ってうなずいた。
「実は、インテリアデザイナーに憧れてたんです。でも国家資格があるわけじゃないし、才能とかコネとか色んなものが必要だって聞いて…つい安全な道を選んでしまって」
声が尻すぼみに小さくなった。
大学で建築学科に行くとか美大へ行くとか色々と考えてはみたけれど、どれもハイレベルでリスキーな気がして結局あきらめてしまったのだ。そして結局、高校の指定校推薦で家から通える私立大学の文系学部に進学した。
「安全な道を選ぶのは悪いことじゃないよ」
祐樹さんがきっぱりと言った。
「それにまだ若いから、今からでも挑戦しようと思えばいくらでもできるよ」
「今から……ですか?」
「うん。茉莉花さん、今いくつだっけ?」
「二十五です」
「それならまだまだこれからじゃないかな。二十五歳なんて、俺はまだ学生やってた齢だ」
「今から……」
廉と中学時代に付き合い始めてから、ずっと私の想像する未来には廉との生活があった。廉と結婚して、いずれは子どもを産んで…ささやかだけど幸せな日々をずっと思い描いていた。高校へ進学するときも、その後の進路を決めるときも、いつだってその指標になったのは彼との未来だったのだ。
でも、その前提はなくなってしまった。
今思えば何て不確かなものにしがみついていたのだろう。
人の気持ちほど頼りにならないものはないというのに。
「しがらみがなくなったと思えばさ」
祐樹さんが軽く言った。
祐樹さんの言うとおりだ。廉と結婚して廉の転勤についてあちこちに行くことが前提だった人生設計が崩れたのだ。それは悲しいことだけど、その分私は自由になったのかもしれない。
でも、祐樹さんはどうしてわかったのだろう。今私が廉のことを考えていると。
祐樹さんはいつも私の気持ちに誰よりも先に気づいて、私の心を大きく動かしてくれる。
その心地よさに慣れてしまうのが何となく怖くて、気持ちを落ち着けようと深呼吸をしていたら、ふいに祐樹さんが振り返った。
目があった瞬間、心臓が大きく跳ねた。
――え?
――ドキドキ?
――祐樹さんに?
心臓が、あの垂直落下のアトラクションに乗った後よりも激しく動いていた。




