プロローグ
須藤 茉莉花 様
まりか、元気ですか。
最近連絡しなくてごめん。
メールも電話も無視してごめん。
どうやって話したらいいかわからなかった。
でもきちんと説明しなきゃと思って、手紙を書くことにした。
最初で最後の手紙だ。
ごめん。
何度も言うけど、本当にごめん。
別れて欲しいんだ。
理由は――
確かめるように、何度も何度も読み返した手紙。
文章が脳裏に焼き付き、内容をそらで言えるほど。
体を覆う鎧は、給料の一か月分をつぎ込んだ黒のタイトなワンピースに、汚すのが怖くて履くのをためらうほど淡いピンクのハイヒールパンプス、そしてパンプスに合わせた色のクラッチ。
今日のこの場に、タイトなワンピースとハイヒールを履いて来たのは、せめてもの復讐のつもり。
あまりにも器の小さなその発想に、自分でも笑ってしまうくらい。
それなのに、笑みを浮かべようと上げたはずの口角がふるふると揺れ、意識とは無関係にあふれた水分が目の表面を覆う。
揺れる視界で見上げたホテルはその外観からすでに高級感を漂わせていて、普段の私なら足を踏み入れることすらためらうほどだ。来る前に調べた宿泊料金は、一般的なホテルのそれよりも桁が一つ多かった。
今日の服装なら、恥ずかしくはないだろうか。
自分の全身を見下ろして、服のシワを伸ばしてから大きく深呼吸をし、入り口に向かって足を踏み出した。
ガラスのドアが両側にすっと開き、優雅な音楽が全身をつつみこむ。
待ち合わせの時間までまだ三十分ほどあったけれど、先方が先に来ているかもしれないからと、エレベーターで十二階のロビーへと向かった。
チンというレトロな音とともにエレベーターの扉が開いたその瞬間、私の目に飛び込んできたのはまばゆいばかりの光だった。
硬質な床に響く静かな足音。
高い靴は足音が響かないと聞いたことがあったけれど、あれは本当だったのだ、と人生二十五年目にして初めて実感した。だけど今は、その静かにくぐもったコトリという音が自分の存在の不確かさを象徴しているような気がして、いつもの甲高いヒールの音が恋しくて仕方ない。
心許ない静かな足音と共に歩みを進め、ロビーを見渡した。
大きなソファーがあちこちに設置されていて、何組か人が座っているが、目的の人影は見当たらない。
きょろきょろとしていると、ホテルマンが寄ってきた。
「お待ち合わせですか?」
この人の靴も、音が響かない。
「ええ……時間まで少しあるので、まだ来ていないようです」
そう答えると、ホテルマンはにっこりと微笑んだ。
「そうでしたか。その扉から外に出るとお庭がありますので、よろしければご案内いたします。もちろん、ソファーにお掛けになってお待ちいただくこともできますが」
見た目からまだかなり若いのだろうけれど、落ち着いたゆっくりとした声が心にしみわたる。一流ホテルのスタッフだから、やはり一流なのだろう。
「ありがとうございます。あの、でも、お化粧室に行きたいので……」
「失礼いたしました。お化粧室はそちらの廊下の右手にございます。ほかにも何かございましたら、お声をお掛け下さい」
「ありがとうございます」
ゆっくりと歩いて重いドアを押し開けた先のトイレの中も、光に満ちていた。
「明るくてきれい」
何とか気持ちを持ち上げようとそう口に出して言ってみたけれど、声に覇気がなかったせいでほとんどの音が口の中で消えた。
それでも、光に包まれて鏡に映った自分の顔は恐れていたよりも随分とましだった。
光のおかげかなぁ。もっとひどい顔をしているかと思ったけど、とひとりつぶやきながら、手に持ったクラッチバッグから口紅を取り出し、唇に塗りなおす。『ジャスミンレッド』という色の名に惹かれて買ったものの、ナチュラルメイクには到底合わないドギツイその赤を唇にのせる勇気はなかなか出ず、この口紅をつけて外出するのは初めてだった。
いつもは引かないアイライン。
いつもはつけないマスカラ。
いつもはのせない頬紅。
いつもは着ない服。
いつもは履かない靴。
いつもは持たないバッグ。
そしてこのジャスミン・レッドの唇。
彫の深い顔の真ん中にある、ヘーゼル色の瞳を見つめ返しながら「笑顔、笑顔」と鏡の中の自分に向かって思いっきり笑いかけてから化粧室を出た。
――今日は笑顔で過ごすって、決めたんだから。
化粧直しを済ませてしまうと他にすることもなくて、否が応でも三十分後に始まる会食のことに意識が向いてしまう。
三十分も前に来るんじゃなかった、なんて今さら後悔しても仕方ないけど、何もせずにただ待つのは拷問のようだった。
それも、三十分後に始まるのは決して楽しみにしているわけではない会食。
楽しみにしているわけではない、なんて控えめすぎて大嘘だ。
死ぬほど嫌な会食。
そう認めてしまったら、何となく心に余裕が生まれた。
そう、嫌だ。
すっごく嫌。
会いたいはずがない。
ノコノコとこんなところに来た理由はただ一つ、プライド。
高価な鎧を身に纏って、自分が何と戦うためにここにいるのか、もうよくわからなかった。
立っているだけでやっとなのに。
それは決して高いヒールのせいではない。
浅いため息をつきながらよろけるようにソファーに腰かけると、手紙の内容がまた脳裏によみがえってきた。
――何度も言うけど、本当にごめん。
別れて欲しい。
理由は、結婚するからだ。
突然のことで驚かせたよな。本当にごめん。
こんなこと手紙で伝えるのも、本当にごめん。
まりか、今動揺してるかな。してるよな。
急に決まったんだ。
本当に俺が悪いんだ。
別の女性と関係を持って、妊娠させてしまった。
その人が子供を産みたいって言ってて、きちんと責任を取らなくちゃいけないと思って、結婚することにした。すぐにでも入籍する予定だ。
だけど、彼女がどうしても茉莉花に会いたいって言うんだ。茉莉花と会ってちゃんと話をしないと、安心して子供を産めないって。
勝手なお願いだってことは重々承知だけど会いに来てくれないか。俺の仕事も立て込んでるし、彼女がまだ安定期に入ってないからそっちへ行くのは無理そうなんだ。たしか11月の半ばの連休で有給取ったって言ってただろう。こっちに会いに来てくれないか。
返事をもらったら、航空券はこっちで手配するよ。
こんなこと頼むなんておかしいってわかってる。
でも、彼女のたっての願いなんだ。
ほんとごめん。
じゃあ、返事を待ってる。
吉田 廉
心の中で何度も何度もくしゃくしゃに丸めた手紙。
情けないとわかってはいるけど、初めてもらった実物を丸めることはどうしてもできなかった。
手紙は今もクラッチバッグの中でひっそりとしている。
字の汚い廉の割に、驚くほど丁寧な楷書体で書かれたその手紙。
どれほどの時間を書け、どんな思いで書いたのか。
繰り返される「ごめん」の数だけ、そこには彼の後悔が滲んでいるように思えて仕方なかった。
――でもね、廉、知ってる?
“It is no use crying over spilt milk.”
後悔先に立たずって。