その五
たいしてドラマティックな何かがあったわけでもなく、偶然によって神様になってしまったワケだが、さぁ、どうしよう。
人生そのものがノープランなのに、神様になったとて日常がどれほど変わるわけではない。
そもそも天照さんのように神様の威厳もなければ神通力らしきものもないようだ。
その辺りをスサノオに聞いてみると、
「最初からなんでもかんでも出来るわけなかろう」と突き放された。
「この時代は、我らの時代とは違いすぎる。我の力でさえ、たいしたことは出来んぞ」
「なんだ、役立たずめ」
「神の力は人の力よ。人が神を敬わぬなら、神もまた力を使えん」
「信仰=力ってことか?」
「そういうことじゃ」
「へー」
「豊穣の、お前は神として生まれたばかりじゃからな。世俗に名前もなければ、社もない。正真正銘ただの人間だと思うとればよい。いまのところはな」
「これからなんかやるなら自分で信仰を集めて、神社を建てろってことか」
「まぁ、そういうことじゃ」
「どんなことすればいいんだ?」
「知らん」
「てめぇ」
「我の知らぬ間に、世の理は変わりすぎた。一昔であれば戦で名の一つも上げれば、それで神として名をあげるのも可能じゃろうが、今世では戦はあっても個の時代ではのうなっておるみたいだしの」
「戦術的勝利が戦略的勝利に必ずしも繋がらないからな」
「頭良さそうなことを分かったつもりで言うでない」
「個人を崇める時代じゃないって、スサノオに賛同したんだが」
「戦のいの字も知らんでよう言うわい」
賛同しなかったらしなかったで「いまの若者はこれだから」とか言うんだろうな、こいつ。
しかし、スサノオの言うとおり、今の世の中では戦争に個人で名を上げることは無理だろう。
仮に「○○戦争の英雄」が居たとしても、それは個人ではなく、国が作った英雄になる。
そもそも日本じゃ戦争もない。軍そのものがない。戦争があっても他人事だ。どこか遠くの国で行われる、どこか遠くの物語になってしまう。
実際、国が戦争の危機に瀕していても危機意識が追いつかないのではないだろうか?
近年、隣国から日本に人工衛星という名のミサイルが飛んできた。
その時、俺はというと、テレビを見ながらソーメンを茹でていた。
落ちたらヤバイな、戦争になんのかな?
上の空で考えながらも、どこか人事で、ワサビと生姜、どちらを薬味にするか?
そんなことを考えていたような気がする。
もしミサイルがなにかしらの事故で日本に落ちたとして、何千人、何万人死んだとしても、その時は怒りに燃えて、なんとか被害者募金をして「許せん!」なんて怒ってみても、半年後には笑いながら「そんなことあったな」なんてアニメでも見て笑いながら、カップラーメンでも食べているに違いない。
危機は薄まる。薄まっていく。そして忘れる。他人事になっていく。
人間は自分が直接出来事に関わらなければ、その事件を現実に感じない。
直接出来事に関わらなければ興味さえ抱かなくなってしまう。
善悪云々、倫理観云々ではなく、そうでなくては生きていけないのだろう。
これは戦争だけの話ではないような気がする。
ここにソーセージがある。
朝飯である。これを茹で、パンにはさみ、ケチャップとマスタードを塗りつけて食べる。
ホットドックだ。
コーヒーと一緒に咀嚼する。
「ごちそうさま」
いま朝飯を食うことに罪の意識はあっただろうか?
ない。こんなことでいちいち考え事をしていては人間は生きてはいけないからだ。
このソーセージ、当たり前だが豚肉の加工品である。
豚肉、塩、アミノ酸、発色剤、粘着剤、保存剤……。
その他様々なものが使われているが、このソーセージは豚を加工している。
豚だ。
誰かが豚を繁殖させ、豚を飼育し、豚を殺し、豚を肉にし、豚を加工し、豚を販売しているのだ。
少しづつ、少しづつ、罪悪感を薄め、ついには消費者に渡るころに、そんなものを考えないようになっている。
ソーセージを店頭で見て感じることなんて、美味いのか、不味いのか、量はあるのか、ないのか、高いか、安いか、精々そんなものだ。
自分ではない誰かが、どこかで肩代わりしてくれている。
それを感じずに、あるいは感じていても考えないようにしている。
生物を殺す。殺して食う。
そこに罪があるが、そのことをどれだけの人間が意識するのだろうか?
「なぁ。我には朝餉はないのか?」
「神様って別に食べなくてもいいって昨日言ってなかったけ」
「お前が食うとるのに我が食えんとか、ありえんじゃろ」
「……」とてつもなく釈然としないが、ソーセージを茹でてやる。
「豊穣の、色々考えとったようじゃが、人が生き、生きるために食うことなんぞ当たり前じゃ」
「なんも食わんでも生きられるお前が言うと、これほどありがたい言葉はないな」
茹で上がったソーセージを爪楊枝で刺し、スサノオに食わせてやる。
どこら辺が口なのか? ソーセージは吸いこまれるされるようにスサノオに食べられていく。
「ふむ。現世の食物も悪くない」
「そうかい。そりゃよかった」
「これは豚か? 美味いな」
「気に入ったか?」
「阿呆……美味い。これがさっきの答えじゃ」
「はぁ?」
「美味いというのはな、本来余計なもんじゃ。食物なんぞ食べられればえぇ。いや、もっと言えば食物がある。それだけで十分じゃ」
「また、じじ臭いこと言ってんな」
「よう聞け。食物がある。それだけで十分ではあるが、人は何ゆえ美味く食おうとする?」
「美味いものが食いたいから?」
「お前少しは物事を考えろ。余計なことはよう考えるのに」
「うるさいよ!」
「ならこれは宿題にしようかの」と、スサノオはこちらを振り向き、
「お前の考える、食うこと本来の罪の意識、それが人が美味いものを欲することを、いつか我に説明してみせよ」そう言葉を続けた。
さて、随分と話が逸れた。
宿題のことはそのうち適当に考えた適当理論をでっち上げることにして、
「いい性格しとるな」
今日これからどうしたものか?
神様としての生活も不安だが、収入もなにもない俺では、このまま人間として生きられるかどうかも分からない。
三十歳になり、流石にアルバイトで生活するのもキツくなってきた。
もう贅沢など言ってはいられないだろうが、どうしても仕事が長続きしない。
この年齢になれば、普通は自分の感情より責任が優先されるだろうに。
職業案内所にも何度か行きはしたが、どの担当も、
「この年齢で職歴無しって、いままでなにしてたんですか?」
三回ほど、違う担当に同じことを言われ、その時点で心が折れた。
いや、人のせいにするのはよそう。
変わらなければいけないのは、誰あろう俺なのだ。
変わらずに困るのは、誰あろう俺なのだ。
この人生も誰のせいでなく俺のせいなのだ。
昨日、あれほどそのことを自覚したじゃないか!
「人の諺に、三つ子の魂百までもってのがあってな」
まずは職探し。食い扶持稼がねば、神もなにもあったものではない。
「ほう。我を無視するとはいい度胸」
「しかし、いまの立場を利用しないというのも勿体無い!」
せっかくなので、いままでの履歴書に「神様」であることを添えて応募することにした。
「ふ、ふーむ。こ、こいつは……」改めて出来た履歴書を見てみる。
『志望動機
諸事情で「神」になりました。荒覇吐豊穣命です。信者も神社もない新米の「神」ではありますが、
自分を生かすべく御社に応募いたしました。自分で何が出来るのかはまだ分かりませんが、体力、やる気は誰にも負けません。神通力などはまだありませんが、今後自己努力によって使えるようがんばっていきます!』
「いかん。ただの馬鹿だ」
救いようのないレベルの馬鹿。
あきらかにただの冷やかしだ。
仮にこの履歴書が採用担当の目に止まったとして、面接を受けるとしよう。
「どうぞ、次の方入ってください」
「はい!」
「はい。座ってください」
「はい! 失礼します」
「履歴書読ませて頂きました。なんでも現役の「神様」であるとか」
「はい! そうです!」
「荒覇吐豊穣命とは、あまり聞かない名前ですが、どういった神様なのでしょうか」
「はい! なにぶん、まだ「神」になったばかりですので、伝説も信仰も神社もありません」
「では、貴方はなにを持って神様であるとおっしゃっているのですか? 失礼ですが、私には貴方が人間のように見えます」
「私は自分が神であると分かっているだけです。それ以上でもそれ以下でもありません」
「……では神様であるとして、それをどう会社に生かすおつもりですか?」
「神である、そのことをです。御社には神がいる。それが如何に新米の神であったとしても、それを社風に生かすことで顧客が増やせるのではないかと思います」
「なるほど、ところで『お客様は神様です』この言葉を聞いたことはありますか?」
「はい! 顧客を神様のように敬えという格言ですね!」
「当社は接客業なのですが、その辺りをどうお考えですか?」
あっ、積んだ。
お客が神なのに、店員が神とはこれ如何に?
この問題、何かしらのパラドックスが出来そうだ。
そもそも、この履歴書で面接に進む前提がおかしい。
神を自分で名乗るとか、サイコパスじゃねーか。
「いっそ神様であることを隠して履歴書送ったほうがいいなこりゃ……」
普通に履歴書を書いて五社ほど送った。
履歴書の返事が来るまで一週間はかかる。
この年齢だ。受かるも八卦、受からぬも八卦だろう。
履歴書を出しただけでも、なにかしら進んでいる気がするのは、気の迷いに違いないが、ここはしっかりと地に足着いた生活がしたい。
まずはどんな職種であれ、仕事をしなけりゃ始まらない。
それが日本クオリティ。
履歴書を出すだけ出したが、それだけで一日が終わるわけないので、日課の散歩がてら、大宮の氷川神社に向かうことにする。
「氷川神社なんてあんまり行ったことなかったな」
「不信心め」と、スサノオ。
「一応都民だからな。どちらかと言うと明治神宮に行きたくなるんだよ」
初詣もほとんど明治神宮だしな。
根底に埼玉県でなく東京都民でいたいというプライドもあるのではないかと自己分析してみる。
地理的に考えれば、俺の住んでいるところからなら、明治神宮も氷川神社も距離的にはそう変わらない。ならば、明治神宮を選ぶのも仕方ない。
大宮氷川神社に行ったのは、毎年明治神宮で、人ごみも氷川神社のほうが少ないだろうという新年からの気だるさと打算があったからだ。
体感的にはどっちもどっちだったが。
「しかし、社を見るのはよい心がけぞ」
妙に楽しそうなのは氷川神社の祭神だからだろうか。
天気が良かったら自転車で行こうかと考えていたが、生憎の雨で、春先にしては少し肌寒い。
俺は板橋駅から埼京線で赤羽へ、宇都宮線に乗り換えて大宮まで出る。
氷川神社なら大宮公園駅がピンポイントだが、いままであまり気にしていなかった大宮そのもを見てみたくなったので、大宮駅で降り、歩いて氷川神社に向かうことにする。
直接出来事に関わらなければ興味さえ抱かない。
自分が神様にならなければ、一生神様について考えなかっただろう。
この大宮にも足を運ばなかったに違いない。
人間は無関心でも生きていける。
だが、自分自身の少ない価値観のみを指針にしては、今後神様としてやっていけないだろうと思うのだ。
いままで放棄してきた思考や、感覚、その他一切を明確にしていくことが第一歩。
大宮。新幹線に乗るときに寄る、埼玉県の一駅くらいの認識しかない。
俺自身が駅を利用するのが、ほぼ東京方面への移動なので、近くにあるにも関わらず、ほとんど利用したことはなかった。
「普通に繁華街だな」
大宮に五年ぶりに降り立ったが、特に目新しいもはなく、池袋、新宿の雑多な街並みをそのまま写したような、よくある地方都市がそこにあった。
本来はここで、
「うわぁ! ここが大宮ですか! すごーい!!」と無駄にはしゃいでやろうと思っていたが、普通だったのでテンション下がる。
「前から思っとったが豊穣の、お前って攻撃的な思考しとるの」
日本で一番の暴れん坊にそんなことをサクッと言われたが、俺は安物のビニール傘を差して、雨の中を歩き始める。
駅周辺を軽く歩いてみると、なぜかわからないが靴屋が多い。
儲かってんの?
昼飯は大宮の地元名産品でも食べようと考えてノープランだったが、どこの店も、どこかでみたような店ばかりなので、当たり障りなくファーストフードで軽く食事を取る。
昼食を取り終わり、再び大宮駅へ。
アーケードを通って大栄橋まで向かい、そのまま国道2号線を沿って氷川神社入り口へ。
「おやおや」
前に氷川神社に行った時は大宮公園駅からだったので気がつかなかったが、かなり大きな参道である。
目の前には鳥居があり、ここからが既に神社の一部であると主張している。
ここから参道を直進して約1キロ先に氷川神社の本殿がある。
「霊験あらたかというか、これは結構圧倒されるものがあるな」
「ふふん。そうじゃろ?」スサノオが携帯電話にぶら下がりながら自慢げに言った。
参道沿いにある看板によれば、
出雲の兄多毛比命が武蔵国造りとなり当社を崇敬した。
かつては見沼の岬に立ち、見沼の水神を祭ったことが始まりと考えられる。
と、ある。
この大宮、というか武蔵国周辺の沼地を出雲から出っ張ってきて開拓したらしい。
当時の公共事業にしても最大級だったのではないだろうか。
沼地の埋め立て。近辺に荒川があり、河の氾濫も予想される。
治水を含め、大工事だったに違いない。
農業用水による肥沃な大地と、それに伴う水害。それを当時の人達が敬い、畏れたことは想像に難しくない。
こうして自然発生的に神様を敬う土台が出来たのだろう。
大宮氷川神社は武蔵近隣の氷川信仰、氷川神社の総本山だ。
「ん?」と、ここでちょっと考えてみる。
「ヤマタノオロチってもしかして荒川のことなのか?」
聞きかじりの知識だが、荒川の語源は読んで字の如く「荒ぶる川」だ。
当時の治水工事技術は分からないが、死者も相当数出ただろうし、巨大な河川を「蛇」に見立てて、制していく様は、スサノオ信仰になぞらえることができるのではないだろうか。
「おっ! そこに辿り着いたか」
「マジで!」スゲェな。
「ま、半分当たりかの」と、スサノオは、はぐらかす。
「教えてくれよ、歴史ロマン」
「気持ち悪い声出すな! 莫迦者!」
「えー! いいじゃん。いいじゃん」
「一言ではいえんのじゃ。半分当たりというのはそうであるとも言えるし、そうでないとも言えるからじゃ」
「……ボケたの?」
「違うわい! 神とはただ在ることだと言うたな。ある種の物語が複合することは神にとっては自然なことじゃ。我が怪物としてのヤマタノオロチを倒したことも、荒ぶる河川を蛇に見立て、治水することを伝説になぞらえることも、違う物語ではあるが、同一に在ることじゃ」
「なにを言っているのか、さっぱり分からない」
「神と物語は一つではなく、同時に複数存在し、その全てが真実である」
「難しいこと言いやがって、それは俺の仕事だろ」
「もうええわい」などとスサノオとやり取りを交わしたが、言わんとしていることはなんとなくであったが理解していた。
同人誌なのだ、神の物語は。
規模が違いすぎて気がつかなかった。
憧れが物語を作り、物語が神を作り、神が人間の手によって無限に広がっていく。
それら全てを含んだものが同一の神として祭り上げられる。
人間は強いものに憧れる。憧れるものに近くなりたくなる。そうして物語が生まれ、物語がさらなる物語を生み、無限に連鎖して広がっていく。
神のパンデミックだ。
最初の人物像、設定だけあれば、あとは作り手が勝手に物語を広げるだろう。
著作権による金銭目的がなければ、これほど名を売るために都合のいいこともない。
「これって何かの作品で信者集めれば、神様じゃなくても神様になれるんじゃないか?」
「おう! そんな神は結構な数いるぞ」
神様だ、宗教だ。言葉に惑わされすぎてたかもしれないな。
自然崇拝としての神様に、人間は物語をつけた。
信仰の対象として、より人に近くし、英雄であることで信仰を集める。
そりゃそうだ。自然そのものを敬う、その理由付けとして、畏敬の念と共により身近な存在として感じたいと思うことは自然なことだと思う。
芸能人、有名人がブログやツイッターなどで自身の情報を公開することに近い。
作品が好きになる→その人の人間性を好きになる→ファンになる。
顔の見えない神様は敬いにくいのだ。
「だんだん形が見えてきたな……」
そんなことを考えているうちに参道が終わり、神社の門に到着する。
平日にも関わらず、ちらほらと参拝客が見受けられた。
家族連れ、お年寄り、若者。なにを祈りにきたのか、結構世間の人間は信心深いようだ。
「いや、大宮公園への通り道だからかな」
大宮氷川神社のすぐ東側には大宮公園がある。
初詣に行った時は、縁日の屋台がずらりと並んで、人ごみも多く、あまりゆっくりしなかったが、お参りの後に寄ってみるのもいいだろう。
本殿に向かう前に、摂末社を廻ってみる。
境内に小さめの神社がかなりの数建てられている。
「あまり気にも留めなかったけど、全部神社なんだな、コレ。倉庫かなんかだと思ってた」
「由緒ある社には大抵、縁深い神が祭られてるでの」
神様にも集合住宅があるようだ。
神社門のすぐ左脇に案内と、簡単な神社の歴史が書かれていた。
「おっ、お稲荷さんがいるな」
門を進み左の道に逸れると、右側の溜池に宗像神社、向かい側に稲荷神社がある。
「神社っていうとお稲荷さんだよな、やっぱり」
油揚げがあったら供えてあげたいくらいだ。
「……」
「なんで黙ってんだよ」
「気にするな」
稲荷神社の小道には小さめの赤い鳥居が連続して立っている。
入ると帰れなくなりそうで少し怖い。
「スサノオ、お稲荷さんってどんな神様なんだ?」
「お前、その口ぶり知ってて聞いとるじゃろ」
「いやぁ~、お稲荷さんを調べたら、スサノオさん重婚してらっしゃるんですか、驚きましたよ、リア充じゃないですか! マジリスペクトですよ!」
稲荷信仰の祭神である宇迦之御魂神は、古事記においてスサノオと神大市比売の娘とされる神様だ。
稲荷信仰とスサノオ信仰は親子関係とも言えるかもしれない。
スサノオと奇稲田姫命は婚姻し、子供を成しているので、この大宮氷川神社には、重婚したスサノオと、その妻、妻の夫に客人神扱いされた両親、そして別の女に孕ませた宇迦之御魂神が同居していることになる。
橋田壽賀子がドラマ一本書いてくれそうな人間関係だ。
「荒覇吐の摂社といい、家族トラブル多いよな、スサノオって」
「神の尺度を人に当てはめることがまず間違いじゃな」
「それを含めてスサノオの名なんじゃないの?」
「お前友達おらんじゃろ」
まさか神様にそんなことを突っ込まれるとは思わなんだ。
「ところで、昨日スサノオ信仰って三千社あるって言ってたが……」
「……」
「稲荷神社って全国に大小合わせて四万社くらいあるらしいな」
「……」スライム状なのでわかりにくいが汗かいてるな、コイツ。
宇迦之御魂神の生みの親である神大市比売は農耕の神、食料の神として信仰される。
その子供である 宇迦之御魂神は穀物の神。
転じて豊穣、産業、商業、開運、屋敷の神として全国各地で稲荷信仰として祭られている。
江戸時代には「江戸の名物、伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言葉が作られるほど、庶民に浸透し、膨大な社が立てられた。
誰しもが、赤い鳥居を見たことがあると思うが、赤い鳥居は稲荷神社の証である。
当たり前だが、目の前にある稲荷神社の鳥居は赤いし、この氷川神社の神社門は、石で作られ、色は特に塗られていない。
なぜ赤いのかは諸説あり「稲荷神社は元は山中に社が作られていたので鳥居の腐食を防ぐために漆で赤くした」や「赤は太陽の色。豊穣は太陽の恵みからくるので赤くして縁起を担いだ」等いわれているが、真実はわからない。
スサノオなら「全ての説を合わせて、その神の信仰。真実を探る必要はない」とか言いそうだ。
稲荷信仰は宇迦之御魂神を主祭神とした、稲荷大神として祭られる佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神全て含めての信仰であるが、一般的には「お稲荷さん」として民間に伝播し、千本鳥居でも有名な京都伏見稲荷大社が全国各地の稲荷神社の総本営と言われている。
「そういや、修学旅行で伏見稲荷神社を見たっけな」
いままで興味はなかったが、神社仏閣の意匠は日本人の美意識が詰め込まれているように思える。
現代のシステマチックな建築物や戸建住宅にはない「敬おう」という気持ちそのままを形にしたような、一種の意思が感じられた。
「高校生の時、もっとちゃんと見ておけばよかったな」しみじみ思う。
さて、それを踏まえて、
「よく、小さな商店から一代で財閥を築いた。なんて言葉を聞くが、これってただの逆玉興しなんじゃねーの?」
神様の力=信仰数なら、稲荷大明神は日本で一、二を争う信仰をかき集めているはずだ。
スサノオはただ一言、
「男と女じゃからの……。色々あるわい」遠くを見ながら呟いた。
「(投げ出して逃げやがった)」
チリーンと十円玉を賽銭箱に投げ入れる。
せっかくなのでお参りはしておこうと、稲荷神社を含め、各摂末社を順に参拝していく。
「おっ、ここが門客人神社か」
噂の荒覇吐と足名椎命と手名椎命を祭る門客人神社に到着した。
摂社が隣り合わせに並んでいる。
「門客人神社って名前はあっても、荒覇吐の名前はないんだな」
「客人神が荒覇吐のことじゃからな」
名前だけ貸して親御さんを立ててんのかとも思う。
「スサノオみたいに荒覇吐に会えないのか?」
「無理じゃな」
「早ぇよ。少しくらい悩んだ振りしろ」
「う~む……って莫迦者!」
おっ! 神様のノリ突っ込みだ。
「荒覇吐は古い神じゃしな。具現するだけの力はない。それに我は嫌われておるしな」
いまの扱いを考えると、なんかそんな気もしていた。
元は門客人神社はそのまんま荒覇吐神社と呼ばれていたらしい。
それがいまの形になるには随分と面倒な経緯がありそうだ。
ここにある物語、憶測、真実、その他もろもろを考えるの楽しそうだが、
「それら全てを含んで神様……か」便利な言葉ですね、はい。
門客人神社を参拝した後、本殿に向かう。
「これが格差社会という奴か」
いままで参拝した摂末社は一つ一つが比較的簡素な造りの神社であったが、さすがに本殿ともなれば相応に豪華に作られている。
神様にでもならなければ、これはこういうものと、淡々としか思っていなかっただろう。
色々な背景を考え、考察してみると、全てのものには何かしら意味があるのだと、ただ無頓着に生きてきただけでは考えなかったなと、昔の自分を恥じてみる。
「本当になんも考えない三十年だったな」
例えば、この大宮だってそうだ。
大宮とは宮に対する敬称だ。全国各地に大宮という地名が見受けられるが、それはいずれも神社に因むもので、つまりは神社の宿場町として始まっている。
いまでこそ、埼玉のターミナルになっているが、最初に神様を祭る神社ができ、人が集まり、街ができ、宿場ができ、鉄道ができたという経緯がある。
なにげなく生きていれば見逃してしまうことであるが、これは神様を、信仰を中心とした文化体系なのだ。そしてそれはいまでもここに人間の営みとして生きている。
「神様って凄いんだな」と、本殿を見ながらそんなことを思う。
「我にとっては当たり前のことじゃ」
スサノオはふんっと、大きく鼻を鳴らした。
本殿に入る前に手水舎があったので、手を清め、本社に行く。
パンッ。礼儀作法など考えたことはないが、手を一回だけ合わせ、
「これからの人生がうまくいきますように。ついでに神様をちゃんとやれますように」
口にはださなかったが、神妙な心持ちで祈ると、
「ふむ。ついでに神をやるとは言語道断であるな」
主祭神に怒られた。
「しかし、お祈りとは不思議なもんだな」祈りながら思う。
何気ない仕種一つとっても、いままで如何に何も考えないで生きてきたことか。
神に祈る……が、この行為はなにかを起こすわけではない。
祈る。ただ祈る。それだけの行為。
神様に、あるいは超常的な存在へのコミュニケーションとして。
自分の意思を伝えたい、助けてもらいたい。内容は様々だろう。
何があるわけではないと分かっているのに、人は祈る。
これは人間特有の行為に思える。
あるいは「祈る」ことそのものが儀式というかボディランゲージの一つなのかもしれない。
全力を出した。努力した。あとは祈るのみ! みたいな。
よくテレビのクイズ番組なんかで出演者が「当たれ! 当たってくれ!」と、手を合わせているのを見かけるが、そもそもにして、あの人達は何に対して祈るのだろう。
失礼ながら神様を信じているようには見えない。
それとも俺が勉強不足なだけで、実は彼らは信心深く、どこかの神様に朝昼晩と三度の祈りを欠かさずに行う熱心な信徒なのだろうか。
自らが信じているのであれば、いかな神様であろうと構わないであろうが、祈るべき神様のいない、ボディランゲージの空疎な祈りはなんとも悲しく思えるのだ。
実際にそこに利益があるないにしてもだ。
「なぁ、祈るとなにかご利益ってあんのか?」
「あるわけなかろう」
神はただ在る。それだけの存在と公言しとるからな。
「でも、歴史上何度かあるだろ。散々供物捧げられて、祈られて、それでもなにもしないのか?」
「せんよ」
あぁ、そうですか。
「神の理は神の理。人の理は人の理じゃ。姉上も言うとったじゃろ。神とはただの在る。それだけじゃと。祈られようが、祈られまいが、助けを求められようが、求められまいが、神はただ神じゃ」
「けっこう鬼畜だよな、神様って」
「崇めるのは人の勝手じゃ。我にとっては我の信徒も、その他の無神の徒も変わりゃせん」
「そんな気はしていた」
「人のことなど気にせんからな、我ら」
遠藤周作にその言葉を聞かせてやりたいよ。
「結果として救うたことくらいはあるがな。だが、それだけじゃ。神は在る。それだけで本来は十分仕事しとると我は思うとる。姉上は働き過ぎじゃ」
働かない神のスサノオのことは放置しておいて、自分の考えを進めてみる。
人はなぜ祈るのだろう?
「……」本殿から出てフラフラと大宮公園へ行き、手ごろなベンチを見つけてタバコをふかす。
もちろん携帯灰皿は忘れていない。マナーだ。
ベンチは鳥の糞が散乱していて、おまけに雨で濡れているので、とても俺のキュートな尻を預けるわけにはいかなかったが、歩き詰めで足が休息を求めていたので仕方ない。
ハンカチ代わりのハンドタオルをお尻の下に敷いて、その場をしのぐ。
「おうっ!」思わずきもちの悪い声が出てしまった。
ハンドタオルを通して、じんわりと水分がジーパンに染み込んだ。
ポツポツと、ビニール傘に小雨があたる。
「人間は神様に大して交信を試みる。そして神様はそれを返さない」
この行為に意味はあるのか? 生産性はあるのか?
他の宗教を混ぜるとこんがらがるので、あくまで日本神道、いや「現代日本における祈りの必要性」について考える。
宗教学の卒論みたいだなってきたな。
「いっそ氷川神社の神主に聞いてみたい」と思ったが、新米ながら神様として祈りについて、酒の席で語れるくらいにはしておきたい。
「昨日までただのニートだっとは自分のことながら思えん」
ここでアメノウズメを思い出してみる。
天照さんがスサノオに嫌気が差して天岩戸に引きこもった時に、踊って他の神様を笑わせ、天照さんを天岩戸から出させたのがアメノウズメだ。
芸能、技芸の神様として祀られている。
そのことから日本最古の神事として神楽の開祖とする説もある。
神楽とは神に捧げる歌舞のことだ。
歌や踊りの発祥は神への供物で、これも「祈り」の形態の一つと言えないだろうか。
思うのだが、歌や、踊りは一人では成立しない。
伝えることがある。伝えたいことがある。そのためには伝える誰かが必要になる。
世の中には絶対音楽なんてものもあるが、そんな高等文化が原始的表現の中にいきなり現れるとは考えずらい。
歌や、踊りが言語の壁を超えたコミュニケーションの手段である以上、最初は言葉の通じない何者かの伝達手段だったのではないだろうか?
音は人種を選ばない。舞踊に言葉は必要ない。
己の身一つで表現できる、この世でもっとも原始的な伝達手段。
どの段階で、日本人の中に言語が登場したかは分からないが、同種族の中である程度の原始的な言語が存在し、意思疎通が図れるのなら、歌や踊りは文化の一つとして出来たのではなく、言葉の通じない何者かに伝えるために目的を持って作られたと考えるのがしっくりくる。
それは誰か?
神様だ。
「ずいぶん無理やりだな」と、二本目のタバコをふかしてみる。
気がつけば雨は上がって、曇り空から日の光が漏れている。
根本には自然という未知に対する恐怖。
それに交信し、答えを得ることでストレスを緩和するための行動様式が祈りだと思う。
いうなれば信仰そのものが巨大な対話儀式機構なのだろう。
現代の日本において、意味合いこそ少なくっているものの「歌」、「舞」、あるいは「祭」や「初詣」、など、生活のいたるところに「祈り」の名残が見える。
人間は答えを欲しがる。
だから祈るのだ。そこに返答がなくとも。
ならば人間から「祈る」という行為が消えることはないだろう。
いかなる遠くの未来であろうともだ。
なんだかそれは、
人間と神様の実らない恋のように思える。
そんなことを考えながら、晴れた空を見上げて大宮公園を後にして、来た道を戻ると、帰り際に氷川神社の参道で結婚式の列に遭遇する。
結婚式というよりは祝言といったほうがピンとくる感じか。
先頭で花婿が黒い着物と袴、花嫁は白い振袖を着て鬼隠しを被っている。
「人間同士の恋は実るんですけどねー」
当たり前のことを思いながら、
「最後に恋をしたのっていつだったかな」一人の帰り道、春の風はまだ冷たい。