純粋で、盲目な
甘いというには、苦味が強すぎる、そんなお話です。
幸福な結末、ハッピーエンドです。
分かってる。わたしはどうにかしているのだ。
ああ、狂ってしまいそう。
こんなにも、千鶴が愛おしいなんて。
わたし達は小学校の頃からずっと一緒にいた。
千鶴は誰に対しても優しくて、少々おっとりしていて、けれども自分の言いたいことはちゃんと主張できるような、強くて可愛い女の子だ。千鶴と一緒にいると家であった嫌なことも全部忘れることが出来た。いつもわたしを見ようとせずに、お互いの責任をなすりつけてばかりいる彼らなんかより、よっぽど、たいせつだった。わたしを見てくれる、唯一のひと。親友、いや、そんな簡単な言葉で片付けられやしない、千鶴は世界で一番の人。わたしの全てだ。
……決して、こんな汚らしい感情で汚されるべき存在ではない。
千鶴を見ると目眩がする、動悸がする、心臓はすくみ上がって、鳥肌が立って、下腹部がきゅうっと締め付けられて、喉はからからになる。手に汗をかくしで、うかつに手も握ることができない。
あの子にとっては、わたしはクールで頼りになる、佳月ちゃん、じゃなきゃならない。こんなに余裕がないなんて、千鶴に触りたくて堪らない欲望をいつか本人に気付かれてしまうのではないのかと、たまらなく怖かった。
わたしは昔から、どこか人と違うところがあった。
子供なら普通は大人に甘えるものだろうけど、わたしはそれをしなかった。できなかった。どうにも大人は信用ならんとでも思っていたのかもしれない。小学校に上がる頃からはさすがにこれから生きていくためにはこのままではいけないのかもと薄々感じ取って、無視をすることはなくなったけれど、周りと距離を置いて観察する事の方が最も有意義なことのように思えた。今でもそれは変わらない。
楽しいと、笑うことが理解できない。悲しいと、泣くことが理解できない。たぶん、人間として一番大事な部分を母の腹の中に置き忘れてしまったのだ。
周りの大人、実の母であるはずのひとさえ、わたしをかわいげのない子供だと称した。
千鶴だけが違った。千鶴は可愛い。千鶴はわたしを優しく包み込んでくれる。下らないと思う世界も、彼女が視界に入るだけで虹色に輝いた。彼女はわたしの色のない世界の中で唯一光り続けるただひとりのひとだった。
今、わたしの目の前に横たわった千鶴。おかしいかな、彼女のふっくらとしたピンク色の唇や柔らかな産毛に覆われたまろやかな頬、襟の隙間からのぞく白い肌とくっきりと浮かぶ上がった鎖骨の隙間の影がわたしの心をかき乱した。
息切れがする。どうしよう、ダメだ。手が伸びる。クセのあるふんわりとした髪の感触を楽しむかのように、わたしの指は動いた。汚らしい、触るな。もっと触りたい。矛盾した意識が討論をして一瞬わたしの指は止まる。だが、ダメだった。わたしの弱い理性は彼方へ吹き飛ばされた。
……柔らかい頬、くちびる。まつげが長くてうっとりする。おいしそう、いやだ、ふれたい…ふれたくてふれたくて、たまらない、
顔が近づいた、どんどんどんどん近づいた。
唇はきっと柔らかい、千鶴、わたしの可愛い千鶴、
ぐっと、腰に何かが巻き付いて、瞬間、わたしははっと我に返った。
耳元で囁かれた低い声、
「叫ぶなよ、相川が起きる」
わたしの欲望はかき消された。昂揚した気分が急激に冷めていく不快感が心地悪く、ついでに腰に巻き付いたままの腕がうっとおしくて仕方がない。
溜息をついて、腕を軽く叩くと、簡単にそれは取れた。
「………ありがと、キサ」
「案の定、狼になりかけてたからねぇ」
にやりとキサは笑って、ぽんぽんとわたしの頭を撫でた。
手つきはこの上なく優しくて、すがりたい気分に、ちょっとだけなったけど、自分の欲に負けた決定的な瞬間を見られたことが、わたしを素直じゃ無くさせた。触るなと、さっさと逃げる。わたしの頭に着地予定だったキサの細い指と角張った関節を持つ大きな手のひらは行き場を失って、苦笑しつつ下ろされた。
わたし達はそのまま千鶴の眠ったベッドから離れて仕切りになるカーテンを引いて外に出た。といっても帰る気はさらさらない。千鶴が起きるまで保健室内にいるつもりだったわたしは、革張りの長いすに座った。
「で?あんた、タイミング良く邪魔してくれちゃって、どうしてたのよ」
「え?邪魔だった?」
「………いや、まぁ助かったけど」
あのまま、もし触れていたら。
じっとりと手のひらにまた汗が浮いてきて、嫌になる。
「なんとなく、かな、なんかクロがいっぱいいっぱいって感じだったから」
保健室に来たのは、千鶴が気分が悪いと言って、それにわたしが付き添ったからだった。抜け出した授業にまた戻る気もしなかったし、何よりもっと近くで千鶴を見ていたかった。
じっとりにじむ汗をごまかすように、手をこすり合わせた。
「ね、キサ」
大きく息を吸って、落ち着きのない心臓を落ち着かせる。
「あのね、千鶴、葉月のコト好きなんだって」
わたしは嗤いながら、ひっそりと囁くように言った。
秘密ねと教えてくれた千鶴の内緒話を、わたしは、話そうとしている。
信じたくなかった。キサに、ウソだろって笑い飛ばして欲しくて、でも、それはわたしを信じてくれた千鶴に対しての裏切りだと、心の奥が悲鳴を上げていた。
「葉月のこと、よりによって葉月のコトが」
涙なんか出ない。なんて笑い話だ。おかしくて狂ってしまいそう。
「絶対に、好きなんか言えないわたしにね、千鶴が言うの、葉月くんが好きなのって。佳月ちゃんにそっくりな葉月くんが好きだって。佳月ちゃんのことが大好きだから、いつの間にか、葉月くんのことも好きになったのかなあって、笑うの」
葉月。わたしの、片割れ。
「千鶴は、残酷だ」
ぽろりとこぼれたわたしの心の血潮の塊が、板張りの床に跳ね返って消えた。消えた。冷たい。なんて、冷たいんだろう。
「葉月が、憎い」
低く、わたしの声は消えた。なんて濁った、醜い音。
生まれてから一度も、たぶんわたしは葉月の存在を必要だなんて思ったことはなくて、葉月だってわたしを認めてなんかいないんだ。ただの他人や、父や母よりはわたしの近くにいて、けれども千鶴とは比べるまでもなく遠い存在。
これほどまで心を強い感情で黒く塗りつぶされたことは生まれてから今まで一度もなかった。
これは、疑いようもない、嫉妬だ。
キサは何も言わなかった。ただ、黙っていた。
「ねぇ、なんでわたしは葉月じゃないんだろう」
わたしは佳月。葉月が良かった。まっさらで白く、青く瑞々しい名前の、誰からも愛される彼に。なんで、わたしは、千鶴に
「愛してもらえないの………ッ」
好き。大好き。何回言われたかしれない。でも、千鶴が『恋』をする相手は葉月なのだ。
言わないと決めた。わたしはずっと千鶴の親友だ。それで満足だと思っていた。幸せだった、救われなくとも良かった。ああ、なのに、こんなにも渇いている。
しばらくわたしは黙っていた。キサも、なにも言わなかった。保健室の、アルコールの独特な匂いがわたしの頭を痺れさせていく。開け放たれた窓に、レモン色のあせたカーテンがゆらゆらと揺れているのさえも現実味がないことのように感じる。
「もう、壊れそう」
ぼろぼろと崩れて砂になって、空気中に溶けていく。それから千鶴の呼吸に心振るわせて、嬉々として吸い込まれていく。
そして千鶴の中に溶けていってしまいたい。