レモンが好きな内藤さん
「内藤はレモンが好きなんです」
自分のことを「内藤」と名字で呼ぶ彼は、浮き世離れしている。してはいるが、常識を持ち合わせた大人だった。
「事務員さんは、レモンは好きですか?」
「そこそこ、ですね」
事務員とは、私のことだ。
大学の簡単な事務仕事を受け持っている。一応、彼に名前を教えた筈なのだが、彼には「事務員さん」と呼ばれている。自分の事は名字の癖に、何故なのか……。彼の考えている事は良く分からない。
ちなみに彼は、私が働いている大学の准教授だ。いくつだか正確には知らないけれど、若くして准教授なんていう地位にいるのだから、相当頭が良いわけで。
しかし、話をしていると、この人は本当に大学で教えられているのか、非常に不安になってくる。
「どうかしましたか? 事務員さん」
「いや、ちょっとこの大学の未来について考えていました……」
「さすがですねー」
何がさすがなのかはあえて突っ込まず、私は自分の手元に目を移した。そして、カップの中身を飲み干した。
今、彼と私は休憩中で、大学内の給湯室にいる。
ちなみに、教授は分からないが、私は別に暇人ではない。
ここで飲める、ある飲み物が美味しいから、通っているのだ。
「あの……ですから、ね……」
言い淀む内藤教授を無視して、そっぽを向く。
「聞いて下さいよー」
涙目になっている内藤さんを、ちらっと見て、「虐め過ぎたかな?」と少し反省する。
でも、やっぱり悔しいのだ。
「教授がレモンを好きなのは、周知の事実です。全く専門外の、レモンの研究と称して提出した論文には他の教授たちが驚愕したのも覚えてます。今更教えて頂かなくても、大丈夫です」
……やっぱり、彼に常識はないかもしれない。
「ケータイストラップに始まり、黄色の小物を大量に持っている。しかも、形がすべて一緒のレモン型。机の上には何故かレモンの写真が飾ってある。休憩中にはレモンティしか飲まない。マドレーヌの中に入っているレモンの皮が好き。……立派な、変態ですね」
「へ、へんたい……」
「違いますか?」
まあ、それだけ好きになれるものがあるというのは、悪いことじゃないだろう。
私の様に冷めきった考えばかりしているより、夢があって良い。
好きなものを好きといえるのは、彼の長所だと思う。
どんなに情けなかろうと、彼には学ぶ点が多い。特に私は。
飲みかけのレモンティが、私の目の前に置いてある。彼の大好きなレモンが入っている、紅茶だ。私も、嫌いではない。
私に言われた四文字の言葉を繰り返し呟く彼に、私は声をかけた。
「教授。これ、飲んでも良いですか?」
「は、はあ……?」
曖昧な返事を無理矢理肯定と取って、私はレモンティを口に含んだ。
――甘くて酸味がある。
本当に悔しい。
こんなものに負けるなんて。
「あ、あの……」
「何ですか?」
教授の顔を見ると、真っ赤に染まっている。
まさか、私がレモンティを飲んだから、真っ赤になるまで怒っているとか?
もし、そうだったら、もうここに通うのは止めようと思う。
恋敵がレモンなんて、馬鹿馬鹿しいにも程がある。
「何ですか? 教授」
「そ、それ……内藤が飲んでいたものなんですが……」
「知ってます」
じゃなければ、見せつける様に飲んだりなんかしない。
「そ、そうですか……」
「もう! 怒っているなら、はっきり言って下さい。そしたら……」
「そしたら?」
「もう、ここには来ないので」
「いやいやいや。ちょっと待って下さい。話が飛躍し過ぎてよく分かりません。なんで、内藤が怒っていたら、ここに来ないなんて話に……?」
「だって、お茶を飲みに来てるんです」
「え、ええ。それは、そうですね。ここは給湯室ですし……」
「教授が一緒じゃなきゃ、わざわざこんな遠くの給湯室まで来ませんから」
「いや、あの……」
こんな気づいてくれるかどうかも分からないことをして、馬鹿みたい。
私がわあわあ悩んでいると、教授はやっと落ち着きを取り戻したらしい。口元に笑みを浮かべている。
「香水。レモンの香りですね」
「はい……」
「そのチョイスは誘っていると仮定してもよろしいということですか?」
「……」
おどおどしていた教授は、いきなり目を輝かせ始めた。
「正直、もう耐えられそうにないんですよ、事務員さん。事務員さんが、内藤のレモンティを飲んだりなんかするから、大学でしてもいいかな? って気分に……」
彼は数歩下がった私の手を取り、間を詰めて来た。
意外とがっしりしているその手は、男の人の物で。こんな状況下にありながら、少しときめいてしまった。
「事務員さん、ほんとーに可愛いですね……」
そう言われたと思ったら、首筋を舐められた。
「なっ、何をする気ですか!?」
「いや、だから、ナニを」
「止めて下さい。そして、近づかないで下さい。鼻息荒いです」
「いや、それは事務員さんのせいです。レモンの香りなんかさせて、そんなに内藤が欲しかったのですか?」
「……」
否定は出来ない。しかし、肯定なんかもっと出来なくて、私はただ顔を赤く染めたまま停止した。
「じゃあ、今あげますねー」
「下ネタは止めて下さい!」
「火をつけたのは、事務員さんですからね。責任は取っていただかないと」
「!?」
彼の左手が身体を這う。
右手は背中をなぞり、左手はタイトスカートの中のストッキングを脱がせにかかっている。
触れているのに、触れていないような力加減が上手い。
彼の手は温かくて、でも、ここは――
「給湯室です!」
彼の鳩尾に一発くらわせ、あわてて服を直す。周りを見回すが、どうやら誰にも見られていなかったようだ。良かった……。
も、もったいない気もするけど、でもやはり見つかった瞬間に二人とも職を失うリスクを考えたら、これが正しいはず。いや、もうこれは確実に私が正しい。
「ひどい。ひどいです……」
だから、目の前で顔を覆いながら、しょぼくれている彼を見て、罪悪感に苛まれる必要は無いはずだ。
私はさめざめと泣く「この人のどこに惚れたんだっけ?」と更に酷い事を考えた。
でも、好きなんだよ!
「……今日の夜は暇ですから」
これが、今の、私の精一杯の勇気ですから。
「!?」
彼は驚いたあと、ふにゃんとだらしない笑顔になった。
……ああ、何か癒される。
「事務員さんのそういうところが好きです」
ああ、そうだ。
彼はいつも素直で、真っ直ぐ過ぎるほど真っ直ぐなんだ。
かたや、私はレモンの香水をつけるのにも三日三晩悩んだほど、素直になれない人間だから。
「……私も教授が好きです」
やっと言えたと思ったら、いきり立った教授をまた殴らなければいけなくて。
嬉しいやら、恥ずかしいやらで、今日の夜もすっぽかしてやろうかと思った。