最後の封印
修復を再開したのは、リーシャが倒れてから四日後だった。
朝の港。ハルトの漁船が桟橋に繋がれている。ハルトは渋い顔をしていたが、レイドの目を見て——何も言わずに舵を握った。
「赤い海だ」ハルトが呟いた。「漁師五十年——こんな海は初めて見る」
海面が赤みを帯びていた。水平線の近くでは明確に赤い光が海底から透過し、海全体が病んだ生き物のように脈動している。
魔の海域に入った。波が異常に高い。船体が左右に揺れ、水夫たちが懸命に櫂を操った。
「海流が——前より乱れている」フェリクスが計測器を見た。「渦の数が倍になっています」
断崖に着いた。干潮を待ち、通路に入った。
通路の状態は——レイドとヴェルディアの補修が効いていた。壁面の亀裂は塞がり、水の滴りも少ない。だが通路全体に——赤い光が滲んでいた。壁面の紋様が本来の青緑ではなく、赤みを帯びた紫色に変わっている。
「イルヴァーンの力が——通路にまで浸透し始めている」ヴェルディアが壁面に触れた。「急がなければ」
広間に辿り着いた。
結晶球を見て——リーシャが息を呑んだ。
青い領域は七割六分から——七割に後退していた。四日間で六分を削られた。そして赤い脈動は——前とは明らかに違っていた。
赤い光が——結晶球の底部に集中していた。上部は青い領域が広がっているが、下部に赤い光が凝縮し、異様な密度で脈打っている。
「集束が——進んでいる」ヴェルディアの声が低い。「イルヴァーンが赤い力を一点に集めている。このままでは——」
「封印の底を突き破る気か」
「可能性がある。通常の封印破壊は——全体を均等に削って崩壊させる。だがイルヴァーンは——一点に力を集中して穴を開けようとしている。針で布を突くように」
「対策は」
「底部から修復する。赤い集束点を——直接潰す」
リーシャが碧眼を閉じた。深呼吸。そして——目を開けた。
「やります」
結晶球の前に立った。両手を翳す。だが今度は上部ではなく——底部に向けて。
碧の光が結晶球の底に向かった。赤い集束点に触れた瞬間——強烈な反発が返ってきた。
「ぐっ——」リーシャの体が後ろに押し戻された。レイドが支える。
「声が——来ます。前より——強い」
「『守り手の娘。お前の力は認める。だが——遅すぎた。準備は整った。お前たちが封印を完成させようと——もう関係ない。穴はすでに——開き始めている』」
結晶球の底部が——割れた。
物理的に割れたわけではない。赤い光が集束した一点から——裂け目のような線が走り、そこから黒い靄が噴き出した。
「封印に——穴が」フェリクスが叫んだ。
黒い靄が広間に広がった。冷たい。骨の芯まで凍るような冷気。靄の中から——何かが形を成そうとしていた。影のような、実体のない手が靄の中から伸びた。
「ガレス!」レイドが叫んだ。
ガレスが大盾を構えて前に出た。影の手が盾に触れた瞬間——盾の表面が凍りついた。白い霜が金属を覆い、ガレスの手が震えた。
「冷てえ——! だが——止まる!」
ガレスが踏ん張った。大盾で影の手を押し返す。だが靄の中から——二本目の手が伸びた。
「ジーク!」
ジークが剣を抜き、二本目の手を斬った。剣が手を通り抜けた。実体がない。
「斬れねえ——」
「物理攻撃は効きません!」ヴェルディアが叫んだ。「魔力で——封じるしかない!」
リーシャが歯を食いしばった。結晶球への修復と——穴からの噴出を止める作業を同時にやらなければならない。
「レイド。——全部ください。全部」
レイドがリーシャの背に手を当てた。残った魔力の全てを——注ぎ込む。体が軋む。視界が白くなる。だが——止まらない。
リーシャの両手から碧の光が爆発的に放たれた。右手が結晶球の底部に向かい、赤い集束点を塞ぐ。左手が靄に向かい、噴出を押し戻す。
広間全体が碧と赤の光で染まった。二つの力がぶつかり合い、衝撃波が空気を震わせた。
「『——やるな、守り手の娘。だが——これは序章に過ぎない。穴は塞がれても——次はもっと大きく開く。三千年の準備を——舐めるなよ』」
リーシャが叫んだ。声ではなく——碧の光が叫んだ。結晶球の底部の裂け目が——塞がった。赤い集束点が碧の光に呑み込まれ、消散した。黒い靄が——引いていく。
影の手が消えた。広間に静寂が戻った。
リーシャの手が下がった。膝が折れた。だが——今度は倒れなかった。レイドが支え、ガレスが背後から支えた。
「塞がりました——穴は。でも——」
リーシャの碧眼が結晶球を見つめた。
「赤い領域は——まだ二割残っています。そして——底部の封印構造が損傷しました。穴は塞いだけれど——封印自体に傷がついた。次に同じ攻撃を受けたら——塞ぎきれないかもしれない」
「時間が——ないのか」
「ないかもしれません。残り二割を——今日中に終わらせる必要があります」
レイドは仲間を見回した。ガレスの大盾に霜が残っている。ジークの剣が冷気で曇っている。フェリクスの計測器が震えている。
「やれるか」
「やるしかねえだろ」ガレスが盾を構え直した。
「同感だ」ジークが剣を鞘に戻した。
リーシャが結晶球に向き直った。
「最後の——二割。始めます」
碧の光が——再び、結晶球に注がれた。




